第9話 存在しない者
─張り詰めた空気が、肌を刺すように痛い。
ここは「講堂」と呼ばれている──だがその実態は、まるで“裁きの場”だった。
巨大な円形空間。
壇上には教師たちが静かに並び、その一段上には、Sの腕章を巻いた幹部と思しき生徒たちが鎮座している。
誰一人として口を開かない。だが、ただそこにいるだけで、異様な威圧感を放っていた。
その中心に立たされる、俺──真城レイ。
(……なんだ、この空気……)
寒気にも似た緊張が、全身を締めつける。
重々しい沈黙が支配する講堂。
その奥にある巨大な両開きの扉が──
ギィ……
と、ゆっくり開いた。
その瞬間、場の空気が凍りついた。
「……っ」
教師たちが、揃って膝をついた。
壇上に並んでいた──Sの腕章を巻いた“上級生たちも、同時に動く。
カツン……。
その音は、まるで裁きの鐘のように講堂に響きわたる。
姿がまだ完全に見えぬうちから、全員が頭を垂れていた。
──誰も顔を上げない。
まるで“目を合わせることすら許されない”というように。
(……何だよ、これ……誰なんだ……?)
重い足音が、ゆっくりと壇上に近づいてくる。
やがて、暗がりから現れたのは──ただ一人の生徒。
金の紋章が胸元で光る。
背筋はまっすぐで、無言のまま歩くその姿は、もはや「生徒」と呼ぶにはあまりに異質だった。
彼が椅子へと腰を下ろした瞬間、場の空気が一段と重くなる。
全員が、なおも顔を上げない。
床に額を擦りつける者すらいた。
(……まるで、“王”だ)
教師も、上級生も、頭を下げたまま。
この学園では、たった一人の人間が──本当に“頂点”に立っている。
「……真城レイだな」
その声が落ちた瞬間、全身の血が逆流するように冷えた。
返事をしようとしても、喉はひゅっと鳴るだけ。
圧倒的な威圧感の前に、言葉など──一言すら出てこなかった。
「俺は──生徒会長の皇城 瑠だ」
名前が告げられた時、背中に氷を押しつけられたような感覚が走る。
学園を統べる頂点。
ただそこに座っているだけで、他の誰とも比べ物にならない重圧を放っていた。
「早速だが──お前への処分が決まった」
視界の端が揺れる。
足元が抜け落ちていく感覚に、息が詰まりそうになる。
「真城レイ。お前はEクラスに降格してもらう」
「……E、クラス?」
反射的に口から漏れた。
それがどういう意味を持つのか、俺にはまるで理解できなかった。
皇城瑠はわずかに目を細め、冷酷な声音で告げる。
「理解できなくても構わない。お前はもう、この学園にとって“存在しない者”だ」
「存在……しない……?」
耳が拒絶しても、言葉の刃は脳に突き刺さる。
退学とも違う。
(……なんなんだ、それは……俺は一体……)
「……下がっていいぞ」
皇城瑠は冷淡に言い放つ。
胸の奥で、何かが弾けた。
俺はボロボロの身体を必死に起こし、声を絞り出す。
「ま、待ってください」
「……俺は、やってないです……あの動画も、俺を陥れるためのものです、俺はその日、その場所にすら入ってない、どう見てもフェイク動画です……ちゃんと調べてもらえれば、わかるはずです!」
拳を握り、最後の足掻きのように叫ぶ。
ここで黙ったら、本当に終わる。
──だが。
「黙れ」
皇城瑠の一声が、すべてを切り裂いた。
「本物か偽物か……そんなことはどうでもいい」
「この学園は──俺が決めたことがすべてだ」
「……っ」
頭が真っ白になる。
(なにを……言ってるんだ、)
必死に否定しようとした。
けれど、目の前に立つ生徒会長の声と存在感が、理屈をねじ伏せる。
理解できない。いや──理解してしまった。
ここでは、証拠も真実も関係ない。
正しいかどうかなんて、誰も気にしない。
ただ“決定”されたことが、この学園のすべてになる。
(……俺がなにを言っても無駄ってことじゃないか)
胸の奥で冷たい感覚が広がっていく。
訴えても、抗っても、俺の声なんて届かない。
誰も助けてくれない、抗弁も証明も、この場では無意味。逃げ場など、最初から存在しない。
「……篠塚、下がらせろ」
瑠が低く告げる。
「……はい」
担任の篠塚が無言で頷き、俺の腕を掴んだ。
「行くぞ」
俺は抵抗もできず、ただ放心状態で引きずられる。
さっきの言葉が、まだ頭の中でぐるぐる回っている。
──存在しない者。Eクラス。
気づけば職員室の前に立たっていた。
「真城、入れ」
中に入ると、教員のひとりが机から俺の腕章を乱暴に引き剥がした。
Bクラスの証。
「お前はいまからEクラスだ」
冷たい声が落ちる。
俺の手元には、何も残されなかった。
新しい腕章など渡されない。そこにあるのはただ、空虚な腕だけ。
「もちろん、Bクラスの寮にも入れない。鍵も回収する」
さらに無情な手が差し出される。
「そして今持っている黎もだ。すべて没収する」
篠塚は事務的にそれだけを告げ、書類に視線を落とした。
処分の宣告は終わり──俺に残された言葉も、説明も、もうなかった。
「……最後に、一つだけ言っておく」
篠塚の声は氷のように冷たかった。
「Eクラスに寮は存在しない」
「……じゃあ、俺は……どこに帰ればいいんですか?」
必死に問いかけた。
だが、篠塚は顔を上げることすらしない。
書類に目を落としたまま、俺の声など聞こえないかのようにペンを走らせ続ける。
それでも俺は諦められなかった。
喉が焼けるほどに言葉を繰り返す。
俺はこの後、何度も弁明した。
「俺はやってないんです」「どうしてこんな処分を……」
時には、この学園の“制度”についても問いただした。
だが──返ってくる声は一つもない。
篠塚はペンを走らせ、俺の言葉など空気のように受け流す。
やがて席を立つと、近くの教師と笑い混じりに談笑を始めた。
俺が必死に声を張り上げても、誰一人としてこちらを見ない。
まるで俺は、この部屋に存在していないかのように。
拳を握りしめても、声を枯らしても。
この部屋の誰ひとりとして、俺の存在を認めなかった。
その現実に、膝がわずかに震える。
胸の奥に空洞が広がり、呼吸すらも重い。
(……これ以上、ここにいても同じだ。)
俺は足を引きずるようにして、重たい扉を押し開けた。
廊下に出た瞬間、職員室のざわめきが遠ざかる。
代わりに──冷たい静寂だけが、俺を包み込んだ。
職員室を出て、ふらつく足で廊下を歩く俺はBクラスに荷物を取りに教室へ向かった。
まだ授業中で、静かな空気が廊下に漏れている。
ガラガラ……。
扉を開けた瞬間、クラス全員の視線が一瞬こちらをかすめる。
だが、次の瞬間には何事もなかったように前を向き、教師の声を聞き流していた。
(……なんだ、この空気……)
自分の席へと歩み寄る。
だがそこには──机も、椅子も、俺の荷物すら影も形もなく消えていた。
「……っ」
胸が締め付けられる。
俺がいた痕跡ごと、綺麗に抹消されている。
ただの空白の床だけが、冷たく突き刺さった。
(……なんなんだよ、これ……!)
気づけば、走っていた。
もう、この教室に一秒でもいたら壊れてしまう気がして。
─廊下を駆け抜ける。
足音がやけに大きく響いて、余計に孤独を煽る。
曲がり角で肩がぶつかった。
「……あ?」
見上げると、Aクラスの黒澤とその取り巻き。
だが、誰も俺を見ていない。
「今なんか……ぶつかったよな?」
「え、気のせいじゃね? 幽霊でもいたんじゃね?」
笑いながら去っていく。
胸が焼けるように痛む。
存在を無視されるのではない。
本当に──“存在していない者”として扱われている。
(……俺は……消されたのか?)
俺は逃げ出すように歩いた。
行き場などあるはずもないのに、ただ無心で足を動かすしかなかった。
どれほど歩いたのか、もうわからなかった。
光と喧騒に満ちた場所を抜け、ただ彷徨うように足を進める。
気づけば空は闇に沈み、学園を照らしていた灯りも遠ざかっていた。
あたりは静まり返り、月明かりだけが道を照らしている。
その光の下に現れたのは──朽ちかけた廃倉庫だった。
鉄の扉は錆びつき、壁はひび割れ、窓ガラスは粉々に砕けている。
かつて物資が並んでいたであろう広い空間は、今は埃と闇に支配されていた。
冷たい風が隙間から吹き込み、どこからともなく鉄骨の軋む音が響く。
それでも、ここしかなかった。
──月明かりに照らされた廃倉庫の入口。
錆びついた鉄の扉を押し開けると、
ギィ……ギギギ……
中に足を踏み入れた瞬間、むせ返るような埃の匂いが鼻を突く。
床に積もった粉塵が靴の下でザリッと鳴り、舞い上がった塵が喉をざらつかせた。
鉄骨の天井からは
ポタリ……ポタリ……
と水滴の音が落ちてくる。
湿った空気に混じるのは、錆びと油が腐ったような鉄の匂い。
どこからか吹き込む風が、割れた窓を鳴らし、
カタカタ……
と不気味な余韻を残す。
俺はふらつく足を引きずり、壁際まで歩く。
そこで、もう限界だった。
「……つかれた」
声にならない吐息と共に、その場へ崩れ落ちる。
冷たいコンクリートの床が背中に触れ、体の奥にまで疲労が染み込んでいく。
背中が壁についたとき、じわっと冷たさが染みてきて──
その瞬間、何かが切れた。
「……っく……あ……あぁ……っ」
涙が、勝手にあふれ出してきた。
我慢していたわけでもない。
悲しい出来事を思い返していたわけでもない。
ただ、限界だった。
「なんでだよ……俺、悪いことなんて、してないのに……っ」
「正しく、いたかっただけなのに……っ」
喉がつまって、呼吸が苦しい。
言葉が途切れるたび、喉が裂けそうなほど叫んでいた。
もう隠そうとする余裕なんてなかった。
涙と嗚咽が勝手に溢れて、胸の奥からしぼり出すような声になっていた。
「やめてくれよ……こんなの、もうやだ……っ!」
「なんでだよ……っ、なんで俺だけ……っ!」
廃倉庫のコンクリートの壁が、泣き声を反響させる。
誰もいないはずなのに、誰かに必死に訴えかけるみたいに。
涙も声も止まらなくて、崩れ落ちた体は小さく震えていた。
努力すれば報われると思ってた。
真面目に生きれば、誰かが見てくれてると信じてた。
……でも違った。
正しさなんて、ここでは嘲笑の種でしかない。
俺はただ、仕組まれた罠に落とされ、存在を消された。
「……もう、無理だよ……」
「なんで……生きてんだよ、俺……」
「……死にたい」
足元に散らばるガラスの破片が目に入った。
月明かりを受けて、冷たく光っている。
俺は無意識に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、チクリと血がにじむ。
けれど痛みなんて、どうでもよかった。
「……終わらせれば、楽になれる……」
割れた破片を握りしめ、喉元へとゆっくり持ち上げる。
胸の奥が、妙に静かになっていた。
涙も止まり、呼吸も穏やかで──今にもこの世界から消えてしまいそうで。
──その時だった。
ブルルッ……
ポケットの中で、不意にスマホが震えた。
震える指で画面を取り出す。
そこには見慣れない通知が浮かんでいた。
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