第5話
「今日は血を飲まないでもいいぞ」
学校から帰ってきてすぐにアッシュはそれだけ言って出て行った。
「え?」
返事もする間もなく、出て行ってしまったのだ。
血を飲まなくていいとは勝手なことを言ってくれるものだが、実際一人で飲むことすらできない。なら勝手に黙って出ていけばよかったのに。そう思わないでもないが、実際黙って出て行かれたら、僕は心配してしまうだろう。
アッシュはスマホを持っていなかった。そればかりか財布も。たまに何かする度に僕から借りるが、僕も不思議と貸してしまう。命の恩人なので返せる時に恩を返しておくべきだと思ったのかもしれない。
アッシュのいない部屋はひどく広く思えた。見慣れていたはずなのに、自分の部屋がこんなに広かったことに驚かされた。ベッドだってこんなに広い。というか一人用のベッドに二人寝てたのか。ありえなくないか? 狭すぎるだろ。毎回吸血の後は眠くなって寝てしまうので、ベッドに入るのだが、そこでアッシュは僕と一緒に眠る。毎回抵抗する間もなく寝入ってしまい、辞めろとも言えない。
アッシュがいないことで寂しいとは決して思わない。むしろ清々した。幸か不幸か、今日は塾もない。久しぶりに一人で休める。いつもみたいにスマホを弄りながらベッドに潜り込んだ。時計を見るとまだ8時を回ったばかりで、12時まではまだ長い。アッシュが来てから、好きな動画が見れていない。アッシュの前で見てもいい動画のジャンルがある。別にアッシュから言われた訳じゃない。僕が自主的にそうしているというか、見られたくないというか。まあ、良いや。そういう訳で、今日は好きな動画を見ると決めた。
「暇だな」
動画を何本か見てしばらくした後、自分で呟いた言葉に自分で驚いた。
何を言っているんだ。僕は。学校で面白いこともない、塾でも面白いことなどない。でも、リビングにいると親が口うるさく言ってくる。だからこうやって自室に一人でいるのが、一番気楽で落ち着けたはずだった。
でも、今は落ち着かない。静かすぎて落ち着かない。静かすぎて部屋全体がピリピリと震えているように聞こえる。この一カ月、アッシュがこの部屋にいないことなどなかった。いつ帰ってもいる。食事をする様子も見たことがないので、どうやって生きているのか見当もつかなかったが、化け物なんだと思いスルーしていた。暇をすれば話しかけてくるし、勝手に本棚の漫画を読む。たまに深夜二人で映画を見たりする。僕の身体は吸血鬼になったせいか、僅かな睡眠時間でよく身体が動いた。それに塾がない日はベッドに入っていると12時ぴったりにアッシュが起こしてくれた。
「あっ」
僕が吸血鬼になってから一カ月間、僕はずっとアッシュと一緒にいたことに気づいてしまった。それこそ学校と塾以外はずっとだ。だからこそ、アッシュがいないのは久しぶりだった。
胸の奥に何かぽっかりと穴が空いていた。
それが何なのかよくわからなかったけど、布団の中で横になっていても良くはならなかった。
12時を回った頃、僕は夜の散歩に出ることを決心した。この言語化しがたい胸の苦しみを紛らわせるにはちょうど良いと考えたのだ。アッシュが来るまで夜の散歩に出ようと考えたことはなかったけど、中々に楽しい。何か落ち込むことがあっても、いつもアッシュと夜の散歩に出て、帰って来た頃には悩んでいたことなど忘れていた。それにアッシュと歩く夜の散歩は特別感があった。まるで夜を支配するように、僕たちは堂々と歩いた。音を立てないようにゆっくりとドアを開けるとそこには別世界が広がっていた。思い返してみれば、アッシュが隣にいないのは初めてかもしれない。
いつもと同じ通学路ですら、夜だと雰囲気がガラリと変わる。知っている友達もいなければ、(友達がそもそもいないというのは置いておいて)先生だってこの時間は通らない。両親も本当は気づいているのか、いないのか知らないが、別にアッシュがいるならとあんまり関与してこない。学校も親も、全て私が義務的に作られた環境から遠ざかることができる唯一の時間。夜が特別なのは、アッシュが隣にいるからじゃない。もともと特別な時間だったみたいだ。一人でも高揚感がある。僕が吸血鬼になったからこんなにも特別なのか、それとも元々特別なのかはもうわからない。
そういえば、僕は吸血鬼だった。
アッシュといるとその感覚を忘れてしまう。
吸血行為も異常な行為なのに、その感覚が麻痺していた。吸血鬼になってもアッシュからはマナーだの、人間としての立ち振る舞いだのを注意されるせいで、前よりもまともな人間になっている気さえする。
アッシュは僕を吸血鬼にしたいんじゃなかったのだろうか?
いまいち関係性がよくわからない。今思い返せば、命の恩人? なのだろうか?
———というか一体何でアッシュはあそこにいたのだろうか? 偶然? それともあのトンネルの化け物を退治しに来たとか。いや、聞けばいい話なんだけど、なんというか聞きづらいのだ。言語化し辛いのだが、こればっかりは人見知りとかではなく、聞くとアッシュを化け物だと認めてしまうような気がして嫌なのだ。
いや、アッシュは実際吸血鬼の化け物だし、何度か人とは違う倫理観なのも感じた。そういうことではなく、アッシュから化け物を感じるのが嫌なのだ。アッシュは私と喋っているときは人間の部分で喋ってくれている———気がする。いや、吸血鬼の化け物という意味では私も同じなんだけどなんと言えばいいかわからない。
とにかく私はどうやらアッシュを人間と思いたい様なのだ。人間と思ったからなんだという話ではあるのだが、日が経つにつれて、吸血鬼のことよりも人間のことを話すことが多くなった。僕自身も人間のことを考えるようになったし、学校の他の人を意識するようになった。
ああ、アッシュのことを考えているともやもやする。
顔を上げると夜のか細い電灯が僕を照らしていた。
そういえば、アッシュのことを考えないようにするために夜の散歩に出た気がする。
「音楽でも聞こうかな」
ポケットを探ってワイヤレスイヤホンを探すが、どこにもない。
忘れて来た。最近はアッシュに怒られるのでイヤホンは家に置いてきているのだった。
「なんかアッシュに狂わされている」
いつもの僕と全然違う。
アッシュといると人間に戻される。吸血鬼にされたはずなのに段々と人間的な感情を得ている。アッシュといるとフワフワしてピリピリして触ってはいけないものに触っている気がする。
「一体何がしたいんだよ!」
僕の悲痛な叫びも夜空に吸い込まれた。
心がざわざわとしたから叫んでみたけど、別に解決するわけでもない。それにいつもよりは声は大きいかもしれないけど、叫んでいるという程じゃない。アニメの主人公みたいに叫んだって何にも解決はしない。別にアッシュに不満があるわけではない。不満とこのモヤモヤは違うものだ。
そう言えば、化け物に助けてもらったのにありがとうを言っていない。その後にあったことが衝撃的で感謝も言ってない。
「ありがとうとごめんなさいと挨拶は言えるようになっておけよ」
アッシュはこう言っていたけど、助けてもらったお礼も何も言えてない。俺に言わなくて良いと言われたから本気で言わないで良いと思っていたけど、言ったほうが良いよね? でも、吸血鬼になったのはお礼を言うべきか? 微妙なラインじゃないか?でも、今のところデメリットもないし。日の光を浴びたからって焼け死ぬわけじゃない。
というか僕は本当に吸血鬼なのだろうか?
吸血行為はできるし、実際お腹の傷はどんどんと直っているのだが、力持ちになったりとか、蝙蝠に変身するみたいなことはない。
「ねえ、こんばんは」
まあ、運動することもないからわからないだけかもしれないけど。
「こんばんは」
足が速くなっていたらいいな。とそこから全速力で逃げた。
「ぜえ、ぜえ、ぜえ」
一心不乱に走り抜けた。肩で息をするまで走ったのは久しぶりだ。嘘だ。トンネルでめっちゃ走ってたわ。
アッシュと一緒にいるまで外に一人で出歩かなかった理由? 決まっている。不審者に出会うかもしれないからだ。世の中には怪しい不審者がいっぱいいる。本当にそうかわからないけど、基本的には避けるべきだ。本当は道を聞きたかっただけかもしれない。でも、そんなのは関係ない。本当に私を襲おうとしていたかもしれない。後ろを振り返るとそこには誰もいなかった。
「こんばんは!」
「わあああああああああ!」
今度こそ全力で叫んだ。全速力で逃げた先で僕に気づかれずに前に逃げる? それとも先回りされた? いや、それにしたって足音も聞こえなかった。
「うーん。人に挨拶をされたら挨拶を返すべきじゃない?」
「不審者には近づくなって先生に言われたので! それじゃあ」
そう言って逃げようと後ろを振り返ると前にその人がいた。
あり得ない。
「もう一度言うよ。こんばんわ」
「......こんばんわ」
渋々挨拶を返した。アッシュの嘘つき、挨拶をしたほうがいいなんて嘘だ。絶対にこいつとは挨拶をするべきじゃない。
「人を探しているんだけどさ。ちょっといいかな?」
目の前の男は少しチャラく見えた。私が苦手な陽キャタイプである。金髪でアクセサリージャラジャラでよくわからんカラフルな服を着ている。ファッションに詳しくないので何もわからない。だが一つだけわかることがある。
「ねえ、吸血鬼を探しているんだけど知らない?」
そう問われて僕は目の前の人を指さした。
「ああ、そういうことじゃなくてね。ていうかマナーが悪いでしょ。人に対して指差さない」
なんだよ。吸血鬼ってマナー講師か何かかよ。
でも、やっぱりこの人は吸血鬼だ。
「なんて言えばいいのかな? 吸血鬼って不定形なところがあるからさ。特徴も言いづらいし、名前もおそらくは偽名を使っていると思うしさ。うーん。上手く説明できるかわからないんだけど」
この人が何を言っているかはわからなかったが、誰を言っているかわかった。
「性別はおそらく男で、あと何だろう。不遜な態度というか。自分が上に立っている自覚があって」
これはアッシュだろ。
「それでおそらく最近誰かを吸血鬼にしたらしいんだ」
私だとバレてる? じゃあ、なんでこんなに自信がなさげなんだ?
「その人を知っていたとしたら、どうするんですか?」
「まあ、まあ落ち着けって。その人は俺も会ったことがないらしいんだが、昔は相当ヤンチャだったらしいんだよ。なんでも吸血鬼として最強の称号を欲しいままにしていたらしい」
「……」
「なんでも、ある時ふといなくなったらしくって。当時はあんまりに好き勝手し過ぎて、咎められたとか、1000もの制約を付けられた上で吸血鬼界から追放されたとか、そんな噂が蔓延っているらしい。よくわからないよな。そんなに強いなら王にでもしてしまえばいいのに。ただ今でも恐れられているのは確かで、名前を言ったら最後、体が生きたまま引き裂かれるってんで、名前は俺も聞いたことがない。で、俺は遠くから一目見ようと来たわけ」
アッシュのことを言われているのは確かなんだろうけど、全くアッシュとは別の人の話をされているみたいで気味が悪かった。
「まあ、それで一つ疑問なんだがさ」
そこまで話して金髪の男は初めて僕に敵意を見せてきた。
「そんなに強い吸血鬼の子供がこんなに弱いわけねえじゃん。だから、そいつはもう力が弱くなったんじゃないかってさ」
その瞬間、気づけば僕はその金髪の男と距離を取っていた。自分で距離を取ったわけではない、僕は吹き飛ばされていた。さらに言えば、蹴り飛ばされていた。そのまま地面に衝突し、受け身も取れないままに地面を転がった。
「あれ? 耐久力はあるのかな? 腹をぶち抜くつもりだったんだけど」
今更になって脳が危険信号を出していた。
逃げないと。その思い出で起き上がろうとしたが、目の前に既にいた。
「さっきも思っていたけどさ。走るのも人間みたいに遅いし、反応も鈍い」
起き上がる前に近づかれ、足で蹴られた。なんとか身体を縮こめ、顔を守る。そうすると守っていないわき腹を思い切り蹴り上げられた。サッカーボールみたいに僕の身体が飛んでいく。宙に浮いた身体は当然重力によって地面に叩きつけられた。
「反撃もしてこないし。もしかして本当に弱い?」
僕が弱いことなんて百も承知だ。
「だったら吸血鬼の親も糞弱いのかな?」
不思議なもので僕自身が蹴られようが怒りなんて湧いてこなかったのに、アッシュが馬鹿にされると怒りが沸々と湧いてきた。
「アッシュはお前より100万倍強いよ。馬鹿!」
その拙い暴言で目の前の金髪が怒った。
「ボロ雑巾にしてテメェの親の前に晒してやるよ」
そんな怒る? ってくらいには怒っていた。見えない速さで近づき、蹴りを入れられた。それを受け、また後ろに吹っ飛ぶ。不思議なことがあった。
「お前の雑魚い蹴りなんて痛くも痒くもないんだよ」
強がりでもなんでもなく、本当に痛くないのだ。耐久力だけはあると言っていたが、本当にあるのかもしれない。ゲームキャラがやられたような不快感があるだけで、全く痛くない。じゃないとこんな煽ったりなんてできない。
「......ああ、そうかよ」
じゃあ、反撃できるかって反撃はできないし、別に解決方法なんて見つからないけど。
「血制約定【破壊槌】」
「は?」
突如何もないところから大槌と言えるような人間では扱えないようなサイズのハンマーが出てきた。ネーミングセンス中二病かよとかラノベかよなんて茶化すこともできない。大きい武器を持った人間は怖い。後ずさりながら避けようとするもそれよりも早くハンマーが振り下ろされた。
ハンマーが僕の頭を打ち付ける。
僕は目を瞑った。
固い金属と金属がぶつかり合ったような音がした。
痛くない?
これは痛くないから痛くないのか、それとも痛みを感じる間もなく死んでしまったのか。
恐る恐る目を開けると僕にハンマーは当たっていなかった。
「びっくりした~」
その声を聴いた時、思わず涙が出そうだった。
目を開くとアッシュが槌を受け止めていた。
アッシュが手に力を込めると大槌は砕けて壊れた。
「も~う。なんで外に出てるの?」
まるで目の前にいないみたいに金髪の男を無視して、僕に話しかけてきた。
「え? あっ、いや」
「何だよ。ついに登場かよ」
それよりも後ろのやつをなんとかしないと。
「何? 後ろのやつが気になるの? しょうがないなあ」
そういって空中に向かってデコピンを放った。
突如目の前から金髪の男が消えた。
「はあ?」
意味がわからない。消えていった。人がゴルフボールサイズまで小さくなるほど、飛んで行った。さっきの僕が二十メートル飛んでいったとしたらあれは一キロか二キロは軽く飛んでいそうだ。いや、もしかしたらそれ以上か?
さっきの人も人間離れした力を持っていたけど、やっぱりアッシュはそれ以上の化け物だ。
「うん? どうした? もういなくなったけど、怖くなった?」
「アッシュ⋯⋯」
「どうした怖くなったか?」
アッシュは真剣に見つめてきた。怖くないと言えば嘘になる。ただ、それ以上に⋯⋯
「さっきの超能力みたいなやつ、僕も使えるようになる?」
そう言うとキョトンとしていた。
「お前、馬鹿なんか?」
そう言って苦笑していた。
「お前、吸血鬼になるとこんな性もない戦いに巻き込まれるんだぞ。止めたいとかならないの?」
「え? 止められるの?」
「いや、普通は無理」
「じゃあ、考えてもしょうがないじゃん。それよりもさっきの超能力教えてよ」
血制約定だっけ?
「お前は普通の日常に戻りたいと思わないの?」
「何でよ。折角手に入れた非日常なのに」
正直言って僕は高揚していた。なんか吸血鬼は思ったのと違ったし、全然格好良くない。でも、さっきの大きな槌やデコピンで敵を飛ばすのはカッコいい。




