第15話 壊れた少女
静寂だった。
Sクラス生専用寮の一室。
そこはまるで異国の王宮のような重厚な空間だった。
けれど、柚木の目に映るのは──ただの“処刑場”だった。
「……ようこそ、俺だけの──おもちゃ箱へ」
そう言った獅堂レグルスは、ゆっくりと立ち上がり、柚木に歩み寄る。
「制服、脱いで。すぐにね」
柚木は、無言でボタンに手をかける。
その動作に、レグルスの眉がぴくりと動いた。
「……ストップ」
柚木の手が止まる。
「つまらないな。そんなに素直に脱ぐなんて、まるで調教済みじゃん。面白くない」
そう言って、レグルスは部屋の奥にあった黒いケースを持ち出してきた。
パチン。
ロックを外し、蓋を開けると──中にはずらりと並ぶ“器具”があった。
誰が見てもわかる。“人に使うもの”じゃない。
「こっちの方が、君には似合ってるかもね」
その中から、レグルスは細く尖った金属のツールを一本取り出す。
「従順すぎるおもちゃなんて、マジで萎えるんだよ。
せめて泣いて、叫んで、逃げて……そういう反応が、ほしいのに」
柚木の手を取る。
冷たい指先。抵抗はない。
レグルスはその指を、工具で固定し──
笑いながら、淡々と告げた。
「じゃ、一枚目──いこうか」
そして、爪を、剥いだ。
──ベリッ。
血の滲む音。皮膚が裂ける感触。
普通の人間なら、絶叫してもおかしくない痛み。
だけど──柚木は、何も言わなかった。
「…………は?」
レグルスの顔から、笑みが消える。
柚木は、ただ黙っている。
泣かない。叫ばない。震えもしない。
むしろ、その瞳は──“空っぽ”だった。
「……ねえ、嘘でしょ? 今、指の爪、剥がれたんだけど?」
指を見せても、柚木は何の反応も示さない。
レグルスが眉をひそめる。
「ちょっと……痛くない? いや、痛いよね? ふつーに。
なんで声も出さないの?」
無言。
まるで、壊れた人形のように。
その“異常な無反応”に、レグルスはようやく悟る。
「あーあ……マジかよ。こいつ、完全に──“壊れてやがる”」
拷問器具を乱暴に放り出し、舌打ちをした。
「ダメだこりゃ。俺の趣味じゃねぇわ。返品、確定。
こんな壊れたおもちゃ、いらねぇんだよ」
柚木は、ただ静かに立ち尽くしていた。
血が指を伝って落ちていく。
けれど、彼女は──痛みすら感じていないようだった。
「……お前、つまんないから──もう帰っていいよ」
そう言って、レグルスはソファの肘掛けに肘をつきながら、顎で扉を指し示した。
「使いものになんないなら、ここにいてもしょうがないでしょ?」
柚木は、数秒間だけ立ち尽くしたまま、無言で俯いていた。
何も言わず、何も返さず。
ただ、機械のように体を動かす。
ゆっくりと扉へ向かい、手を伸ばす。
ドアノブに触れたその指は、どこか空虚だった。
──カチャリ。
─扉が閉まる音とともに、レグルスはソファに深く体を預けた。
「……やっぱ、つまんねーわ」
そう呟いて、スマホを取り出す。
画面をタップし、端末に登録された“管理番号”を呼び出す。
はい、《奴隷管理委員会》です。ご用件をどうぞ」
レグルスは軽く舌打ちして、面倒くさそうに口を開いた。
「昨日オークションで落とした奴──“朝比奈柚木”って女。返品で。もういらない」
「返品理由をお願いします」
「壊れてた。外見はマシだけど、中身が完全に死んでる。
命令は聞くけど、反応も抵抗もなくて、まるで人形。
──俺の趣味じゃない」
しばしの間。
「……承知しました。では、規定により──該当登録者はリストより削除し、処理に入ります」
レグルスは眉をひそめる。
「いや、それだけじゃダメ。
“王族権限”で命令──あいつ、Eクラスに落としておいて。
使い物にならないゴミは、もう学園に置いとく意味ないから。
……王に、そう伝えといて」
「かしこまりました。命令、確かに受理しました。処理を開始します」
ピッ。通話が切れる。
* * *
─次の日。
痛む指をかばうように、私は登校していた。
制服の袖の中、血はもう乾いていたけれど、動かすたびにズキンと鈍い痛みが走る。
昨日、あのとき──
爪を剥がされた瞬間、確かに“痛いはず”だった。
けれど私は──
何も、感じなかった。
それが怖かった。
痛みに反応しない自分が、一番おかしかった。
(……私、壊れたんだ)
そんな事を思いながら歩いていると、気づけば、私は教室の前に立っていた。
─ガラリ。
扉を開ける。
けれど、その瞬間──空気が変わることはなかった。
……そこには、私の席がなかった。
机も、椅子も、私の居場所も。
床の一部が、まるで最初から“空きスペース”だったかのようにぽっかりと空いている。
ああ──そうか。
もう、私は“いない人間”なんだ。
「──朝比奈」
担任の声がした。
無機質で、感情のない声。
「腕章、外せ。今日から、お前はEクラスだ」
私は黙って腕を差し出す。
すでにそこには、何も巻かれていなかった気さえした。
先生が手を伸ばし、黒い腕章を引き剥がす。
──バサ。
布の落ちる音が、やけに耳に残った。
(Eクラス……)
頭では理解していた。
けど、心はもう、何も感じなかった。
──誰かと目が合う。
でも、すぐに逸らされる。
まるで、そこに“誰もいなかった”かのように。
声も、ざわめきも、全部が自分を避けて流れていく。
“存在しない者”。
私はいま、確かに──その烙印を押されたんだ。
(……でも)
ほんの少しだけ、心の奥で、何かが緩む感覚があった。
(よかった……戻らなくて、いい)
あの“部屋”に。
あの“男”の元に。
あの世界よりは、まだ──マシだ。
たとえ、誰にも見えなくても。
たとえ、もうこの世界で“終わっている”として扱われても。
(……でも)
(これから、私は……どうやって、生きていけばいいの?)
答えはどこにもなかった。
教室の音だけが、空っぽの身体を通り抜けていく。
* * *
私は、行くあてもなく──
学園の敷地内を、ただ彷徨っていた。
「存在しない者」。
この学園での生活は、もう終わった。
教室に席もない。寮に部屋もない。
帰る場所も、明日の予定も、もうなにも──
存在しない幽霊のように。
誰にも認識されず、
ただ空気のように漂っているだけの“何か”になってしまった。
けれどそれでも──
(……誰かの奴隷にならくて、いい)
その事実だけが、唯一、私の中に“生きてる感覚”を残していた。
気づけば、私は足を止めていた。
そこは──体育館裏。
いつも、お昼をひとりで食べていた場所だった。
風に揺れる木々の影。ひんやりとしたコンクリの壁。
まるで時間が止まったように、そこだけが静かだった。
そういえば──
ここで、一度だけ見かけたことがあった。
ひとりで弁当を食べながら、ぽろぽろ泣いていた男の子。
名前も知らない。理由も聞いてない。
でも、なんだか放っておけなかった。
(……バカみたいだよね)
自分がこんな状態になったのに、他人のことを思い出してるなんて。
そう思って、目を閉じかけたその時──
「……朝比奈柚木さん、だよね?」
突然、声がした。
心臓が跳ねる。
ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは──
あの日、ここで泣いていた、あの男の子だった。
そして彼の目は、まっすぐに、私を“見ていた”。
──この瞬間、
世界の色が、ほんの少しだけ、戻り始めた気がした。