第17話 駒か、同志か
─グゥゥゥ……
沈黙を破ったのは、柚木のお腹の音だった。
「……お腹、空いた?」
レイが苦笑混じりに問いかけると、柚木はほんの少し恥ずかしそうにうなずいた。
「……うん。昨日から……あまり食事、喉を通らなくて」
「そっか」
レイは立ち上がり、部屋の隅に積んであった段ボールの中から、何かを取り出して戻ってきた。
「はい。パンと、缶詰とか。ちょっと古いけど、食べれるよ」
「……え? これ……どうしたの?」
柚木は目を丸くした。
「E組って、黎もないし、売ってもらえないはずじゃ……?」
レイは肩をすくめる。
「盗んだんだよ。購買のカメラの死角、だいたい把握してるからさ。毎日少しずつ持ち出してる」
「……」
柚木は、驚きながらも、特に否定の言葉を口にしなかった。
「……あれ? すんなり受け入れるんだ。てっきり『そんなのダメでしょ』とか言うかと思った」
「そう思うよ?」
柚木はそっとパンを受け取りながら、小さく微笑んだ。
「でも──この学園で“正しさ”だけじゃ、生きていけない。少なくとも……私はそう思う」
一口かじって、ぎゅっと目を閉じる。
「このパン……ちゃんと味がする」
ぼそっとつぶやくその言葉には、わずかに涙のような響きがあった。
「……必要なんだよ、たぶん。時には……“そういうこと”も」
「……」
レイは何も言わなかった。ただ静かに、柚木がパンをかじる姿を見守っていた。
──そしてこの日、2人は初めて「同じ沈黙を共有した」
レイが、薄暗い倉庫の壁にもたれかかりながら、ふと口を開いた。
「……そーいえば。BクラスからDクラスに落とされた──蒼井タクトって、知ってるか?」
─蒼井タクト。
(エンドオーダーを手にして、俺が最初に調べたのは──D組の名簿だった)
(だがそこに、タクトの名前はなかった)
(Cクラスにも、Bクラスにも──どこにも、奴の名は記録されていなかった)
(もしかして、E組に落とされて……そのまま、この学園を“去った”のか?)
柚木が、少しだけ首をかしげる。
「蒼井タクト……? ううん、聞いたことないな。Dクラスに、そんな人はいなかったと思う」
──その言葉に、レイの表情がわずかに揺れた。
(……そんなはずはない)
(──まるで、最初からそんな生徒いなかったみたいに)
柚木は、不思議そうにレイの顔を見つめる。
「もしかして、その人……大切な人だったの?」
レイは、答えなかった。
ただ一つ、確かな記憶がある。
──あの日、Aクラスの生徒が笑っていた。
──その足元に、Dの腕章を巻いたタクトはいた。
まるで“馬”のように扱われ、四つん這いにされて、命令を受けていた。
けれど今、その存在すらも“なかったこと”にされている。
(……この学園では、都合の悪い存在は、本当に“消される”のか?)
(それとも──)
レイは黙ったまま、崩れかけた天井を見上げる。
「……ごめん。ちょっと、昔のことを思い出しただけ」
その言葉に、柚木はそれ以上何も聞かなかった。
廃倉庫の静けさが、二人の間に降りてくる。
柚木が、ぽつりと呟いた。
「……ねえ、レイくんってさ」
「嘘ついてる時と、本当のこと言ってる時……ちゃんと分かるよね」
不意打ちの言葉に、レイは一瞬だけまばたきを止めた。
「いきなりどうしたの?」
「ううん。ただ、なんとなく」
柚木はそう言って、少しだけ空を見上げるように首を傾けた。
「私、小さい頃から──人の癖とか、喋り方とか、すぐに気になっちゃうんだ」
「言葉の間とか、視線の動きとか、何気ない手の動きとか。そういうの、いつのまにか“覚えちゃってる”っていうか」
「……だから、レイくんの“嘘のつき方”も、なんとなく分かるの」
そう言って、彼女は笑う。
微笑みというには、あまりにも静かな表情だった。
「でもね──レイくんがどんな嘘をついても、私は……それでいいって、思ってるよ」
「だって、レイくんが私に向けてる“想い”は、本物だって分かるから」
沈黙。
レイは、返す言葉を失ったまま、じっと柚木を見つめるしかなかった。
──そしてその視線の先で。
少女は、かすかに目を細めていた。
まるで、すべてを見透かしているような……でも、それでもなお信じようとしてくれているような、そんな瞳で。
(……何者なんだ、こいつは)
レイは、静かに柚木の横顔を見つめる。
(俺が何を隠してるか……すべて見抜いてるわけじゃない。けど、“気づいてる”)
(しかも、それを責めるわけでも、問い詰めるわけでもない)
(……ただ、信じてくれている)
言いようのない感情が胸を揺らす。
──だが、それ以上に。
(……いや、待てよ)
(もしも……もし、こいつの“観察眼”が本物なら──)
(俺が心理干渉する時、その対象の“今の状態”とか“心の歪み方”を、柚木に確認すれば──)
(──最適な干渉方法が、事前に分かるかもしれない)
レイの目が、わずかに鋭く光る。
(まるで……**エンドオーダーの“外部モニター”**を手に入れたみたいだ)
(“目に見えない心理データ”を、リアルタイムで視てくれる──“人間レコーダー”)
(それが、朝比奈柚木)
「……面白くなってきたな」
思わず、口の端がわずかに吊り上がる。
気づかれないほどに、ごく微かに。
柚木が、ふと呟いた。
「……そういえば、Dクラスにひとりだけ、何を考えてるのかまったく分からない人がいたな……」
その声はどこか遠く、思い出を探るような調子だった。
「怒るでもなく、笑うでもなく……いつも無表情で、じっと周りを見てた。
言葉も、ほとんど聞いたことがないの。あの人だけ、ずっと別の世界にいるみたいだった」
レイが少しだけ眉を動かす。
(……もしかして、影森 冥──あいつか?)
(なんでわかったのか、俺にも説明できない。ただ……直感的にそう思った)
(次に仲間にするなら、あいつしかいない──そう思ってた)
あの日、皇城 瑠が“Dクラスの奴隷制度”を宣言したとき。
講堂の映像に映る中で、唯一まったく微動だにしなかった男がいた。
騒ぐでもなく、怯えるでもなく、従うでもなく。
ただ、まっすぐに前を見つめ、静かに座っていた。
あれは、明らかに──異質だった
気になって、エンドオーダーでDクラスの名簿を調べてみた)
影森 冥。
経歴上は“普通の中学”を卒業し、この学園に入学していることになっている。
だが──《END ORDER》が引き出した裏の記録は、全く違っていた。
(……あいつは、幼い頃から“特殊な施設”で育てられていた)
(記録には、意味不明なタグがいくつも並んでた)
「……何者なんだよ、影森 冥」
声には出さず、胸の内でその名を繰り返す。
(分からない。けど──だからこそ)
(あいつは、俺の“駒”にしたい)
(俺の手で動かして、その本質を引きずり出したい)
レイの瞳に、かすかに冷たい光が宿る。
(もし──この学園の“闇”そのものに触れた存在だとしたら)
(こいつは、革命の“最深部”に必要なカードになる)
──影森 冥。
(次は、お前だ)