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翌朝、午前八時。ロンドンの空からは、霧のような細かな雨が降り注いでいた。クロエが『エメラルド・ビーン』の看板を出して間もなく、昨日と同じサファイア・ブルーのベントレーが滑り込んできた。
ドアが開くと同時に、冷たい外気と共に圧倒的な存在感が店内に流れ込む。ジュリアン・ヴァンスは、チャコールグレーの最高級スリーピース・スーツに身を包み、まるで自身の役員室に入るような足取りでカウンターの端の席へと向かった。
「……本気だったのですね」
クロエは手を止めることなく、低く落ち着いた声で言った。ジュリアンは、ワイヤレスイヤホンを耳に装着しながら、スリムな最新型のノートPCをカウンターに広げる。
「私はビジネスにおいても、プライベートにおいても、一度口にしたことを違えたことはない」
ジュリアンはそう言うと、画面に並ぶ複雑なチャートと数字の羅列に鋭い視線を向けた。
「ブラックを一杯。……それと、一時間後に予定されているマンハッタンの再開発会議が終わるまで、私の視界に入る場所を離れないでくれ」
傲慢な命令。だが、その声には不思議と人を惹きつける磁力があった。クロエは小さく溜息をつき、豆を挽き始めた。ミルが刻む規則正しい音と、ジュリアンが電話の向こうで放つ冷徹なビジネス用語が、奇妙な二重奏 (デュエット)となって店内に響く。
「……二十億ポンド以下の提示なら、即座に交渉を打ち切れ。我々が求めているのは利益ではない、その土地が持つ『支配権』だ」
電話の向こうの相手を震え上がらせるような、無慈悲な決断。クロエは、彼が普段どれほど過酷で孤独な戦場に身を置いているかを察した。何千人もの運命を指先一つで左右する男。これまでの女性たちは、この富と権力に平伏し、彼を甘やかすことでその寵愛を得ようとしてきたのだろう。
だが、クロエが差し出したのは、媚びを含まない「真実」の一杯だった。
「お待たせいたしました。……少し温度を下げてあります。あなたの神経が、あまりに昂ぶっているようでしたので」
ジュリアンは、厳しい表情を崩さないまま、無造作にカップを口に運んだ。――その瞬間、彼の動きが止まった。
舌の上に広がるのは、複雑に重なり合った琥珀色の魔法。鋭い苦味の奥に隠された、果実のような仄かな甘みと、大地を感じさせる深いコク。それは、これまで彼が社交界で口にしてきた、どんなに高価なワインやシャンパンよりも、雄弁に「誠実さ」を物語っていた。
「……っ」
ジュリアンの喉が微かに鳴り、ネイビーの瞳が驚きに揺れた。強張っていた肩の力が、一気に抜けていく。冷徹なビジネスマンとしての防壁が、たった一口のコーヒーによって、鮮やかに崩壊させられたのだ。
彼はカップを置くと、ダークブラウンの髪を乱暴にかき上げ、そのままクロエをじっと見つめた。その視線は、もはや「攻略」を企むプレイボーイのものではなく、渇いた魂を癒やされた男の、切実な渇望に満ちていた。
「……何をした」
「ただ、豆の声を聞いただけです」
クロエは静かに答える。
「君という女は……」
ジュリアンは身を乗り出し、カウンター越しに彼女の顔を覗き込んだ。至近距離でぶつかり合う、彼女の灰色の瞳とネイビーの瞳。
「金では動かず、言葉でも飾らない。ただ、こうして黙々と、私が必要としていたものを差し出す。……これまでに出会ったどの女よりも、君は手に負えない。そして……誰よりも、独り占めしたくなる」
ジュリアンは長い指先を伸ばし、クロエの頬に触れようとして、寸前で止めた。代わりに彼は、再び50ポンド紙幣をカウンターに置く。
「……明日の朝も来る。……いや、昼も、夕方もだ。私の仕事の効率を上げた代償だと思って、諦めてくれ」
クロエは、彼の強引な言葉の裏にある、不器用なほどの孤独を感じ取っていた。不動産王としての「オン」の顔で世界を切り裂きながら、彼女のカウンターでだけ見せる、あの一瞬の無防備な安らぎ。
孤高を貫いてきたクロエの心に、これまで感じたことのない、小さな熱が灯り始めていた。それは、嵐のような男に翻弄される予感であり、同時に、彼をさらに深く知りたいと願う、危険な好奇心の始まりでもあった。




