第3話 日常に落ちる影
購買街区
広場の中心には噴水があり、その周囲にカフェテラスのパラソルが立ち並んでいた。制服姿の生徒たちが、スイーツや軽食を手に談笑しながら歩いている。
笑い声が柔らかく響き、風に乗って甘いクリームの香りが漂ってきた。
すれ違う生徒たちは、誰もがどこか“洗練されて”見える。
その中に立つ自分だけが、ほんの少しだけ、場違いに思えた。
(……こういう空気、慣れないな)
背筋を伸ばしながら歩いていたつもりだったけど、なんとなく肩がすぼまる。
広場を横切って進むと、ガラス張りの店舗が目に入る。
白と青のロゴには《REIストア》と書かれていた。学内に設置されたコンビニらしい。
自動ドアが開くと、冷房の風がふっと頬を撫でる。
中は明るく清潔で、商品棚には軽食や日用品が整然と並んでいた。
(……まずは必要なものを)
カゴを手に取り、棚を一つひとつ見て回る。
歯ブラシ、タオル、シャンプー、ノート、ペン、飲み物、菓子類
あまり深く考えず、手近なものをいくつかカゴに放り込み、レジに並ぶ。
そのとき、ポケットから財布を取り出し、封筒の中の一枚の紙幣を確認した。
《1万黎》
篠塚から配られた、学園専用通貨だ。
白地に校章と、見知らぬ人物の横顔。金の箔押しが施された、美しい──けれど異質な紙幣。
(……この紙が、本当に“使える”んだろうか)
どこか、夢の中のような感覚だった。
紙幣の質感は確かに現実的なのに、そこに描かれた世界は、自分の知る現実とは遠い。
やがて順番が来た。
「お会計、152黎になります」
「……え、やっす」
思わず口に出そうになって、慌てて飲み込んだ。
買ったのは、生活に必要な日用品と軽食。
それなりの量をカゴに入れたはずなのに、合計は思っていたよりずっと安い。
(ゼロが一つ足りないみたいだな……)
「……あ、はい」
財布から1万黎を取り出して、レジに差し出す。
制服姿の女性店員は無表情に紙幣を端末に通し、機械的な操作の後、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございました。お釣り、9,848黎になります」
差し出されたトレイの上には、銀色と金色の硬貨。
どれも小さな徽章のような意匠が刻まれていて、どこか“記念メダル”のような雰囲気を持っていた。
「袋はご利用ですか?」
「あ、お願いします」
袋を受け取って、店を出る。
ふたたび夕暮れの空気が頬に触れ、昼の熱気も次第に落ち着いてきていた。
(……確かに、物価はかなり安いみたいだな)
ふと、ため息が漏れる。
(外の世界から遮断された場所で、独自の通貨を使って生活する……)
(……やっぱり、少し異常だ)
けれど、篠塚先生の言葉がふと脳裏に浮かんだ
慣れるより、慣れろだ。
(……そういうもんなのかもしれない)
たとえ異常でも、ここじゃそれが“普通”なんだ。
なら、俺も
「……よし。寮に帰るか」
軽く袋を持ち直し、足元のアスファルトを踏みしめる。
* * *
購買街区を抜けて、裏手の道を進む。
正規の通路ではなく、建物と建物の合間にある裏道。
舗装はされているけど、人気がなくて、風がやけに強く感じる。
(こういう裏通りも悪くないか)
そう思いながら歩いていくと、やがて視界の先に、コンクリートの階段が現れた。
植え込みの陰に隠れるように、ぽつんと存在する、30段ほどの古びた階段。
(……なんだ、ここ)
段差には夕陽が差し込み、長く伸びた影が交差している。
ふと階段を見下ろすと、その先には──
静かな石畳の広場と、中央にぽつんと佇む噴水。
ベンチが円形に並べられ、まるで隠された中庭のような空間だった。
(……少し、寄ってみるか)
そんな気まぐれを抱いて、俺は階段へ足をかけた。
一段、また一段と下りていく。
コンクリートの段差は、古びてはいるが整備されている。
手すりもある。危ない場所では──ないはずだった。
けれど。
「……うわ──っ……!?」
突然、背中を誰かに押されたような衝撃。
重心が崩れ、体が前のめりに傾く。
(……え?)
バランスを崩す。手が空を掴む。
足が滑ったのか、それとも──
ガンッ!
鈍い音が、頭の中で弾けた。
後頭部を階段の縁に強く打ちつけ、視界がぐらりと揺れる。
「……な……に……」
言葉にならない。耳鳴りが響く。
視界の端で、持っていた袋の中身が宙を舞っている。
(……誰か……)
誰かいた、気がした。
階段の上に、“影”のようなもの。
けれどそれを確認する前に──
「……たすけ、て……」
小さく声を漏らした直後、視界はすべて闇に沈んだ。
静かな夜だった。
窓の外には、わずかに月の光が射し込んでいる。
カーテンの隙間からこぼれるその光が、天井や壁に淡く映っていた。
電灯は落とされ、病室は深い静寂に包まれている。
かすかに聞こえるのは、隣の部屋からの機械音と、誰かの寝息。
まぶしい。
ぼんやりとした光のなかで、瞼がゆっくりと開く。
「……ここは……」
「気づいたみたいね」
すぐ横から、落ち着いた女性の声が返ってきた。
目を向けると、白衣の看護師がベッドのそばに立っていた。
「安心して。ここは、学園の敷地内にある医療棟。いわば、専用の病院ね」
「病院……」
「そう。あなた、倒れていたところを誰かに運ばれてきたの。
誰が運んでくれたのかは分からないみたいだけど。」
不意に、記憶の断片がよみがえる。
足音。背中への衝撃。宙に浮いた感覚。
コンクリートに頭を打ちつけた、あの瞬間。
だが、あれが夢だったのか現実だったのか──今ひとつはっきりしない。
(……勘違い……だったのか?)
「っ……いてて……っ」
身を起こそうとした瞬間、背中に鋭い痛みが走った。
「ダメ。まだ動いちゃダメよ。あなた、頭を打ってるし、肋骨にもヒビが入ってるんだから」
看護師は穏やかなまま言った。
「一週間は入院、ってお医者様から指示が出てるわ」
「……一週間……」
まるで、遠くの誰かの話のようだった。
入学して、わずか1日。
新入生代表としての挨拶をし、Bクラスに入り、ようやく学園生活を始めたばかりだったというのに。
「入学して早々、入院かよ……」
ため息まじりに呟くと、看護師は苦笑して、静かに病室を後にした。
病室の明かりが落ち、再び静寂が戻った。
ベッドの上、俺はスマホを手にしていた。
《LIME》を開いても、通知は何も来ていない。
タクトやミオと交換はしてあるはずだが、メッセージは届いていない。
(……まあ、まだ大して話してないしな)
画面を閉じて、スマホをポケットに戻す。
そのときだった。
ポケットの中で、ふいにスマホが震えた。
「……え?」
すぐに取り出して確認すると
《LIME:新着メッセージ 1件》
確かに表示された。けれど──
次の瞬間、その通知はすっと消えた。
履歴にも、受信欄にも何も残っていない。
「……なに、今の……」
バグか? 間違い通知か? それとも
不意に背筋がぞわりとしたが、怪我の影響か、それとも初日の疲労が限界に来ているのか、それ以上考えることができなかった。
ぼやける視界。
鈍く重い頭。
思考はまとまらず、ただ濁った水の中を泳いでいるような感覚だけが残る。
「……もう……いいや」
スマホを伏せ、毛布を引き上げる。
天井の灯りが、にじんで見えた。
(……なんか、嫌な予感がする)
その違和感は、ぬぐい切れないまま
深く、静かに夜が更けていった。