第7話
たまに思う時がある。
もしもこの時、何か僕が選択していたら、何かできたことはあるだろうかと。
しかし、何度考えてもできることなどありはしなかった。
アッシュは案外早く二時間ほどで帰ってきた。正直言えばもう今日は帰って来ないと思っていた。何というか、あの2人の関係性的に朝帰りしてもおかしくはないと思っていた。そう言う覚悟はしていた。何の覚悟なのかは自分でもわからないけど。思ったよりは早く帰ってきたが、お酒の匂いを漂わせていた。別に酔っているわけではないだろうけど、息が酒臭い。
「会えたの?」
「……うん? 会えたよ」
お酒に酔って反応が悪い訳じゃない。単純にアッシュの反応は芳しくない。いつも察しが悪いと言われる僕だけど、流石にアッシュの機嫌が良くないことくらいはわかる。
「……なんかあったの?」
アイリと何かあったのかを聞かなかったのは気遣いのつもりだった。
「別に———」
いや、嘘でしょ。とは流石に言えない。なんかあったのはわかるけど。でも、聞いていいのかわからない。
「俺は寝る」
「え? 今日の吸血は?」
「———ちょっと寝たらまた起きる」
そう言って寝てしまった。
アッシュはそのまま僕のベッドで寝ていた。ベッドでゴロゴロとしていることはよくあることなのだが、寝入っているのは初めて見た。いつもベッドに横になっていても、深く眠る様子は見たことがない。無防備な姿を晒すのは中々レアだ。アイリとは何を話して来たのだろうか? それにお酒に酔っているのは、なかなか見ない。こうしてみると駄目なヒモ男みたいだ。
「フフッ」
なんだか笑いが込み上げた。別に馬鹿にしたわけではない。なんだかくすぐったいのだ。でもアッシュの生活はヒモみたいだと思いつつも、アッシュとの生活は楽しい。
アッシュは人としてのマナーは教えてくれるけど、社会的な一部として組み込まれている人ではない。基本的にはニートなのだ。ニートの癖して綺麗事を吐くなよと最初は思ったのだが、やけに手先が器用だ。裁縫や洗濯、掃除、料理など全て上手にやる。僕が引っ掛けた破いたジャージを見事に縫って直してしまった。それにテーブルマナーや日常の立ち振舞が上品だ。吸血鬼の癖して、僕に人間としての格の違いを見せつけてくるのだ。ひょっとしてアッシュは良いところの生まれなのでは無いだろうかとすら思ってくる。最初はアッシュのマナーに言い返していたのだが、あまりにもアッシュが上品なので、段々言い返せなくなってしまった。いや、勝手にベッドに寝る奴が上品な訳ないんだけど、説得力が凄いのだ。
ただこの寝顔を見るとあまりにも無防備なので、イタズラしたくなった。イタズラって一般的には油性マーカーを顔に書くって奴かな。あれってよく額に『肉』って書くけどなんで、なんで肉なんだろ。机を探してマーカーを探したけど水性しかない。
なんて書こうかな。
キュッ
マーカーのキャップを抜くとキュポッと可愛い音がした。
「いやいや、さっき機嫌悪かったのに駄目でしょ」
直ぐにキャップを戻して机に置いた。
理性ではいけないとわかっている。わかっているのに。
「この寝顔ズルい! イタズラしたい!」
本当にこんな好機は今後訪れないってくらい無防備なのだ。
その時、良からぬ発想が浮かんだ。
「バレなきゃいいじゃん」
自分でも意外なくらいに乗り気だった。バレないイタズラなんて直ぐに思いつかない。しかし、ほっぺたを突っつくくらいならしてもいいだろう。
いや、でも起きたら怒られるか?
でもな。と部屋を一周して迷ったあげく、ほっぺを突っつくことに決めた。
僕は忍び足で近づいた。さっき独り言言ってたとか、部屋を周っていてうるさかったこととかは一度忘れることにする。
アッシュの目の前に立つとその寝顔にほくそ笑んだ。あのアッシュがここまで無防備なのだ。今やらねばいつやると言うのだ!
僕はアッシュに手を伸ばした。
ガシッ
「うん?」
伸ばした手を掴まれた。
そのまま手を捻られると合気道の技を食らったみたいに身体が自然とベッドに倒された。
「君! 起きてたの!」
騙された! あのアッシュがそのまま平和に眠っている訳がない! わざと僕が手を出すまで待ってたんだ。
「謝るから! 謝るから離してよ!」
しかし、中々離してくれない。
「本当に謝るから」
でもずっと黙ってる。もしかして怒っている? アッシュは僕をベッドにうつぶせに倒した後、上に乗ったから表情が見えない。
「ご、ごめんって」
どうしよう。本当に怒ってる? アッシュを本気で怒らせたことなんてない。
スゥ
ん?
スゥ スゥ
安定した呼吸音を感じる。
いや、これ。
「寝てんのかい!」
寝ながら人を拘束できるってなんだよ。帰還兵かよ!
「ちょ、本当に拘束解いて」
アッシュの身体は熱いし、変な体勢で拘束されてるからちょっと痛い。でも、なんか起こすのは気が引けた。変な体勢でいることとワンチャン怒られるかもしれないけど起こすことを天秤に掛けた。
結局天井の染みを数えることに決めた。
アッシュの目が覚めた。
僕としてはやっと起きたかという気持ちだった。
「お前何やってんだ?」
「君に拘束されたんだよ!」
まあ、元々は僕がイタズラしようとしたのだが、それは言わないでおく。
「———そうか」
しかし、アッシュの反応は思ったのとは違った。
お酒を呑んでいたからかも知らないが、アッシュの目は冴えわたっていて、ギラギラとしてすこし怖かった。
「今何時?」
「まだ十二時だけど」
アッシュは僕の服を掴んで脱がそうとしてきた。
「ちょ、ちょっと」
抵抗するが、その万力のような手を退かすことはできなかった。でも、本当に脱がすわけではなく、包帯を取るために上げただけだった。
「言ってよ。びっくりするじゃん」
「傷はもうなくなったな」
アッシュと言えど、異性にお腹を見られるのは恥ずかしい。
「そうだけどさ」
なんだか最初に会った時みたいにぶっきらぼうだ。
「外」
「え?」
「外出るぞ」
そう言って部屋を出てしまった。
僕も置いて行かれないように出ていく。
「寒っ」
少し肌寒いもののアッシュが行ってしまうので、上着を取りに行くこともできず、追いかけていった。
「待って、待ってよ。アッシュ」
アッシュが起きるまで待っていたのに、この態度は酷いんじゃないか?
だけど、そんな軽口も口に出せなかった。
翻ってこちらを見るアッシュの目は赤く、煌々と光った。夜行性の猛禽類の目が光る様に、獲物を見つめる様に見えた。
大丈夫。そんなことはない。アッシュは他の人と違う。僕を小馬鹿にしたりはしないし、今は少し気が立っていて怖く見えるだけだ。
「まあ、ここでいいか?」
そう言ってアッシュが立ち止まった場所は夜の公園だった。
「ここじゃあ、周りに一人もいないよ」
いつもぶらぶらと街を歩くのはターゲットを探すためだ。繫華街から外れ、一人の時を狙って、噛みつく。意外と夜に出歩く人は多い。誰がいいか吟味するくらいには人がいた。でも、この夜の公園は周りに住宅が近く、出歩く人はいなかった。
「今日は吸血はしない」
アッシュは真剣な眼差しでこちらを見つめてきた。アッシュが真面目にこちらを見つめるなんて滅多にない。
「……どうしたの? アッシュ怖いよ。いつもそんな真面目な感じじゃないじゃん」
今日のアッシュは昨日までのアッシュじゃないみたいだ。僕が襲われたときだって、危機感すら感じてなかったじゃん。それを見てまだ大丈夫なんだって安心できた。
「・・・・・・」
アッシュは黙った。
「———アイリに何を言われたの?」
僕だって流石に馬鹿じゃない。アッシュの雰囲気が変わったのはどう考えたってアイリと話に行ってからだ。アッシュのことは信じてる。でもアイリは違う。ただ喫茶店で話しただけだ。
「関係ないよ」
「嘘つかないでよ!」
アイリは話してみたけど悪い人だとは思わなかった。でも、裏で何か言ったのなら悪い人だ。
「さっき、アイリと会うって言った時はそんなんじゃなかった!」
それを意識していたのか、ばつが悪そうにしていた。
「……お前を人間に戻せって」
アッシュが重い口を開いた。
「は?」
言っている内容もそうだけど、前に言っていた事と違う。
「人間に戻せないって」
前に言ってた。
「別に俺ならできる」
嘘だ。
「なんで戻すの?」
「戻した方が良いと思ったからだ」
嘘だ。
「どうして戻すの?」
「お前のため」
嘘だ!
「お前のため、お前のためって、嘘つかないでよ! 君が本当に思っているのはそのアイリって娘のためだろ」
「—————」
なんで黙るんだよ。嘘じゃないって言うなら黙らないでよ!
「君が、君が! 僕を吸血鬼にしたんじゃないか!」
それに。
「それに勝手に吸血鬼にした。あそこで助けてくれなんて頼んでもないのに」
嘘だ。誰か助けてくれって思っていた。
「君に責任があるんだろ」
「ああ、だから俺が責任を取って人間に戻す」
違う。そうじゃない!
「なんでなの? 僕に才能がないから? 一人で吸血もできないから? 吸血鬼として僕が不出来なのはわかるよ。でも、頑張るからさ、頑張るから僕を人間に戻さないでよ! 」
「違う。俺が悪い」
「じゃあ、なんで僕から吸血鬼を奪うの?」
「違う。俺がお前から人間を奪った」
「じゃあ、いいじゃん。いつでも吸血鬼に戻せるのなら、いつでも人間に戻せばいい。でも今じゃなくていいじゃん」
「駄目だ。今じゃないと戻せない」
「それならずっと吸血鬼にしてよ」
アッシュはただ首を横に振るばかりだ。どうしてわかんないんだよ!
「僕は!」
力いっぱい主張しようとした。でも、思いばかりが先行して、何もそれに続く言葉が思いつかない。
「僕は…」
縮んで萎れるように声が小さくなる。吸血鬼になってなりたいことはなんだ? あの超能力を使う? 吸血行為?
どれも違う。
僕が吸血鬼になってやりたかったことなんて一つしかなかった。
君と、ただ、君と一緒に———。
それに気づくと僕は走り抜けた。一分でも、一秒でも長く吸血鬼でいるために。
しかし、アッシュと反対に逃げたにも関わらず、アッシュは僕の正面にいた。アッシュとぶつかって尻もちをつく。
逃げることなんて不可能だ。だってあのチャラい吸血鬼よりアッシュは強いんだ。そんなことは最初からわかってる。わかってるんだ。
「ごめん」
謝るなよ。
「謝るくらいなら吸血鬼にするなよ」
「……本当にそうだ」
肯定しないでよ。
アッシュが抱き寄せた。首元に生暖かい空気を感じる。アッシュの口が近いのだ。何をするのかわかる。何をされるのかわかる。
それは一線を超える行為だった。アッシュと僕に線なんてなかった。お互いがお互いに気にしていなかった。でも、そこにアッシュが線を作って僕を弾き出そうしている。
「イタッ」
首元に痛みが走った。しかし、それは一瞬のことで、すぐに温かみのある気持ちの良さに変わった。
初めて噛まれた。
もしかしたら僕が吸血鬼になっているときに噛んだかもしれないけど、僕にその記憶はない。だから初めてだ。
僕の身体を支える右手は優しく、左手は暖かく、力強くさすってくれる。何の抵抗もできない。僕はされるがままだ。気づけば目じりに涙が浮かんでいた。
僕はそれを溢してしまわないように上を向いた。
泣いちゃ駄目だ。
だって痛い訳じゃない。
この涙は痛いからじゃない。
赦せないことがいっぱいある。
でも、アッシュには敵わない。このがっしりとした手を払い除けられる気も、そもそもそんなことする気も起きない。
でも、アッシュにただ捨てられるのは嫌だ。
せめて爪痕を残したい。
アッシュからしたら僕なんて数多いる女の子の一人かもしれない。でも、そんなこと赦せない。
僕はアッシュが血を吸うのを辞めるのを見越して噛み付いた。
アッシュの首元に牙を立てた。
「っ!」
たぶん痛かったわけではなく、驚いただけだろうと思う。
「僕は君を赦さない」
君なんか。
「吸血鬼にしたことも。人に戻したことも!」
君なんか!
「君なんか! 絶交だ!」
———ゼッコーなんて言葉は小学生が使う可愛らしい言葉だと思っている人もいるだろうけど、決して生やさしい言葉ではない。交わりを絶つと書いて絶交。もしも僕とアッシュが家族関係だったら、絶縁という言葉になるだろう。僕にとってはそれだけ重かった。彼にとってどれだけ重いかは知らないけど、僕の重みを知って欲しかった。
「———わかった」
カッと頭に血が昇った。
「———ぁあああああ」
言葉にならない叫びが出た。
この思いを言葉にしたかった。
でも、脳みそが働かない。
血を吸われたからか、それとも人間に戻ろうとしているのか、僕の意識は途切れそうになっていた。一瞬の怒りでそれに抗っていただけだ。
もう一度怒れば、抗えたかも知れない。
だが、怒り続けられる人間などいない。
僕の世界は暖かい暗闇に包み込まれた。
目が覚めると僕は自分の部屋にいた。
「———っぁ」
喉から声が出ない。
「ぁ、あ」
その名前を呼ぼうとして口を閉ざした。
部屋を見渡した。そこには僕の部屋があった。そこに誰かいた形跡もない。
無味無臭無色透明の僕の部屋。
僕はこの鋭敏なまでの静けさに耐えきれなくなった。
ポロポロと涙が溢れる。
アッシュの前で泣くまいとしていた。
でも、もう我慢できない。
信じてた。信じてたのに。
もはや何を信じていたかもわからない。でも、信頼していたという記憶だけが残っている。
「ぁああ」
———絶交なんて言わなければ良かった。
———絶交なんて言わなければ良かった!
怒りのままに絶交した
アッシュに爪痕を、傷痕を残そうとした。
でも、傷痕が残ったのは、僕だけだ。身体にナイフでも差し込まれたように、ずっと大きく深い穴が僕に刻み込まれた。傷の周りを擦っても、傷の奥から痛み出す。血が流れ出す様にあの時の出来事が溢れる。
「———僕が言ったから」
あの時裏切られたと思った。
だから裏切られるくらいならと僕が言い出した。
でも、本当は違う。
裏切ってないって言って欲しかっただけだ。
わかったなんて言わないで欲しかった。
わかったなんて言われたら僕らはもう戻れない。
その言葉で僕達の関係は決まってしまった。
ごめんなさいでも
———もう戻らない。




