第14話 灰色の空の下で
─私の名前は、朝比奈柚木。
この学園に入るために、私は必死に努力してきた。
テストの点数を上げるために、夜中まで勉強した。
とにかく、できることは全部──全部やった。
だって、《久遠黎明学園》に入れば未来が約束されるから。
卒業すれば、超一流大学や国家機関、名だたる企業にほぼ確実に内定が決まる。
──そんな“特別な学園”。
受かったときは、信じられないほど嬉しかった。
小さな声で、「やった……」って呟いて──
そのあとは、ずっと泣いてた。
……お父さんは、私が中学のときに亡くなった。
弟と妹がいて、お母さんがひとりで、毎日遅くまで働いてる。
私はこの学園を出て、安定した企業に就職して、
お母さんを楽にしてあげたかった。
家族を、支えたかった。
だから、合格した日は、お母さんに電話して、
「これで恩返しができるかもしれないね」って笑った。
──入学初日
先生から学園の説明を受けて、生活費として《500黎》を支給された。
最初は「こんな金額じゃやっていけない」と思ったけれど、
この学園の中は物価がとても安くて、日用品や文房具はほとんど買えてしまった。
(意外となんとかなるのかも……)
そう思った私は、少し安心していた。
寮を見た時は、そのボロさに思わず声を失いかけたけど─
「まあ、こんなものかな」と、納得してしまった。
──そのときはまだ、“普通の学生生活”が始まると信じていた。
だけど──
次の日から、私の地獄は始まった。
翌日。
一年の生徒が集められ、生徒会長がこう言ったのを、今でも覚えている
「Dクラスは奴隷。それ以外に意味はない」
──そのときは、何を言っているのか分からなかった。
けれど、その後だった。
D組の男子生徒が、Sクラスの生徒に何の理由もなく殴られていたのを見たとき──
私は、なんとなく“理解してしまった”のだ。
これが、この学園の“当たり前”なのだと。
そして教室に戻ると、担任教師が淡々と語りはじめた。
「君たちはDクラス。つまり“奴隷階級”です」
「働くことも、逃げることも許されません。
君たちは“選ばれる”まで、ここで待つだけです」
最初は、反発の声があがった。
「おかしい!」「ふざけるな!」と、何人かが立ち上がって叫んだ。
けれど、彼らはすぐに──“どこか”へ連れていかれた。
その生徒たちは、次の日には別人のようになっていた。
無言で、SクラスやAクラスの生徒に付き従い、命じられるまま動いていた。
まるで──“壊された”みたいに。
私は、恐怖した。
どうすれば逃れられるのか。
目立たないように。何も見ないように。
ただ静かに、ただ息をひそめて生き延びようとした。
……だけど──
その“順番”は、すぐに回ってきた。
ある日、突然。
私は何者かに呼び出され、教室の外で顔に黒い袋のようなものを被せられた。
目も、耳も塞がれたまま、どこかへ連れていかれる。
(どこ? どこに──)
不安も、混乱も、もう何度も味わった。
だから、涙すら出なかった。
やがて、袋が外され──
まばゆい光に目が焼かれた。
「──!」
目の前に広がっていたのは、異様な空間だった。
幾重にも並ぶ透明なブース。
そのひとつひとつに、“制服姿”の生徒たちが陳列されている。
天井には光が脈打ち、仄暗い空気に、機械音とざわめきが混ざっていた。
(ここが……先生が言ってた……“オークション会場”──)
声にならないほどの、現実離れした異常さ。
足が震えた。けれど、逃げ道はなかった。
私は、その“ガラスの檻”の中に、無言で押し込まれた。
─最初に、私を落札したのは──
Aクラスの腕章をつけた、190を超える見知らぬ男子生徒だった。
まだ、そのときは信じられなかった。
目の前で“数字”が表示され、係員に腕を取られ、私はその人間の“所有物”にされた。
現実感がなくて、頭がついていかなかった。
ずっと、夢を見てるような気分だった。
「……おい、ついてこい」
有無を言わさず、引っ張られた先は──Aクラスの寮。
D寮とは比べ物にならない豪華さだった。
エントランスに敷かれた絨毯、無駄に広い部屋、王族みたいな家具。
でも、その空間の中で──私の中の“何か”は、音を立てて崩れた。
男は椅子に座り、スマホを投げるように置いたあと、言った。
「……お前、俺の“持ち物”だろ。だったら──わかってるよな?」
そのとき、ようやく理解した。
──ああ、この人は、“私”を人として見ていないんだ。
「脱げよ。全部」
「……いやです」
かすれた声で抵抗しても──
男は、笑っていた。
「……やっぱ最初は反抗するよな、奴隷って」
その言葉のあと、私は殴ら続けた。
痛かった。けどそれよりも、“心”が折れる音の方が、ずっと鮮明だった。
何度も何度も、拒絶して、泣き叫んで、お願いして──
でも、男は止まらなかった。
この身体で、誰かにあげるはずだった“たった一度きりの初めて”を奪われた。
「明日から、楽しくやろうぜ? なぁ?」
その声が、酷く遠くに感じた。
* * *
気がつけば、私はひとりで歩いていた。
いつの間にか、Dクラス寮の入り口が見えていた。
いつもはあれほどボロく、薄汚れた建物だと感じていたのに──
今の私には、それが“唯一戻れる場所”に見えた。
その夜、私はただ泣きながら、布団もかけずにスマホを開いた。
スマホを取り出して──
何も考えず、写真フォルダを開いた。
表示されたのは、家族の写真だった。
笑っている弟。
まだあどけない顔の妹。
そして、疲れているはずなのに、どこか優しく微笑んでいるお母さん。
(……お母さん)
(ごめんね……私、もう、ダメかもしれない)
「……助けてよ……誰か……」
声が漏れた瞬間、堰を切ったように、涙がこぼれ落ちた。
涙で画面が滲んでも、
何度も何度も、写真を指でなぞった。
「──お母さん、助けてよ……」
何をしても、誰にも届かない。
LIMEの画面を開く。
けれど、通話もメールも、すべて外部への通信は遮断されていた。
「……いやだ……こんなのおかしいよ……」
誰にも、気づかれないまま。
誰にも、助けられないまま。
私は、“この場所”に、売られてしまったのだ。
ふと、表示が切り替わる。
画面の中で、みんなが笑っている。
それを見た瞬間──全身の力が、抜け落ちた。
布団に顔を埋めて、ただ、泣いた。
震える声で、何度も名前を呼んだ。
─誰か、私を迎えに来てよ。
ここから私を連れてってよ……。
─あの男は、ある日突然、私を“返品”した。
理由は、わからない。
飽きたのか。
壊れたからか。
それとも、次の“おもちゃ”を見つけたからか。
ただ、係員に連れられ、無言で元の場所に戻された。
心はとうに空っぽで──何も感じなかった。
命令されるまま、動くだけ。
与えられた場所で、ただ存在するだけ。
私は、もう“私”ではなかった。
(……なんで、こんなことに)
ずっと目を背けていた現実が、
胸の奥をじわじわと腐らせていく。
でも、腐ってもなお──私は生きていた。
そして、ある日。
新しい“引き渡し”が決まった。
今度の“買い手”は、Sクラス。
中でも、“女しか買わない”と噂される異常な男──
──獅堂レグルス。
係員に連れられ、私はSクラス専用の寮の前に立たされていた。
「これより先は、あなたの所有者以外に逆らう必要はありません」
「……生きている限り、彼だけが“主”です」
扉の前で、私は少しだけ空を見上げた。
濁った灰色の雲。
光なんて、もうどこにもなかった。
(──ああ、私はまた“売られる”んだ)
震えもしなかった。
だって、私はもう、
“泣くこと”すら忘れてしまったから。
電子音が鳴る。
カチリ、と鍵が外れる音。
まるで異国の王宮のような扉が、静かに開かれた。
──私は、“命令”を待つだけのモノとして。
ただ、静かに、その闇の中へと足を踏み入れた。