第8話 虚構の裁き
──ミオの涙と嘘で、教室は凍りついていた。
その空気を切り裂くように、篠塚が声を上げる。
「……真城。職員室に来い」
ざわめく生徒たち。
俺は無理やり腕を引かれ、そのまま連れ出された。
* * *
職員室。
篠塚は机にタブレットを叩きつけ、冷え切った声を落とす。
「……お前、七瀬を襲ったんだな」
画面には──昨日の映像。
俺の後ろ姿、泣き叫ぶミオ。
知らない。こんなの知らない。
「俺は……やってない! こんなの偽物だ!」
「見苦しいぞ」
篠塚は冷酷に言い放つ。
「ここまで証拠があるんだ。処分は避けられん。正式に決まるまでは……“処分待ち”としてお前を監視する」
職員室から戻ると──廊下の真ん中に、黒澤とその取り巻きが立っていた。
にやにやと笑いながら、俺の前に立ち塞がる。
「よぉ、変態野郎。お前……やっぱりヤベーやつだったんだな」
周囲のA組の連中が声を揃えた。
「変態、変態、変態──!」
コールが波のように押し寄せる。
廊下にいた生徒たちも面白がるように口を合わせ、空気が一気に地獄に変わった。
「……うるせぇ! 俺はやってないって言ってるだろ!」
怒鳴った声が、むしろ笑いを煽った。
黒澤は俺の胸ぐらを掴み、顔をぐっと近づける。
「ああ? まだそんなこと言ってられる立場かよ?
だったら──ちょっと“お仕置き”が必要だな」
トイレ。
ドアを閉められた瞬間、拳と蹴りが全方向から飛んでくる。
「うっ……ぐっ!」
「もっと叫べよ、変態!」
「罪人らしく土下座でもしてろ!」
倒れた俺の髪を鷲掴みにされ、便器へと顔を押しつけられる。
「やめろ……俺はやってない」
「まだ言えるんだ? “やってない”って?
だったら──もっと顔突っ込んでみろよ!」
水を流す音と同時に、冷たい水が頬を打つ。
押さえつけられたまま、呼吸ができずに肺が焼けるようだった。
「認めろよ、変態野郎!」
「俺たちを楽しませろよ!」
──その拷問は、延々と続いた。
拳、足、便器。
時間の感覚が消えて、ただ痛みと屈辱だけが身体を刻む。
……どのくらい経ったのか。
1時間か、もっとか。
目の奥が焼けるように熱く、視界がにじむ。
(……もう……限界だ……)
膝から崩れ落ちた俺を見下ろし、黒澤は笑った。
「ははっ。やっと少し“わきまえた”顔になったじゃねぇか」
─俺は、もう人間じゃない。
ただの“笑いもの”だ。
黒澤は吐き捨てるように言う。
「覚えとけよ。お前は“変態”で、“クズ”だ。……その立場を忘れんな」
笑い声とともに、奴らはトイレを出て行った。
ドアの閉まる音が、やけに遠くに響いた。
──静寂。
残されたのは、俺ひとり。
床に転がったまま、荒い呼吸を繰り返す。
視界は揺れて、涙なのか血なのか分からないものが頬を伝っていった。
「……俺は……やってない」
かすれた声が、狭いトイレに溶けて消える。
……誰も信じてくれない。証拠だって、偽りの映像だ。
それでも。
(まだ……終わってない。
俺は……やってないんだ。絶対に……)
──ふらつく足取りで、俺は教室へ戻った。
鏡で見なくても分かる。殴られすぎて、顔は腫れ、瞼は重く閉じかかっている。
それでも……ここに戻るしかなかった。
扉を開けた瞬間、教室の空気が凍りつく。
みんなの視線が、容赦なく俺に突き刺さった。
俺の席に目をやると──机にはまだ落書きが残っていた。
黒いマーカーの線が何重にも重なり、消しようもない烙印のようにそこにあった。
誰一人、目を合わせようとしない。
B組の連中ですら、俺を避けるように距離を取っている。
(……ふざけんな。俺は──やってないのに)
堪えきれず、俺は立ち上がった。
視線の先──ミオ。
彼女は相変わらず机に座り、涙で濡れた目を伏せていた。
だけど、今は──言わなきゃならない。
「……おい、ミオ俺は……あんな事してないよな?」
声が震えていた。必死に言葉をつなぐ。
「ミオ、お前からみんなに言ってくれよ。俺がなにもしてないって──!」
その瞬間、ミオの肩がびくりと震えた。
顔を上げた彼女は、涙で濡れた目を見開き──怯えるように声を振り絞る。
「……怖いっ! やめてよ……もう近づかないで!」
「なっ……!」
耳の奥がじんじんと鳴る。
あまりに突拍子もない言葉に、頭が真っ白になった。
「おい、もうやめろよ!」
「襲っておいて、まだ言い逃れするのかよ!」
B組の連中の怒号が飛ぶ。
俺は必死に声を張り上げた。
「違う! 俺は……そんなことしてない! ミオ、お前だってわかってるだろ!」
だが、返ってくるのはすすり泣きと軽蔑の視線だけだった。
胸の奥から、どうしようもない苛立ちがこみ上げてくる。
──なんなんだよ。
なんでこんなことになってるんだよ。
意味がわからない……!
─翌日。
俺は学校に行くかどうか、迷った。
このまま教室になんて戻れるはずがない。
いっそ辞めてしまおうか──そんな考えすら浮かんだ。
だけど……今ここで逃げれば、それは“認めた”ことになる。
あの偽りの映像を、本物だと認めたことになる。
(……それだけは、絶対にできない)
そうして俺は、ふらつく足を無理やり動かし、再び学園の門をくぐった。
* * *
──けれど。
待っていたのは、さらなる地獄だった。
廊下を歩けば、わざと肩をぶつけられる。
「変態が歩いてるぞ」と囁き笑う声。
机に座れば、後ろから消しゴムのカスを頭に降らされる。
教科書を広げれば、ページの間にゴミや虫の死骸まで挟まれていた。
トイレに行けば──昨日と同じように水をかけられ、頭を押しつけられる。
「顔洗ってこいよ、変態」
「水責めの刑だな!」
冷たい笑い声と便器の水音が、頭の奥にこびりつく。
B組の連中は──一切、目を合わせなかった。
ただ無視するだけ。
俺が近づけば、蜘蛛の子を散らすように席を立ち、逃げる。
“孤立”という言葉は生ぬるい。
俺はもう、存在そのものが「罪」とされていた。
(……なんでだよ……俺は……やってないのに……)
声にならない声が喉を震わせる。
だが叫んだところで、返ってくるのは嘲笑と蔑みだけだった。
──俺の目の奥にあった光は、少しずつ、確実に薄れていった。
* * *
──昼休み。
教室にはいられなかった。
食堂も、当然無理だ。
B組の連中と顔を合わせれば、また嘲笑と冷たい視線に晒されるだけ。
──だから俺は、体育館裏のコンクリートに腰を下ろした。
昼のざわめきが遠くに聞こえるだけで、ここには誰も来ない。
ひび割れた灰色の地面は冷たく、背中までじんわりと痛みを伝えてくる。
ポケットから取り出したパンを手にする。
だが一口かじった瞬間──殴られた頬が激しく痛み、思わず顔をしかめた。
奥歯で噛みしめるたびに血の味が滲み、喉に押し込もうとしてもひっかかる。
「……っ、くそ……」
小さな呻きと一緒に、半分も食べられずに手が止まった。
空腹のはずなのに、パンは砂のように味気なく、喉が拒む。
視界がにじむ。
涙なのか、痛みのせいなのか……もうわからなかった。
──その時
誰も来ないはずの体育館裏に、細い足音。
顔を上げると、見知らぬ女子生徒が立っていた。
彼女は一瞬だけためらうと、小さなハンカチを俺の膝の上に置いた。
「……」
言葉はなかった。
ただ、伏せられた瞳に光が宿っていないのがわかった。
俺と同じだ──優しさの奥に、もう擦り切れてしまった心が見える。
彼女は目を合わせぬまま、静かに背を向けて歩き去っていった。
腕には“Dクラス”の腕章。
取り残された俺は、ただ手の中のハンカチを見つめていた。
それが救いだったのか、それとも同じ闇を抱えた者の残響だったのか……わからないまま。
* * *
昼休みが終わる頃、再び篠塚に呼び出された。
職員室の前に立たされた時点で、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
「──処分が決まったぞ」
篠塚は淡々と告げる。
その声音には、怒りも同情もなかった。ただ事務的に、俺を突き落とすだけ。
「生徒会長様が、お前を“講堂”に呼んでいる。すぐに向かえ」
……講堂?
生徒会長?
正直、どうでもよかった。
誰に裁かれようが、俺に残された選択肢なんて──もう、どこにもない。
それでも、足元が勝手に震えていた。
この先に待っているものが、俺を完全に奈落へ突き落とす気がしてならなかった。