第6話 告げられた支配
今朝は、足取りがやけに重かった。
(……タクトは結局、どこに行ったんだ)
この学園には、まだ俺の知らない何かがある。
それが何なのかも、どう向き合えばいいのかも分からないまま、そう考えているうちに、校門が見えてきた。
正門をくぐった瞬間、視界の端で、既視感のある光景が飛び込んできた。
(……また、やってる)
クラスの腕章を巻いた生徒が、Dクラスの生徒の背に跨り、笑いながら登校している。
その周囲でも、何組も同じような“騎乗”が繰り広げられていた。
そして、その中のひとりを見た瞬間、息が詰まった。
(……タクト)
背中に鞍を付けられ、無言で歩いている。
汗が額を伝い、視線は地面だけを見ていた。
「おい、タクト! 何してんだよ!」
思わず駆け寄る。
けれど、タクトは顔を上げず、何も答えなかった。
その瞬間、タクトの背に乗っていたAクラスの生徒がこちらを振り返る。
「……お前、誰だよ?」
視線が俺の腕章に落ちる。
「へぇ……B組か。B組がA組に逆らってんじゃねーよ」
心臓がうるさく鳴っている。
喉が渇いて、声が出づらい。
それでも勇気を振り絞った。
「いいから……やめてください」
短く、はっきりと。
一瞬、周囲の空気が変わった。
Aクラスの生徒がゆっくりと降りる。
タクトは小さく、俺にだけ聞こえる声で言った。
「……大丈夫だから」
その目は、助けを求めていなかった。
それが、逆に胸を締め付けた。
「……こんなことして……許されると思ってるんですか……?」
自分でもわかるほど、声が震えていた。
「……これが、この学園じゃ“普通”なんですか……?」
息が詰まりそうになる。
「俺……学園のことなんて、まだほとんど知りません……でも……今のこれが……当たり前だなんて……どうしても思えない……」
Aクラスの生徒の顔色が一変する。
「……は? お前、何様だよ?」
目を細め、こちらを見下ろしながら一歩詰め寄ってきた。
「マジでムカつくな……名前は? お前なんなんだよ」
(……まずい)
足が固まって動かない。視線が絡みつく。
キーンコーンカーンコーン。
チャイムが、校内に響いた。
Aクラスの生徒が舌打ちし、タクトの背中から降りる。
「……チッ、今日はこのくらいにしといてやる」
連中が笑いながら去っていく。その背中を、周囲の生徒たちが遠巻きに見ていた。
「……あいつ、終わったな」
「逆らったらどうなるか、わかってないんだな」
そんな声が、ひそひそと耳に刺さる。
胸の奥が、冷たいもので締めつけられた。
チャイムが鳴っても、足が動かなかった。
周囲の生徒たちが次々と教室へ向かっていく中、俺だけがその場に取り残される。
校舎の影に、小さな中庭が見えた。
石畳と古びたベンチ、半分枯れた植え込み。
誰もいないその空間に足を向け、ベンチへ腰を下ろす。
深呼吸をしてみても、胸の奥のざわつきは消えなかった。
さっきの光景が、何度も頭の中で繰り返される。
──タクトが、Dクラスの腕章をつけていた。
昨日までBクラスだったはずのタクトが、だ。
しかも、まるで奴隷のような扱われ方をされ、それを抵抗もせず受け入れていた。
昨日、何があった?
昼休み──俺はタクトに、この学園のことを聞こうとしていた。
その瞬間、Sクラスの皇城リクが現れて……そこから、タクトの様子は明らかに変わった。
結局、「制度」の話も聞けないまま、あいつは教室から姿を消した。
もしかして──あれは、俺に話しちゃいけないことだったのか?
だとしても……なぜだ。
考えれば考えるほど、もう一つの記憶が浮かび上がる。
入学初日の階段──背中への衝撃。
あれは、俺の勘違いじゃなかったのか?
誰かが、意図的に俺を突き落とした……?
そう思った瞬間、背筋を冷たいものが這い上がる。
まるで“見えない力”が、俺をこの学園から排除しようとしている気がした。
チャイムが鳴り、一限目が終わる。
そろそろ教室に戻ろうと廊下を歩いていると、前方からAクラスの腕章をつけた生徒たちが数人、横一列になって歩いてきた。
先頭の一人は背が高く、肩まで伸ばした赤髪を無造作に垂らし、鋭い目つきでこちらを射抜いてくる。
「お前、真城レイだよな?」
「……そうだけど……」
背後から別のAクラス生が回り込み、左右にも二人が並ぶ。
退路は、完全に塞がれていた。
「……なんだよ」
声が、わずかに震えた。
「ちょっと来い」
蓮と呼ばれた男が、俺の肩を乱暴に掴む。
抵抗する間もなく、腕力で引きずられた。
廊下を数歩進み──人気のない角を曲がる。
そのまま男子トイレの扉が押し開けられ、背中から中へと押し込まれた。
タイルの床に靴音が響く。
鏡越しに、蓮の不敵な笑みが映った。
「朝、俺らの仲間に生意気な口を聞いたらしいな」
「……生意気って……俺は……やめろって……」
言葉の途中、腹に鋭い衝撃が突き刺さった。
「……っ、ぐ……!」
息が詰まり、腰が崩れそうになる。壁に手をつき、必死に耐える。
「……な、なに……すんだよ……っ」
「何すんだよ? はっ……立場わかってんのか、Bクラス」
背の高い男──黒澤蓮が、俺の胸ぐらを乱暴につかむ。
距離が近い。視線が絡んだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「Bクラスのガキが、Aクラス様に口答えか? 面白ぇな」
「……そ、それでも……間違ってることは……」
再び腹に拳がめり込む。
視界が一瞬ぐらつき、息が吸えない。
「力がすべてだ、この学園はな。立場が上のやつが、下を従わせる。それが“普通”なんだよ」
腹の奥がまだ痛む中、俺は震える声を押し殺して口を開いた。
「……そんなの……誰が決めたんだよ……」
蓮の口元が、嘲るように歪む。
「はあ? そんなの──“王”に決まってんだろ」
「……王……?」
その背後、取り巻きのAクラスの一人が小声で呟く。
「……そのことはこいつには言っちゃいけないってなってますよ、王族命令で……」
「ああ、そうだったな」
一拍置き、蓮はわざとらしく俺の顔を覗き込み、口元だけで笑う。
「おい、真城。覚えておけ。今この瞬間から──お前が卒業するまで、地獄を見せてやる」
その言葉は、殴られた痛みよりも深く、冷たく胸に突き刺さった。
腹に残る鈍い痛みを押さえながら、トイレのドアを押し開けた。
冷たい廊下の空気が、熱を帯びた頬と額に刺さるように触れる。
(……くそ……)
足音がやけに響く。
教室へ戻るまでのわずかな距離が、やけに長く感じられた。
教室の前に立つと、中からは相変わらずのざわめきが漏れてくる。
ガラガラ……
教室のドアを開けた瞬間、教室のざわめきが一瞬だけ弱まった。
すぐにいつもの会話が再開されるが、数人の視線だけが、こちらに突き刺さったままだ。
(……気のせいか?)
席へ向かう足が、自然と重くなる。
通り過ぎるとき、小さな囁きが背中で弾けた。
声の内容までは聞き取れない。ただ、自分の名前だけははっきりと混じっていた。
椅子に腰を下ろす。
視線を感じる。
けれど顔を上げられなかった。
ただ、時計の針の音と、胸の奥で脈打つ鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
翌日。
教室のドアを開けた瞬間、自分の席に向かうと。
(……マジかよ……)
机にべったりと貼りついた罵倒の文字。
破れた教科書からは、ページがバラバラと床に落ちていく。
足元で散らばった紙片を見つめながら、喉の奥が焼けるように熱くなる。
周囲の視線が刺さる──いや、誰も直視してこない。
同じBクラスの生徒たちは、まるで俺なんか存在していないかのように視線を逸らし、ただ机に向かっていた。
……七瀬ミオでさえ、目を合わせようとしなかった。
泣きそうになるのを、歯を食いしばって堪える。
このまま黙っていられるか。
立ち上がり、教室を出る。
足早に職員室へ向かい、扉を開け放った。
「篠塚先生、Aクラスの生徒に……昨日殴られました。
今日は机に落書きされて、教科書も破られたんです」
篠塚は顔も上げず、書類に目を落としたまま短く答える。
「ああ、そうか。それは残念だったな」
「……はあ? 残念って……。こんなことされて、それだけですか? 何か対処してくださいよ!」
その声に、ようやく篠塚が俺を見た。
だが、その目には感情がなかった。
「一つだけ言っとく。……先生は何もできない」
「……は?」
「わかったら出ていけ」
吐き捨てるような声。
俺は言葉を失い、そのまま職員室を出た。
(……この学校、狂ってやがる。こんなことがあっても、黙認するのか)
廊下に出た瞬間、背筋に冷たい感覚が走った。
視線。
振り返ると、Aクラスの腕章を巻いた三人が壁にもたれ、俺を待っていた。
「──おい、先生にチクりに行ったらしいな?」
黒澤 蓮が口角を吊り上げる。
腕を掴まれ、抵抗する間もなく、人気のない裏道へと引きずられていった。
そこは昼間でも薄暗く、人の気配がない場所。
壁際に追い詰められた瞬間、腹に鈍い衝撃が走る。
「ぐっ……!」
「チクっても意味なかっただろ? ははは……」
その笑いは、殴る前の愉悦に満ちていた。
「だけどな──俺は、そうやってチクるやつが……一番嫌いなんだよ」
二発、三発──顔は避けられ、腹や脇腹だけを的確に狙われる。
髪を掴まれ、無理やり頭を下げさせられた。
「いいか、真城。明日も今日以上に“楽しい”ことが待ってるからな」
吐き捨てるように笑い、奴らは去っていった。
残されたのは、荒い息と、腹の奥に残る痛みだけだった。
くそ……なんなんだよ……。
なんでこんなことされるのか、意味がわからねぇ。
ただ、タクトを助けようとして──A組の生徒に「やめろよ」と言っただけじゃねぇか。
それなのに、誰も俺を助けようともしない。
すれ違う目は、ただ見て見ぬふりをするだけ。
「……真城くん」
声に顔を上げると、七瀬ミオが立っていた。
心配そうな顔で、けれどその瞳はわずかに潤んでいる。
「大丈夫……?」
「七瀬さん……」
「ごめんね、真城くん。助けてあげられなくて……」
ミオの声は震えていた。
「教室でも……真城くんのこと、見ないふりして遠ざけた。本当は、ずっと気になってたのに……」
顔を伏せたまま、そっと俺の袖を握る。
その手の温もりは確かに優しかった。
──けれど、ほんの一瞬。
ミオが顔を上げたその目に、氷のような冷たさがよぎった気がした。
俺が何かを言おうとしたときには、もういつもの柔らかい笑顔に戻っていた。
「……ねえ、真城くん」
不意に、柔らかい声が耳に届く。
「いまから授業、サボって遊びに行こ」
「……は? それって……まずいんじゃないのか?」
「大丈夫だよ。一日くらい、ね?」
ミオは、俺のために気を紛らわせようとしてくれているのだろう。
優しくて、可愛くて──こんな状況でも、その笑顔には不思議と力があった。
気づけば俺は、小さくうなずいていた。