画面越しの輪郭 -チャットゲーム-
彼と知り合ったのは、ほんの偶然だった。
スマートフォンの小さな画面の中、指先で駒を動かすだけの、現実には何の意味もないはずのゲーム。その世界の片隅で、わたしは彼と出会った。
「久しぶり、元気?」
「おつかれさま」
「今日はログインしてないみたいだけど、どうした?」
文字は軽く、無邪気に見えるのに、どこか距離を感じさせた。
夫はリビングでニュースを見ている。わたしはその背中を横目に、キッチンの片隅に腰を下ろし、青白い光に照らされながら、彼からの返信を待った。胸の奥にかすかな疼きを抱えて。
ゲーム内でリーダーボードの上位を争っていた夜。わたしが一晩中粘っても勝てず、思わず「どうしても負けちゃった」と送ると、彼から返ってきた文は短かった。
「そんな日もあるよ。無理しすぎじゃない?」
思わず「もう少し応援してよ」と追いかけるように打った瞬間、彼は距離を置いた。
「そろそろ寝る、また明日」
胸がチクチクと痛む。追えば引く、追わなければ自然に近づく。そんな感覚を、わたしは初めて経験した。
ある日、彼がほかの女性プレイヤーと親しくチャットしているのを見かけた。思わず短く送る。
「わたしも一緒にやりたい」
返事は、沈黙の後、
「今、ちょっと忙しいから……」
軽く否定されただけなのに、心はざわつき、嫉妬が静かに火を灯す。追えば追うほど、彼は手の届かない存在になり、わたしの心は焦がれ、苛立ち、揺れた。
そのうち、彼の返事は減っていった。
ログインしているはずなのに、チャット欄には沈黙が続く。
「いろいろメッセージを頂いてますが、今、仕事が忙しくなかなかインできません」
最後に残されたのは、全体メッセージのそれだけだった。
あっけなく、彼の名前はゲームのリストから消えてしまった。
――わたしのせいではない。
頭ではそうわかっている。
彼は本当に忙しかったのだろう。私生活も仕事も重なり、パートナーを務めていた女性が引退したこともあったのだろう。
それでも夜になると、無意識にスマートフォンを開き、空になったチャット欄を眺めてしまう。そこに彼の名前が浮かび上がるような気がして。
夫が「もう寝よう」と声をかける。わたしは「うん」と応え、画面を伏せる。
けれど瞼を閉じると、あの時の彼のそっけない短文や、追えば引く距離感が甦る。
「ログインしてなくて心配だった」
「無理しすぎるなよ」
短くても、彼の微妙な距離感が胸をかき乱す。
ほんとうに彼は若い男だったのか、性別すら分からない。
それでも、あのひとときは確かに、わたしの心を生き返らせた。
その後の日々、わたしは無意識に彼の痕跡を探してしまう。
道を歩いてる時、空を見上げながら彼の言葉を何度も思い返す。
夜、ベッドに横たわると、スマホの通知音に胸が跳ね上がり、彼からのメッセージを無意識に期待してしまう自分がいる。
彼に会えなかったこと、もう戻らないこと。
それを理解している理性と、どうしようもなく心を揺さぶられる感情の間で、胸は何度もざわめく。
夫と過ごす時間は安定しているはずなのに、心はどこか遠く、手の届かない場所に漂っている。あの短いやり取りの端々、距離を置く彼の仕草、画面越しの存在感だけが、日常の隙間に潜り込み、夜ごとわたしを揺らす。
――声すら聞けなかった人。
会ったことないのに、会ってなかったからこそ、わたしの心を揺さぶった人。
理屈では理解しているのに、心はまだ、あの距離の中で揺れている。
たまには現代物も書いてみました。