第6話
朝起きると鏡で八重歯を眺めた。
「へへっ」
朝食を食べ終わると歯磨きの時間だ。
歯ブラシに歯磨き粉を付け、八重歯を熱心に磨く。鏡に映る前だけじゃない。後ろの方もやらないといけない。
「あんた遅れるよ」
お母さんに声を掛けられ、もう学校の時間だと気付いた。
やばい。世界一楽しい歯磨きの時間だったかも。
学校に着くと溜息を吐きながら眠ったフリをした。学校の皆は知らないだろうが、僕は吸血鬼だ。今はまだ覚えていないけど、そのうち、血制約定だって使える様になる。一体どんな能力にしようかな。時を止めるとか、重力を操作するとか行けるのかな。昨日はどんな能力にするか考えていたら寝れなかった。
「ねえ、アキラさん」
声を掛けられると思わず、過剰にビクッと身体が反応してしまった。
しまった。これじゃあ寝たフリで回避できない。
「何?」
せめて眠そうなフリだけはしておく。塾ならまだしも山下さんがクラスにいる僕に声を掛けてくるなんて珍しい。
「やっぱり怒ってるよね」
怒ってる? 何の話?
「でもね。急にアキラさんがトンネルから消えちゃって皆で探したんだけど、見つからなくて———」
あの時そうなってたんだ。1ヶ月以上前のことなんて忘れていた。もうどうでもいいよ。
「⋯⋯別に怒ってないよ」
何なら吸血鬼にしてくれて感謝しているし。あの時の思い出は何なら既に美化されて、怖い思い出ですらない。
「⋯⋯なんか雰囲気変わった?」
「⋯⋯そんなことはないよ」
そんなことはあるかも。ほら、やっぱり僕吸血鬼だし。
超能力ができたらもっと見直して貰えるかも。
「どうしたの? 笑って」
「⋯⋯何でもない」
学校が終わると直ぐに帰る。だって学校に長居してもしょうがないじゃん。ここから僕の楽しい時間が始まる。ここから楽しい夜が始まる。
———筈だった。
僕の帰り道には駅を通らないと行けない。あのアッシュと女の人がいた駅だ。遠回りできないことはないけど、わざわざそんなことはしない。だってあの女の人はここら辺に住んでいる訳ではなく、アッシュに会いにここまで来たのだから。
それに僕の顔すらあちらは知らない。もし目の前を通っても知らん顔をしておけばいいのだ。
そう思っていた。
「ねえ、ちょっといい? ヴァンの知り合いでしょ?」
ビクリと身体が飛び跳ねた。
「……はい」
綺麗な女の人が話し掛けて来た。一応知らない人ではない。ヴァンという知り合いはいないのだが、ヴァンという人物が誰を指しているかはわかってしまった。あの金髪の吸血鬼もそうだけど、アッシュをアッシュだと呼ぶ人は少ない。恐らくは偽名なのだ。でもヴァンと呼ばれた人がアッシュだとわかるには理由があった。だって僕個人に話しかけてくる人などいないのだから。
「いや、知らない人で——」
一応誤魔化してみる。
「いや、ヴァンの匂いが滅茶苦茶するからわかるよ」
どうゆうこと?
ドラマとかで見るワイシャツを嗅いで浮気がわかるのってもしかして本当にわかるの?
僕は自分の服を嗅いだ。
「いや、そう言うことじゃないから。まあ、私も変なこと言ったけどさ」
顔を上げると目の前にいる女の人の顔を改めて見た。僕はこの人を一度遠目から見たことがある。目の前の人は僕よりも綺麗で可愛くてお洒落で清楚。そう、アッシュの彼女、その人でした。
「ここら辺詳しくないんだけど喫茶店か何かある?」
いくら友達がいない僕といえど駅周辺の喫茶店くらいは知っていた。行ったことはないけど。
「大丈夫よ。奢ってあげるから」
僕の足取りが遅いことが気になったのか、そう気遣われるが、そこではない。アッシュの彼女と喫茶店でお茶をしなければいけないことに対して気が重いのだ。だが、気付かれることはなかったし、気付かれたってどうすればいいかわからない。
「…あ、ありがとうございます」
喫茶店に着くと当然対面に座る必要性があるわけで、そもそも僕はコミュ症なわけで。
「「……」」
当然無言になる訳だ。
「な、何頼む?」
「え、あっ、こ、コーヒーで」
「じゃあ、私もコーヒー…やっぱりココアで」
「「……」」
店員さんに頼んだ後再び沈黙が訪れた。
え? これって僕が喋らないといけないの?
年上の人が喋るとか、誘った方が喋るとか、そんなルールが世に蔓延っていると思っていたけど、実はそんなことはない?
もしかして僕が話しかけないといけないのか。
「———」
「な、何か用があって呼んだ訳じゃないんですか」
沈黙を続けるので、僕の方が耐えきれなくて気になっていた事を聞いてしまった。
「え? ああ、うん。最近、ヴァンどうしてるかなって」
何だ。そんな質問か。どんな答えが返って来るのかと思った。拍子抜けする様な普通の質問だ。
何だか警戒し過ぎたかもしれない。アッシュならいつも通り僕の部屋で寝て、いつも通り僕の部屋で起きて、いつも通り夜の散歩に出かける。そんな何の変哲もない日常を過ごしている。
そう言えばいいじゃないか。
「あっ」
危ねえ!
いやいや、冷静になれ。
いつも通り僕の部屋で寝て(意味深)、いつも通り僕の部屋で起きて(意味深)、いつも通り夜の散歩に出かける(意味深)。
全部アウトだよ!
「い、いや、元気にしてるんじゃないですか。僕はずっと一緒にいるわけじゃないんでわからないですけど」
この質問の意図を考えろ。
僕には確信があった。
これって浮気チェックだ!!
まるで言い訳するように早口で喋ったのだが、言い訳なので早口なのである。
危ない。変なことを言う所だった。
いや、別に浮気とかしていないというか、そもそもアッシュと付き合っている訳じゃない。
ただ、その、何というか、給餌行為が、その、第三者目線だとあまり褒められた行為じゃないというか。見た目上は! 見た目が悪い行為と言いますかね。別に悪く思われる様な行為じゃないというか、いや、悪いとは思ってるんですよ。
ねえ、わかるじゃないですか!
「「……」」
まだ名前も知らない女の人が黙ってしまった。僕としてもこれ以上地雷を踏みたくない。
———何でこんな気まずいことになってるんだろ。
ていうか元々はアッシュが悪いだろ!
「ヴァンとは元気にやってる?」
丁度アッシュについて考えていたので、変な声が出た。
「へ?」
やっぱり僕は疑われている。しかし、疑われているということはまだ核心に迫っているわけじゃないみたいだ。浮気だと決定的な証拠がある訳じゃない。
「そこそこです」
「そこそこかあ」
これが玉虫色の回答という奴だ。
「ヴァンのこと好きじゃないの?」
これは、僕に好きと言わせようとしてる!?
いや、聞いたことあるぞ。浮気されるのは嫌だけど、浮気相手が愛されているということに優越感を覚えるタイプだ。少女マンガで見た。これは好きじゃないなんていっては絶対に駄目。好きじゃない癖に好かれるなんてと思われてイジメられるパターンだ。
「そこそこ好きです。友人として」
友人を強調して言う。これが正解だ。
「そうなんだ」
ころころと笑った。ここで初めてこの人の笑う姿を見た。やっぱり正解だったみたいだ。浮気相手が愛されているということに優越感を覚えるタイプなのか。
「良かった。ヴァンもちゃんと愛されていて」
既に僕は、この人に恐怖を覚えていた。ヴァンの知り合いだから怖い人なのはしょうがないのかもしれない。
ただ僕はこの時、本当はこの人の笑顔がそんな歪んだ笑顔ではないことには薄々気づいていたのである。まだこの時はこれを上手く言葉に出来なかった。恋愛とかそういった感情と言うにはあまりに大きな違和感を感じていた。ただこればっかりは、自分の人生経験が少なすぎてそんなことは咄嗟にわからなかったのだが。
「そうだ。自己紹介してなかった。ねえ、あなたって名前なんて言うの?」
さっきの回答で気を良くしたのか、今度はこちらをリードしてくれる。
「え、あっ、アキラです」
「僕はアイリよろしくね」
「あっ、はい」
そう言えば名前も知らない人とお茶してたんだ僕。何やってんだ。
「アキラちゃんはベース何年くらいやってるの?」
「へ?」
余りにも脈絡が無さすぎて僕は変な声しかあげることが出来なかった。いっそのこと聞き間違いかと思った。僕がコミュ症過ぎて話の前後を聞いていなかったのかと思っていたぐらいだ。
「あれベーシストじゃないの?」
アイリさんは僕が質問に答えられない様子を見せると喜んだ様な、悲しんだ様な、思ってもいなかったような、焦ったような、そんな複雑な表情になった。
「———そっか」
感情がぐちゃ混ぜになったのを咄嗟に誤魔化そうと飲み込んだようにしか見えなかった。
身体が一瞬前に出て、どういう意味か聞こうかと思ったのを止めた。僕なんかが聞くべきかはわからなかった。あえてそれに突っ込むようなことはできない。その複雑な表情にアイリとアッシュの関係性が匂った。
正直知りたいと思った。
でも、僕が知っていい内容かわからない。
アイリとは今日会ったばかりだし、アッシュだって踏み込んでいいほど仲が良いと言えるかわからない。
その表情の理由を一切掴むことができない。全く想像すらできない。
僕はこのアッシュとアイリの関係性について思うところはあったが、対人関係の薄さから何か質問の答え方を間違ったのかと焦り、この質問に上手く「対応」出来なかった。結果的にスルーしてしまったのである。
そしてこの質問の裏で僕の人生がかかった壮絶な事態が起こっているとは、露程にも思わなかったのである。
「ねえ、身長って何センチ?」
「151ですけど」
「血液型は?」
「O型です」
この一連の質問責めに対して、僕はさっきの失敗でパニックになり、頭に疑問符を浮かべながら答えるしか無かったのである。
「そうなんだ。あはは…」
と力なく笑う彼女を見つめるとまるで僕に言い訳でもするかのように言った。
「あっ、ただ私と同じってだけ」
「そうですか」
それが言い訳にもなっていないのだが、ただそう言う以外に良い答えが出なかった。
彼女だけが納得している。だけどさっきこれ以上聞かないと決めてしまったから、こちらから質問もできない。
「あの、お願いがあるんですけど」
「え、あっ、はい」
「ねえ、ヴァンを呼んでくれない?」
「え?」
でもスマホ持ってない中学生でもあるまいし、そんなのスマホとかで良くないか?
「スマホ連絡先持ってないんですか?」
「ヴァンってスマホ持ってないんだよ」
あ、吸血鬼だからか。
「別に買えないってわけじゃないのにね」
という言葉で、思考が遮られた。まあ、吸血鬼だってスマホくらい買えるだろ。何だよ。吸血鬼だから買えないって。
ただなんとなく嫌な気分になった。
「家に帰ればワンチャンいますよ」
何でかわからないけどメッセンジャーみたいになるのが嫌で断ろうとした。それに直接家にアイリさんを呼んだほうが早い。
「ううん。それじゃ駄目なの。私達三人はまだ揃っちゃ駄目だから」
三人が揃っちゃ駄目? どういうこと? まだ浮気って疑われているの?
アイリって人が少し話してわかるような気がしていたけどそんなことは全然無かった。
どんどんわからなくなる。まるで途中で考えを180度変えてしまったかのように、全く意味不明だった。
僕はよくわからないながらも、了承したのである。
結局奢ってもらうとその後すぐに別れた。最初の方は緊張していたが、ケーキまで奢って貰って、僕の機嫌は回復していた。誕生日でもないとケーキなんて中々食べれない。
それに僕はこうとすら考えていたのである。
「よし、今日はよく喋れたな」
家に帰る途中の夕陽が綺麗だった。茜射す太陽を中心に空がグラデーション掛かって暗くなっている。夏は夕陽が沈むまでの時間が遅い。そして日の出も早い。夏は太陽が一番長く出ているから暑いのだ。だけど、夏が近づくに連れ、夜の時間が短くなることなどこの時は体感できていなかった。
「ねえ、アッシュ、アイリが呼んでた」
家に帰ると当然のようにくつろいでいるアッシュに伝えた。
お前ら知り合いだったか? みたいな顔をされた。
「さっき話しかけられた」
「……あんまり知らない人に話しかけられても付いて行っちゃ駄目だぞ」
いや、確かにあの金髪の吸血鬼にも襲われたけどさ。あれは付いていった訳じゃなくて、付いて来られただけで⋯⋯
「君とアイリが前に一緒にいるの見たの!」
駅で見かけたことを追及されるかと思ったが、何も言われない。
「ふ~ん」
と興味なさげだ。
そうなると一つ疑問ができた。
「あれ? アイリはどうして僕のこと知ってたの? 話した?」
僕は駅で見たのは知っているからだけど、アイリが知っているのはなんでだ?
「いや、俺は話してないけど、吸血鬼は吸血鬼のことわかるから、それでわかったんだろ」
吸血鬼は吸血鬼のことわかる? そう言えば、あのチャラい吸血鬼も僕のこと吸血鬼ってわかっていた。
「僕わかんないけど」
「才能がないんだろ」
そこかよ!
血も飲めなければ、運動能力もそんなに変わってない。僕が才能ないんじゃなくてアッシュが本気で吸血鬼にして無いだけなんじゃないの?
「ていうかアイリも吸血鬼なんだ」
「うん、俺の眷属」
「……へえ」
別に僕だけがアッシュの眷属だとは思っていなかったけど、いざ目の当たりにすると不思議な感覚がする。知らない親戚ができたみたいだ。そんな経験は一度もないけど。アッシュと会ってから僕は吸血鬼になったと高揚感を感じているが、普通の人間であると気づき、失望してしまう。だって僕自身は何も凄くないから。きっとアッシュがいなくなったら、僕自身はきっと特別な人間じゃなくなってしまう。
その前に、アッシュがいなくなってしまう前に、僕自身は強くならないといけない。いや、せめて一人で血が飲める様にならないと。
「なあ、———なあ!」
「え? なんか言っていた?」
考え事をしていて気付かなかった。
「だからさ。アイリはなんて言っていた?」
「え? だから、アッシュを呼んできてって。アッシュ、携帯持ってないんでしょ」
「そのままかよ。アイツも別にお前の家に来れば良かったじゃん」
面倒臭そうに言う。
「一応そう言ったよ。第一、君が携帯持てばいいじゃん」
現代人なんだからと言おうとしたが、吸血鬼に現代人という枠組みが収まるとは思えなかった。ていうか何歳なんだ? 500歳とか生きてるの?
「でも、アイリに電話したら、俺に繋がるよ。大体は」
「それって電話番号教える時、アイリさんの教えているってこと? 今みたいな時意味ないじゃん」
ソッチのほうが面倒でしょ。
「人間はせっかち過ぎる。まあ、アイリだったら目の前にテレポートできるしな」
「テレポート!?」
「この間だって、お前の前に瞬間移動しただろ。まあ、理論上はテレポートじゃないけど」
「え!? あれも?」
学校とかそれで送って貰えないかな?
「テレポートっていうか、一回月に行って、目視で飛んできただけなんだけど」
一回月に行ってって、流石にそれは冗談だと思うけど。
「じゃあ、アイリに会ってくるわ」
そう言って出て行った。
これが僕の人生を大きく変えるとは露ほどにも思いもしなかった。




