第16話 最初の駒
「……朝比奈柚木さん、だよね?」
その声に、私は反応できなかった。
誰かが、自分の名前を呼んだ。
久しぶりに“誰か”として扱われた気がした。
でもそれは、夢の中の出来事みたいに、ふわふわとしていて──
現実感がなかった。
「真城レイです」
不意に、名乗られた。
顔を上げる。
そこに立っていたのは──
あのとき、ここで泣いていた男の子。
……なんで、覚えてるんだろう。
他人の顔なんてどうでもよかったはずなのに。
でもこの人だけは、不思議と記憶に残っていた。
「……どうしたの、その手。怪我、してる」
レイの目が、私の袖口から覗く指先に向けられる。
乾いた血と、包帯すら巻かれていない痛々しい手。
私は反射的に袖を引いた。
「……見ないで」
ぼそりと、声が漏れる。
かろうじて出せた、自分の声だった。
「……別に、助けてほしいとか思ってないから」
「そっか」
彼は、それ以上なにも言わなかった。
驚くほど、あっさりと。
そのまま隣に腰を下ろす。
壁にもたれ、無言のまま──ただ、同じ景色を見るように。
気まずい。けど、うるさくない。
怖くも、優しくもない。
ただ、空気みたいな存在。
……なのに、涙が出そうになった。
「……私、もう……」
声が震える。
口を閉じたかったのに、喉の奥から言葉が漏れる。
「どこにも……いられないの。
誰からも、見えないの。
何も、感じないの……」
言葉を紡ぐたびに、心の奥がひび割れていく。
「あの男達に、買われて、壊されて……
返品されて、今は……Eクラス。
もう、終わってるのに……どうして、生きてるんだろ……」
俯いた顔から、雫が落ちる。
私の涙が、指先の血と混じって、コンクリに染みていく。
しばらくの沈黙のあと──
彼が、ゆっくりと口を開いた。
「それでも、君は……まだ“自分”のままだ」
私は、顔を上げる。
「壊れてるって思ってるかもしれない。
でも、壊れてたら──そうやって泣くことすら、できないよ」
その声は、どこまでも静かだった。
無理に優しさを装うでもなく、同情の色をにじませるでもなく。
ただ、そっと手を差し出すような──そんな声音だった。
でも、それが良かった。
でも、それが、良かった。
誰かに「可哀想だ」と言われたら、きっと壊れていた。
「大丈夫だよ」なんて言われたら、もっと自分が惨めになっていた。
ただ、そばにいてくれるだけでよかった。
何も言わず、立ち去らず、否定せず──
この世界で初めて、私は“見つけてもらえた”気がした。
「……どうして、そんなこと言えるの?」
「実は俺も……この学園の制度に潰されて、Eクラスに落とされたんだ」
レイの声が、柚木の胸に静かに届く。
「最初は、信じられなかった。
なんでこんな理不尽なことが起こるのか、って。
努力も、誠意も、全部嘲笑われるこの場所で──
俺は、生きてる意味がないって、本気で思った」
柚木は、じっと彼の言葉を聞いていた。
その手には、まだうっすらと包帯が巻かれている。だが、彼女は口を挟まない。
「……それでも、思ったんだ。
このまま何もできずに、壊されて終わるなんて、絶対に嫌だって」
レイは、空を見上げた。淡く、夏の終わりの陽光が差し込む。
「だから、誓ったんだ。
この学園を、終わらせる。
こんな歪んだ制度も、腐った上下関係も、全部……ぶっ壊してやるって」
その瞳には、痛みと覚悟があった。
演技じゃない。理想論でもない。
生き延びるために、本気で抗おうとする者の眼差し。
「いま──そのための“仲間”を探してる」
そう言って、レイは柚木の方を見た。
「無理にとは言わない。お前には、お前の傷があると思うから。
でも……もし、少しでも、終わらせたいって思う気持ちがあるなら──」
言葉を切り、静かに手を差し出す。
「一緒に来てほしい。俺と一緒に、この地獄を終わらせよう」
──その手は、強くも、優しくもなかった。
ただ、真っ直ぐで、揺らがなかった。
そしてそれは、確かに、柚木の心に届いた。
柚木は、しばらくのあいだ黙っていた。
差し出された手を見つめるでもなく、ただ視線を落としたまま。
胸の奥で、何かが揺れていた。
逃げるのは簡単だった。
もう誰にも見られずに、ただこの学園を去ることだって、できた。
それで、楽になれる。
何も背負わずに、全部忘れて。
だけど──
「……たぶん、私……」
声が震えていた。
「このまま、学園を去ることもできると思う。
誰にも気づかれずに、誰にも見つからずに……そのまま消えるように」
でも、と続けた。
「けど、それじゃ……なにも変わらないよね。
私と同じように、痛めつけられて……泣いてる子は、まだ、たくさんいる」
その瞳が、ゆっくりとレイを見上げた。
そこにあったのは──消えかけていた“光”。
「誰かが、声を上げなきゃいけない。
誰かが、終わらせなきゃいけない。
……その“誰か”が、私でもいいって……いま、思った」
迷いは、まだある。
怖さも、きっと消えていない。
でも──
「……私も、行く。
一緒に、この学園を──変えたい」
そう言った柚木の声は、かすかに震えていたけれど。
その瞳だけは、確かに、光を宿していた。
レイがほんのわずかに、口元を緩めた。
─作戦成功だ。
柚木の瞳に、かすかな光が宿った瞬間。
俺は、内心でそう確信していた。
(これでいい……いや、これが最善だ)
同じ境遇を持った“存在しない者”からの、共感と救いの言葉。
それは、何よりも強い“誘導”になる。
(柚木はもう──完全に俺を信じてる)
タイミングも、条件も、すべて想定通り。
レグルスが返品てくれるかは少し賭けだったが、
“あの時”ミオに仕掛けたのと同じ、《心理干渉》を、事前に柚木に使っておいた。
─壊れたように、感情が反応しなくなる干渉。
涙も、怒りも、痛みさえも──失わせる、強制的な抑制。
(……まさか、爪を剥がされても無反応になるとはな)
あの光景は、正直──俺の想定をも超えていた。
けれど、だからこそ。
レグルスは柚木を返品した。
“壊れた人形”なんて、あいつの興味の対象外だ。
(……そこまで辿り着けば、あとは流れに任せるだけ)
Eクラスへの転落──存在の消去。
俺と同じ場所まで、彼女は自ら落ちてきた。
(こんなにも早く、ここまで来てくれるとは思わなかった)
その瞳に宿ったのは、かつての俺と同じ“誓い”。
そしていま、朝比奈柚木は──
俺のために動く、“最初の駒”になった。
(ようこそ、柚木……)
(お前はこれから、“この学園を終わらせるための”駒になる)
「……これ以上ここで話すのは、ちょっと危ないかもな。移動しよう」
レイの一言で、私たちは学園の裏道を歩き出した。
彼は何も言わず、黙々と先を歩く。
私は、その背中をただ静かに追いかけていた。
しばらくして──辿り着いたのは、廃倉庫だった。
「……えっ? ここに住んでるの?」
思わず口からこぼれたその言葉に、レイは肩越しに笑う。
「見た目はひどいけど、意外と住めるよ。慣れれば快適」
そう言って、錆びた扉を引いた。
──ギィ……
中に入ると、埃は薄く積もっていたけれど、床には簡易マットが敷かれ、隅には折りたたみの机や古いランプも置かれていた。
思っていたよりも“生活感”があった。
「一応、整理はしてる。まあ……俺の“拠点”ってやつだ」
レイが苦笑する。
私は、言葉が出なかった。
だけど──なぜか、少しだけ安心した。
誰も知らない場所。誰にも見つからない場所。
ようやく、少しだけ呼吸できる場所。
「それで、これからなんだけど」
レイが振り返り、真剣な目を向けてくる。
「……もっと、仲間が必要だと思ってる。俺とお前の2人じゃ、この学園を変えるには足りない」
私は、黙ってうなずいた。
「それと、資金。黎を集めないと。武器も情報も、人も──全部、金がいる」
──黎。
学園内で使われる通貨。
けれどこの場所では、単なる金ではない。“力”そのものだった。
「だから、しばらくは動きながら、仲間と黎を集めていくつもりだ」
レイの瞳は、どこか遠くを見つめていた。
「この世界を、壊すためにな」
──その言葉に、私ははっきりと頷いた。
こうして私は──“存在しない者”から、“レイの仲間”へと変わった。
たった一歩。けれど、大きな一歩だった。