14
一頻り水族館を堪能した後、俺達は江の島へと足を伸ばした。土産物屋が並ぶ坂道の途中で名物と打ち出されているシラス丼を食べて、前回は行けなかった江の島の頂上を目指す。
狭い通りには観光客で埋まり、日本人も外国人も一緒くたになって賑わっていた。
「あの子たち手、繋いでる」
そんな声がして、一瞬気が怯んでしまうと、それを見透かしたように、はぐれないようにと繋いだ手を強く握られる。
「気にしないでいい」というような力で拘束されると、それを振り払う気持ちが一気に凪いで、安堵さえしてしまう自分がいた。
匠は以前より強くなったと思う。
あの頃だったら、きっとお互いに手を離して、外では徹底して友人という体裁を装っていただろう。けれど、今は知らない人の意見なんて軽く跳ねのけられるくらいには、自分の気持ちを大切にする力が強くなったように思う。
一方の俺は、何も変わってない気がして、少しだけ恥ずかしい。
好きだと言いながら、他人の言葉や視線に敏感に反応して、あの頃みたいに手を離してしまいそうになる。
「匠は、強くなったね」
思わず思っていることが口から零れると、隣を歩いていた匠が「そんなことねえよ」と首を横に振った。
「ただ、手ェ離したら、離れる事も失うこともあるって、……当たり前のことを知っただけ」
俺はその言葉にはっとさせられる。
どうして俺は、それを未だに分かる事ができないでいたのだろう。一度手を離して、失っているのに――失ってきちんと傷付いて、後悔までしているのに。
そして、その時一緒に手放せなかった思いが、未だに胸の中にあって、それを匠と一緒に寄り添わせたいって思ってるのに。
心臓の裏側が熱い。
匠のことを、また失いたくない。今度こそちゃんとそばに居て、思っていることも言葉にして、ちゃんと聞いてもらって、聞かせてもらいたい。ただ好きだという気持ちだけで終わってしまっていたあの時を、もう一度……。
「あ! 展望台だ」
顔を上げると、植えられた青々とした木々の向こう側に、キャンドル型の展望台が見えた。どうやら上る事もできるようで、綺麗に植えられた花壇を速足で抜けて、俺達は展望台へと急いだ。
大きくはない展望台にはそれなりに人がいて、それぞれが思い思いに過ごしている。記念の一枚をカメラに収める人、遠くの地平線を寄り添いながら眺めるカップル。抱っこされてはしゃぐ子供たち。地上よりも強く潮風に髪を乱されながら、俺は手すり越しの海を眺めた。真上まで上り詰めた太陽の光を照り返す、海面の波間で、宝石のような煌めきが起こっている。地平線は白い光で淡く空と交わり、穏やかなうねりを寄せてくる。遠方に見える船の灰色の影、波打ち際のサーフィンやサップのカラフルなボード。
開けた視界に清々しさを感じながら、肺一杯に海の香りを吸い込んだ。
「凜くーん」
呼ばれて振り返ると、またかしゃっと電子音が響く。また撮られた。
「撮るなよ、金取るぞ」
「いいよ、いくら?」
「突っ込めよ、良くねーわ」
二人でふざけながら笑って隣同士に並ぶと、遠くから海の潮鳴りが聞こえてくる気がした。
子どもはしゃぐ声がして、穏やかな誰かの会話が聞こえてくる。少し熱いくらいの白い太陽の光が眩しくて、目を細めると、照らされた全ての物の形を縁取る線が、とろりと蕩けて滲むような気がした。
「気持ちいいな」
「うん。なんか、ちゃんと地平線って曲線なんだね」
緩やかなカーブ描く海の線を、指先で辿ると、匠が隣で頷く気配がした。
「地球ちゃんと丸いな、よかった」
何が良かったか分からないけど、俺も良かった、と同じように呟く。
「……匠は、俺と離れた後何考えてた?」
ずっと考えていた事が、何となく言葉にできた。
匠は深く沈黙に入ると、何か答えを探すように、海をじっと見つめた。俺は彼から紡がれるだろう言葉を待ちながら、同じように地平線を見つめる。白波がきらきらと太陽の光を反射して煌めいていた。
「友達じゃなくなった途端、こんなふうに離れるなら、言わなきゃ良かったって思ってた」
言わなきゃよかった。
その言葉にちゃんと傷付いている自分がいる。
けれど、お互いの間に友情以外の恋愛という要素を入れてしまったがために、俺達は離れてしまったのも事実だ。それがなければ、あんなふうに苦しい想いをする事もなかったし、離れることなくそばに居られた。
友情ならば永遠なのに、恋愛が終わったら、関係も終わってしまう。
俺達はそんな事も理解していない、子どもだった。
「でも、後悔もしたけど、やっぱ凜の事は好きだったし、言った後の苦しみ、言わないままの苦しみ、どっちかはあったんだろうなって思う」
彼はそう清々しいほどの、すっきりとした声音で告げると、俺へと視線を投げてくる。目と目が寸分のズレなく合えば、何か言葉がなくても言葉が通じるような気がして、目が逸らせない。
「だから、俺は凜がいなくなった後も、凜のことが好きだってずっと思ってた。だから、この高校を受験した」
一緒の高校に行きたいね、と約束したあの日の記憶が、ふわりと胸の奥にわいてくる。
「もしまた会えたら、もっかい好きになってもらおうって思ってた」
「そっか……」
恥ずかしくなり、視線を下げると、
「凜は?」
と質問を返される。
俺は、と連絡が取れなくなっていたあの苦い日々を思い出す。悲しくて、でも自分から行動ができずに情けなくて、不甲斐なくて、臆病な自分が嫌だった。
でも、この高校でまた匠に会えたら……そんな夢も抱いていた。
「俺は、悲しかった。でも、それでも動けない自分にすごく腹が立ってた。……それから、また会えたらって思ってた」
心臓がどくどくと大きく脈を打ち始める。
喉元まで出ていた言葉が、胸の奥で騒いで、心臓や鼓膜の傍で暴れ回っていた。
ずっと言えずに、喉奥に押し込んでいた言葉。
「今も好きだよ」
そう告げてから彼の方を見る。匠は言葉を理解していないように、ぼんやりと俺を見つめてきた。その瞳の中には。湾曲になった俺だけが映っている。
あの寒い日とは違う、温かな瞳の奥に、俺がいる。
「今も昔も匠が好き」
もう一度、はっきりと告げると、じわじわと目の色に漣が立ち、ゆっくりと匠の顔が幼く破願していく。笑いたいような、泣きたいような、複雑な感情が溢れ出したかのような彼の顔は、恥じらいを捨てたかのようにくしゃりと潰れて、まるで幼い子どもが素直に喜ぶかのように笑った。
「泣きそう」
「泣かないでよ」
手すりの上で腕を組み、その中に顔を埋める匠の、丸まった背中を撫でて寄り添う。
「あー、もう、すげーしあわせ」
「うん、俺も」
「……前よりはさ」
「うん」
「俺、前よりは大人になったと思うから」
「うん、俺も。前よりはちゃんと、思った事を匠に伝えられるようになったと思う」
あの頃よりは成長した。今もまだ不器用なところはあるかもしれないけど、前よりは素直に前を向いて、足を前に出すことができるようになったと思う。
不意に顔を上げた匠の頬は、赤ちゃんの頬みたいに愛らしい赤に染まっていた。それが可愛くて、思わず笑ってしまう。
「今度こそ一緒にいよ」
俺は匠からの言葉に、深く頷いた。
「一緒に居る。匠のそば、離れないよ」
頷くと胸の奥からほっとしたような、安心感が身体をゆっくりと解していく気がした。いつの間にか緊張していた身体の筋肉が解けると、身体の内側の心までもが緩んできて、思わずつん、と咽喉の奥が痛くなる。
こんなに弱っているつもりはなかったのに、匠にまた会えて、同じ気持ちでずっといられたのだと思うと、嬉しいや安心やらの気持ちがないまぜになって心を乱す。
安心してるのに、どんどん泣きたくなってきて、俺は匠の肩に顔を押し当てた。
「ちゃんと、迎えに行かなくてごめんな」
そう言いながら、髪をさらさらと撫でてくれる。
「うん」
瞬きをすると、何故だが目尻に涙が滲んで、俺は慌てて彼のシャツにそれを擦り当てる。すると、彼の長い腕が俺の肩を抱き寄せてくれる。
人に見られる。
あの人たちおかしいって、指さされる。
早く離れなきゃ。
そんなふうに思うのに、彼の腕の中から抜け出すことができない。もうずっとこの腕の中から逃げ出したくない。
匠の優しい息遣いがそばで聞こえる。髪を撫でてくれる優しい指先の感触も感じる。俺は、
「もうちょっとだけ」
そう呟いた。
遠くで穏やかな潮騒が聞こえる気がした。