第7話 微笑と嘲笑
昼下がりの街は、思った以上に人が少なかった。
制服姿のまま並んで歩くのが、なんだか悪いことをしているみたいで妙に落ち着かない。
「授業サボって遊ぶなんて、ちょっとドキドキするでしょ?」
横を歩くミオが、悪戯っぽく笑う。
その笑顔が妙に可愛くて、視線を逸らすふりをした。
「……まあ、こんな時間に街歩くのは初めてだからな」
俺は視線を逸らしながらも、口元が自然と緩んでいた。
彼女の足取りは軽く、俺の半歩先を行く。
その後ろ姿を見ていると、さっきまで胸の奥に溜まっていた重たい感情が、少しだけ薄れていく気がした。
最初に向かったのは映画館だった。
平日の昼間とあって、ロビーはガランとしている。
ポップコーンを片手に並んで座ると、ミオは暗闇の中でスクリーンを見つめながら、時々小さく笑ったり驚いたりしていた。
「……ねえ、レイくん」
隣から、囁くような声。
「……なに?」
小さく返す。
「授業サボって映画館って、なんか……ちょっと特別な感じしない?」
「……まあ、確かに。普段じゃ絶対できないし」
「ふふっ、やっぱり。なんかデートみたいだね」
スクリーンの光に照らされた横顔が、悪戯っぽく笑っていた。
その横顔を盗み見るたび、心臓の鼓動がひとつ早まる。
映画を見終えたあとは、そのままカラオケへ。
ミオは恥ずかしそうに最初の曲を選んだが、歌い出すと意外にも堂々としていた。
曲の合間に笑い合い、ジュースを飲み、くだらない話をする。
気づけば時間はあっという間に過ぎていた。
最後に足を運んだのはゲームセンターだった。
明るい電子音と機械の動作音に包まれた空間で、ミオは目を輝かせてUFOキャッチャーに挑む。
「よし……あとちょっと!」
レバーを慎重に操作するその表情は真剣そのもので、思わず見惚れてしまう。
景品がカゴに落ちた瞬間、彼女は子供みたいに嬉しそうに俺のほうを振り返った。
「見て!取れたよ!」
その笑顔を見た瞬間、心の奥で何かが柔らかくほどけていくのを感じた。
こんな俺でも、こんなふうに優しく接してくれる人がいる。
その事実が、やけに温かかった。
「ねえ、プリ撮ろ?」
ミオが言うと、俺が返事をする前にプリクラ機へと歩き出した。
「私が払うよ」と財布を取り出した瞬間、中身がちらりと見えた。
ぎっしりと詰まった黎の札束。
(……見間違いかもしれない。)
撮影の間、距離がやけに近くて、まるでカップルみたいだった。
シャッターが切れるたび、ミオが笑う。
その笑顔を見ているうちに、俺も自然と笑っていた。
昼下がりの陽射しが広場に降り注ぎ、石畳の上に伸びた影がゆらゆらと揺れていた。
カフェで飲み物を買った俺とミオは、透明なカップを片手に持ちながら、俺の隣を軽やかに歩いていた。
氷がからんと涼しげな音を立て、そのたびにミオの髪が肩でふわりと揺れる。
広場の噴水前にある古びた木製ベンチを見つけ、二人で腰を下ろした。
俺もストローを口に運び、冷たさが喉を滑り落ちていくのを感じる。
「七瀬さんさ──」
何気なく口にした瞬間、ミオが小さく笑った。
「七瀬さんって、なんか距離遠く感じるなぁ。私たち、もう友達でしょ?」
「……まあ、そうだな」
「だから、ミオって呼んでよ」
「……じゃあ、ミオ」
「うん、そのほうが嬉しい!」
少し照れくさい空気を、氷の音がやわらげる。
「そういえば、レイくんの好きな食べ物って何?」
「ん? 急だな……まあ、カレーとか」
「やっぱり!カレーって最強だよね」
ミオが大真面目にうなずくから、思わず笑ってしまった。
そのあと、ふたりの間にふっと沈黙が落ちる。
噴水の水音と、遠くから聞こえる子供の笑い声だけが広場に響いていた。
「……今日は、ありがとな」
「え?」
「俺がAクラスの連中にやられてるの見て、励ましてくれようとしたんだろ? おかげで少し楽になったよ。……最近、いろんなことがありすぎて、正直しんどかったから」
ストローをくわえたまま、ミオが視線を落とした。
「……私は、大したことしてないよ。レイくんがやられてるの、助けられなかったし」
それでも、と小さな声で続ける。
「けど、これからは何かあったら私に頼ってほしい。力になれるかどうかはわからないけど……できるかぎりのことはしたいの」
胸の奥に温かいものが広がる。
「……ありがと。……なんで、そこまで優しくしてくれるんだ?」
少し考えるように首を傾げたあと、ミオは柔らかく笑った。
「うーん……なんでだろうね。レイくんのことが、気になるからかな」
「……え?」
思わず声が漏れた。心臓が不自然なくらい早く打ち始める。
ミオはそんな俺を見て、また少しだけ悪戯っぽく笑った。
* * *
「……すっかり遅くなっちゃったね」
夕焼けに染まる学園の通路を歩きながら、ミオが笑った。
「でも、今日はすごく楽しかった」
「……俺も。ほんとに楽しかったよ。ありがとな、ミオ」
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「じゃあ、また明日ね」
寮の前で手を振るミオを見送って、俺は自分の寮棟へと歩き出した。
ポケットに入れていたプリクラを取り出す。
小さなシールの中、笑顔のミオと、照れた顔の俺。
まるで恋人みたいに並んで写っていて──。
「……なんだよ、これ」
ひとりきりで、思わずにやける。
慌ててポケットにしまい込みながらも、口元の笑みは消えなかった。
(……ほんと、今日は楽しかったな)
──翌日。
雨音が窓を叩き、雷鳴が遠くで低く響いていた。
じめりと湿った空気の中、俺は重たい足取りで教室の扉を開ける。
その瞬間、ざわめきが一斉に止んだ。
全員の視線が、俺に突き刺さる。
「……真城だ」
「アイツが──」
ひそひそとした声。だが隠そうともしていない敵意。
教室の中央。
そこにいたミオが──机に突っ伏し、肩を震わせて泣いていた。
「おい、真城!」
B組の一人が立ち上がり、机を叩いて俺を睨みつける。
「お前……昨日、ミオを無理やり襲ったらしいな」
「……は?」
頭が真っ白になった。
「何言ってんだよ……そんなこと、するわけ──」
「じゃあ、この動画はなんだよ」
奴が端末を突きつけてくる。
そこに映っていたのは──俺の後ろ姿。
その前で服を乱され、崩れ落ちているミオの姿。
血の気が引いていく。
(……こんなの、知らない……! 昨日はただ、一緒に遊んでただけだろ……!)
「違う! 俺は何もしてない!」
声が裏返る。
「なぁ、ミオ……! お前から言ってくれよ。これは間違いだって──!」
沈黙。
うつむいたままのミオが、小さく肩を震わせる。
そして──顔を上げた。
涙で濡れた瞳。震える声。
「……レイくんに……無理やり、連れていかれて……」
「やめろって言っても……聞いてくれなくて……」
すすり泣きが教室に広がる。
「最低だな」
「やっぱり、そういうやつだったんだ」
次々に飛ぶ声。
俺はただ、信じられない気持ちで立ち尽くすしかなかった。
──その時だった。
ミオの口元が、ほんの一瞬。
泣き顔の下で、嘲るように“笑った”のを、俺は見逃さなかった。
(……ミオ、お前……!)
胸の奥が、怒りと絶望でぐしゃぐしゃにかき乱される。
昨日までの温かさが、一瞬で冷え切った嘘に変わる。
こうして俺は、ひとり孤立する地獄へと突き落とされた。