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ロンドンの朝は、常に銀色の湿り気を帯びている。路地裏に佇むカフェ『エメラルド・ビーン』の扉を開ければ、そこには街の喧騒を忘れさせる、深く、濃密なコーヒーの香りが満ちていた。
孤高のバリスタ、クロエ・サマーズは、カウンターの中で一分の無駄もない所作を見せていた。それは最高級の宝石をカットする職人のような、研ぎ澄まされた集中力だった。銅製のケトルから細く、均一に放たれる湯の筋が、挽かれたばかりの粉の中央へ、吸い込まれていく。ふっくらと膨らむ粉のドームを見つめる彼女の瞳は、琥珀色の液体に魂を吹き込もうとする錬金術師のそれだった。
だが、その静謐な空気は、重厚なV12エンジンの咆哮によって鮮やかに引き裂かれた。
店の前に停まったのは、サファイア・ブルーのベントレー。そこから降り立った男は、石畳を歩くその一歩ごとに、ロンドンの街を支配しているかのような圧倒的な威圧感を放っていた。
ジュリアン・ヴァンス。三十代前半にしてロンドンの不動産市場を掌中に収める若き「皇帝」。完璧に仕立てられたサヴィル・ロウのスーツを纏い、ダークブラウンの髪を洗練されたスタイルで整えた彼は、これまで数多の女性を、ただそのネイビーの瞳で見つめるだけで、意のままに操ってきた。
カラン、というドアベルの音が、クロエの聖域への侵入を告げる。
ジュリアンはカウンターに歩み寄るなり、高価な腕時計を見せつけるように腕を組んだ。
「……なるほど。噂通り、この掃き溜めのような路地裏には似つかわしくないほど、美しいバリスタだ。君が『エメラルド・ビーン』の守護聖人か」
クロエは視線を落としたまま、最後の一滴が落ちるまで手を止めなかった。そして静かに、だが凛とした所作で顔を上げ、彼の不遜な瞳を真っ直ぐに見据えた。
「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりでしたら、お伺いいたします」
ジュリアンは、わずかに眉を寄せた。自分と目が合って、頬を染めない女性は珍しい。ましてや、自分の存在を「ただのお客様」として扱うこの女の態度は、傲慢な彼の自尊心をかすかに刺激した。
「コーヒーを。それから、君の夜の時間も買いたい。……いくら積めば、この無愛想なエプロンを脱いで、私のディナーに付き合ってくれる?」
ジュリアンの指先が、カウンターの上に一束のポンド札を放り出した。これまで彼が「攻略」してきた女性たちは、この挑発的なアプローチに、欲望か、あるいは計算高い従順さで応えてきた。
だが、クロエは微塵も動じなかった。彼女はその札束を一瞥することもなく、夜露に濡れた花のような、冷たくも瑞々しい微笑を浮かべた。
「ヴァンス様とお見受けします。……あいにく、当店はコーヒーを売る場所であって、店主の尊厳を切り売りする場所ではございません。お帰りを。あなたの高価なコロンは、繊細な豆の香りを台無しにしてしまいます」
ジュリアンの口角が、驚きと興奮でわずかに吊り上がった。屈辱ではない。それは、最高級の獲物を見つけた狩人の悦びだった。
「……面白い。私の時間を断ったのは、君が初めてだ」
その時、ジュリアンのスマートフォンが震えた。彼は流れるような動作で電話を取り、瞬時に冷徹なビジネスマンの顔に戻る。
「……ああ、シティの再開発の件か。二十億ポンド以上での落札が条件だ。……私が行くまで、一歩も譲るな」
彼は電話を切ると、再びクロエに視線を戻した。
「仕事が立て込んでいてね。だが、覚えておくといい。……私は欲しいものは必ず手に入れる。たとえそれが、どんなに頑固な『孤高のバリスタ』であってもだ」
ジュリアンは最高額紙幣である50ポンド札をカウンターに残し、コーヒーも飲まずに店を後にした。
再び訪れた静寂の中、クロエは自分の心臓が、少しだけ激しく波打っていることに気づいた。恐怖ではない。それは、これまで経験したことのない、圧倒的な「雄」の熱に触れたことへの、本能的な困惑だった。
数分後。
店の前に、ジュリアンの部下と思われる男が現れた。
「ヴァンス様からの伝言です。……『明日から、私のオフィスをこのカフェのカウンターに移す。……君が淹れるコーヒーが、私の仕事のガソリンになるようだ』と」
クロエは、呆然と窓の外を見つめた。ロンドンの空は相変わらず灰色の雲に覆われていたが、彼女の平穏な日常には、今、最も強引で、最も甘美な嵐が吹き荒れようとしていた。




