13
「二か月連続はさすがに初めてかも」
「俺も」
一か月ほど前に校外学習で訪れた水族館を前に、俺達は大きな海辺に面した看板を見上げながら呟く。太陽の光がちらちらと網膜に焼き付き、眩しくて、俺は目を細めた。
隣に目を向ければ、青い大きめのシャツに、デニム姿の匠が、まるで俺よりも二、三歳年上のような顔をして立っている。
かっこいい。
シンプルだけど地味じゃない服装の色合いもそうだけど、匠の元の素材の良さが際立っている。中二の頃はお世辞にもカッコいいという表現が合うタイプではなかった。――人は変わるものだな、なんて感心しつつ、
「チケット買うか」
と言う匠に手を引かれて、販売口の前へと移動した。さらりと当たり前のように手を握られた事に、心臓がどくりと音を立てる。
しかし、いや待て、と俺と自身の胸の内に喝を入れた。
今日はデートとかいう浮かれた気持ちじゃなくて、匠の学校生活について、何か相談に乗れればと思って誘ったのだ。こんな浮ついた気分ではだめだ。
俺は改めて自身を叱咤すると、財布を出す振りしながら、匠の手から逃げる。するりと抜けた手は追いかけてくる事もなく、俺はそれに少しほっとしたような、物足りないような気になりながら、チケットを買うと館内へと入った。
自動ドアが開くと同時に、ふわりと冷たい空気が、暑くなった身体をすうっと冷却する。
それに安堵しながら、先月も来ているので特に目新しくはない。けれど、心持ちが前回とは異なる足取りで、館内を歩く。
ひんやりと薄青い館内には、疎らな観光客と、小さな子どもを連れた家族連れがおり、土曜日ということもあってか、混雑気味に館内は埋まっていた。
「この前の平日より混んでるね」
「まあ、土曜だしな」
水槽を遠くから眺めながら、前と同じ道をゆっくりと歩く。
「前は入って早々クラゲのスペース連れていかれたから、ここら辺あんま見てなかった」
そう言いながら、腰を屈めて小さな水槽を興味深く覗き込む。、俺も同じように腰を屈めて、匠の隣で水槽を覗き込んだ。白に黒のストライプの入ったエンゼルフィッシュが水草の隙間を滑らかに泳いでいる。
「気持ちよさそう」
「だな、俺も一緒に入りてぇ~……」
「匠じゃデカすぎ」
「じゃあ、あっちのデカい水槽」
「それなら俺も入りたい」
小さく笑うと、足もとを転がるように走る子どもの事を丁寧に避けて、匠は先へと進んでいく。俺はその背中を追いかけて隣に並ぶと、
「あのさ」
匠がこちらを見ないまま、魚へと視線を投げながら、
「手、繋ぐのは……アリ、ですか?」
そう言いながら、ちらりと一瞬だけこちらを見る。すぐに離れた眼差しの目元は、暗くても何となく分かる程度の戸惑いのような色を見せていて、俺は自然と心臓が高鳴ってしまうのを感じた。とくん、と陸に揚げられた魚みたいに、飛び跳ねる。
「……悪い。ちょっと浮かれてんだわ、俺」
その言葉に、更に心音が加速する。
そんなつもりで来てるわけじゃない。――でも、彼を好きだという気持ちを認めてしまっている今、そんなふうに言われたら、断る事も難しい。
建前の裏側で、きっと俺だって浮かれてるのだから。
俺は右手の人差し指と親指を擦り合わせた。この手で、匠の左手を握るだけ。それだけのことが、すごく遠い。
でも、匠の方から歩み寄ってくれた。
「……あり、だと思う」
そう答えると、匠と目が合った。少し驚いたように、一瞬だけ大きくなった双眸の中に、水族館特有の青い光が吸い込まれて不思議な色に変化する。俺はそれを綺麗だな、と思いながら――そして、好きだなと強く思う。
不意に中指に温かいものが触れる。ゆっくりと侵食するみたいに、匠の長い指先が俺の手の平や指の隙間に滑り込んできて、俺達は指を絡ませて、手を握った。
「ちょっと、恥ずかしい」
素直に言葉にすると、
「まぁ……でも、離すほどじゃないだろ?」
そう覗き込まれて、俺は素直に頷いた。
さっきよりも近づいた体温と身体で、繋いだ手をこっそりと暗がりに隠しながら、俺達は館内の柔らかい黒い絨毯を踏みしめ、水槽を一つ一つ丁寧に覗き込んだ。
緑色の水草、色とりどりの小魚たち、暗い岩陰に隠れてじっとしている爬虫類。空いている手でひんやりとした水槽の硝子に触れれば、小さな魚が寄って来て、その愛らしさにふたりで笑った。
「天井低いから、なんか海の中歩いてる気分になるね」
「そうだな。確かに、天井低いかも」
「そう言えば身長どのくらいになった?」
「百七十五くらい」
「憎たらし~」
「凜はいくつ?」
「百七十」
「可愛いじゃん」
「うっざ~」
軽く睨みつけると、それすらも淡く微笑みを返されてしまい、太刀打ちできなくなる。何だか悔しい気もするが、これも惚れた弱みというところだろうか。
手のひらに匠の少し湿った体温を感じながら、俺達は大きな水槽の前を抜けて、クラゲの為に設けられた、広々としたスペースに入る。おそらくここがこの館内での目玉の一つなのだろう、ほんのりと青い光が強くなった展示スペースは円形となっており、その中央にはこのスペースの目玉でもある球体の水槽が鎮座している。人も多く、殆どがスマートフォンカメラを起動させて、撮影に熱心だ。
ぐるりと辺りを見渡してから、隣にいる匠に目を向けると、彼は真剣な眼差しで水槽の中の、クラゲの長い脚を追いかけていた。
「これ、絡まりまくってる……」
「ほんとだ、絶対解けないでしょ、こんなの」
二匹の寄り添ったクラゲの長い触手は、細く繊細で、それがもうほどきめが分からない程に絡まり合っている。けれど、そんな事も気にせず、ゆったりとお互い好きな方へと、傘を膨らませては水を掻いて泳いでいくから、今にも千切れてしまいそうだ。
ゆっくりとグラデーションするライトの光を傘の中に蓄えて、色を変えていく幻想的な姿に、終始見とれていると、かしゃっと機械的なシャッター音が聞こえてきた。あまりにも近いその音に驚いて顔を向けると、再度かしゃっと音がする。
「かわいー……」
匠はそう言いながらスマートフォン覗き込み、写真を確認する。どうやら盗撮されたらしい。
「おい! 勝手に撮るなよ」
「いいじゃん、減るもんじゃねーし」
「減る! すごい減るからダメ! あと盗撮は犯罪!」
「そこまで言う?」
匠は笑って俺の訴えを流すと、今度はカメラを内側に設定して、クラゲを背後にカメラを向ける。小さな画面の中に、身を寄せ合っている自分たちと、背後のクラゲが上手く収まっているのが見えた。
「一枚だけ」
そう言い、かしゃっとまた機械音が鳴る。
「この前の写真は嫌だったけど、凜とならこういうのいいな」
そう言いながら、嬉しそうに写真を覗き込む横顔を眺めていると、俺もそれが欲しくなってきたので、俺にも送ってと告げると、すぐにスマートフォンがポケットの内側で震えた。スマートフォンを確認すれば、身体を近づけた俺と匠がクラゲを背景にきちんと収まっている。
嬉しい。
「ありがと。でもさ、みんなと嫌じゃないから撮ったんじゃないの? 匠結構はっきり嫌って言う時は言うじゃん」
なんとなく、話の流れに乗せて話を深堀してみると、僅かに警戒心の色が表情に宿る。俺は失敗したかもと、視線を下げると、
「……なんかよく分かんね」
匠は少し面倒臭そうに、そう吐き出した。投げやりな態度だけど、握ってくれる手の力は優しく、別の水槽へとやんわり促してくれる。
「外見が変わってさ、周りの人間も変わった」
ブルージェリーフィッシュという、小さなプレートのかけられた水槽を覗き込むと、ころりとした丸い愛らしい姿の小さなクラゲがいた。俺は黙って、水槽内のライトのグラデーションと一緒に変化する彼の白い頬を見つめる。
言葉に迷っているだろう匠の横顔は、本当どうしていいか分からないと、幼い子どもが迷子になったような不安気なものだった。
「前まで仲良くしてたゲーム仲間とか、趣味変わったと思われて一気に消えたし。そうかと思ったら今度はあいつらみてーな陽キャが寄ってくるし。……正直よくわかんねー」
確かに、外見と一緒に交友関係までがらりと変わってしまったのはすぐに分った。それが恐らく、彼の本意ではないというのも、態度で大体分かる。楽しくなさそうな顔が、クールな雰囲気として、周りに処理されてしまっているから、きっと今の匠には捌け口というものがないのだろう。
昼休みならゲームか漫画を読んでいたいだろうし、友達と遊ぶより、リアルタイムでアニメを視聴したいという部分が変わっていなければ、匠の今の場所は窮屈かもしれない。
一見、自信に満ち溢れたイケメンでも、それはあくまでも彼の外見に対する努力の賜物であり、彼の内面ではない。きっとそれに誰も気付けていないから、こうやって苦しんでいる。
そう思うと、自然と彼の手を握る手に力が入ってしまう。
「安井たちと居て、楽しい時がないわけじゃない。でも、なんか……外見で左右されてんなってすげー分かって、……気持ちわりーの」
匠がそう言うのも、無理はないかもしれない。俺はなんて言葉を返してやるのが、一番いいのかを考えるけれど、どれも安っぽい言葉のような気がして、うまく声に乗せる事ができない。
「でもさ、凜はなんも変わらないでいてくれて、すげーうれしかった」
彼を見れば、少しだけ晴れたような笑顔が見えて、
「前よりも好きになった」
そうすんなりと言われてしまうと、その言葉を頭で処理するまでに時間がかかり、自覚した時には、身体の奥からじわじわと熱が噴き出してきて。顔がかあっと熱くなってくるのを感じて。
言葉が胸の奥に焼き付くように、沁み込んできて。
「俺、凜と復縁狙ってっから」
はっきりと宣言され、匠の空いてる手の長い指の背が、さらりと頬を撫でる。
「真っ赤だけど、だいじょぶそ?」
揶揄うみたいに言われると、羞恥心と表裏一体になった怒りが噴き出してきて、
「この気障……っ! はっず!」
と、俺は彼の脹脛を軽く蹴った。
「そのまま意識してくれてると嬉しい」
そう言いながら、手を引いてくれる匠の背中を睨みつける。
言われなくても意識してしまっているし、もう好きなのに、なんで気付かないのだろう。俺がはっきりした態度を取らないせいもあるけれど、匠自身、鈍過ぎじゃないか?
羞恥心が勝り、他人のせいにしたくなる気持ちを、胸の内で爆発させていると、
「イルカショー見てから、飯食いに行こ」
俺の気も知らないで、匠が楽しそうに笑いかけてくる。俺はそれに頷くと、彼の手の引く方へと、歩き出した。