第二スクエニア神殿<春の清めの大祭>秘録
時の迷宮の奥深くには、目も眩むような宝飾品や値打ちの計り知れない魔法の品々が収蔵されているという。そんな噂に惹かれ、多くの冒険者が地下へ潜り込んだが、その多くが内部の危険さに恐れをなし、自分の命を大事に思って地上へ戻る道を選んだ。未帰還者も、たった一つしかない己の生命を大切に思わなかったわけではないだろうが、何分とも誰も帰ってこないので、その真相は藪の中だ。
行ったきり戻らなかった者の中にアールン・フィルスクがいた。痩せた黒髪の男で、垂れた巻き毛が眉毛の上で綺麗にカールしている。見る者によっては反感を抱くくらい自信たっぷりの眼をして、その口元には冷笑的な陰影があった。総じて不愉快な印象を与える顔だったが、弁舌は至って爽やかであり、話をしてみると悪い奴ではないという、ある意味では損な見た目の人物だった。
そのアールン・フィルスクが時の迷宮の向こうに消える前のことである。彼は古都ヴォノイドムの旧市街にある旅籠兼マゼラン・ギャラクシー料理店<新帝国いにしえの旗>亭に宿泊した。その晩は、とても寒かった。宿にたどり着いたのは深夜だったので、夕食に間に合わず、空腹を抱えながら粗末なベッドで寝て起きた。待ちに待った朝が来たので、朝食を摂りに向かう。食堂の大広間は長い歳月で黒ずんだ梁と傷だらけの太い柱十数本で支えられていた。暗褐色のタイルが張られた床の真ん中にある覆いのない火床では、雌シカと雄ブタの胴体が鉄串に刺されグルグルゆっくり回されて炙られていた。
炎に滴る脂を見て、涎を垂らしそうになったアールン・フィルスクは、通りかかった給仕に言った。
「この炙り肉を両方くれ。パンとスープも欲しい。アンティグア産のロゼ・ワインがあったら、それも頼む。フルーツかサラダがあれば、それも貰いたい」
「朝食代は宿代とは別ですが、よろしいですか?」
アールン・フィルスクは目を見開いた。
「ばあっ! アリタ河で採れた最上級の閃光石を前金で渡したんだぞ! あれに朝食代も入っているだろ!」
「それはそれ、これはこれです」
「ふざけるな! あの宝石が、どれだけ貴重か知らないのか? 毒の風が吹く密林の奥を流れるアリタ河でしか採れない石だ! それが宿泊費だけだとは、納得できひんで!」
怒り心頭のアールン・フィルスクは故郷の謎の訛りを交えて苦情を言ったが、給仕は突っぱねた。
「今は第二スクエニア神殿の<春の清めの大祭>が開かれる時期ですから、どの旅館も混み合っています。従って、特別料金を頂くことになっております。この事は、夜のフロント担当の者がお話したと思いますが」
そんな記憶が蘇り、アールン・フィルスクは黙り込んだ。
「よろしいでしょうか?」
アールン・フィルスクは財布の中身を思い出していた。ほぼ無一文である。
「一番安い朝食は、どれだ?」
「生卵です」
「その値段は?」
給仕が金額を言った。アールン・フィルスクは首を横に振った。哀れみというよりは馬鹿にしたような顔で給仕は言った。
「他に御用はございますか? ないのなら失礼しますよ」
勝ち誇ったとまでは言わないが、それに近い残酷な表情を浮かべた給仕が立ち去りかけた、そのときである。
「ちょっと待ってくれ」
給仕は足を止めた。振り返る。火床の横に立った男が雌シカと雄ブタの丸焼きを指差して言った。
「この肉と朝食セットを、二人分お願いする」
給仕は確認した。
「量が多いですが、それでよろしいのですか?」
「ああ、そうだ」
男は頷いてアールン・フィルスクに微笑んだ。
「こちらの御仁の分なので」
そう言われた給仕だったが、それでも念押しを忘れない。
「よろしいのですね」
「もちろんだ……ああ、そうだ。スープは昨日と同じかい?」
「はい」
「それでは、あの中身の入っていないスープではなく、チルチアデフ山の毒抜き茸が入った冷製スープに替えてくれ。昨夜の晩餐に出た料理だ。あれは美味しかった」
それから男はアールン・フィルスクに尋ねた。
「それでよろしいですかな?」
良いも悪いもない。今のアールン・フィルスクなら毒入りシチューでもお代わりするだろう。
「もちろんですとも」
二人は朝食を共にした。男はヤンチューレと名乗った。老いの坂に差し掛かった、頭の禿げた大男だった。
「ザライズゲルで害虫駆除業者をやっております。このヴォノイドムには年に何度か商用で訪れるのですが、いやはや、この<春の清めの大祭>の行われる時期は宿を取るのが大変で、本当に苦労します」
アンティグア産のロゼ・ワインは置いていなかったが、代わりに飲んだ胡椒入りの紅葉色をしたアルコール飲料に満足していたアールン・フィルスクは、真っ赤になった顔で何度も頷いた。
「そうですとも、そうですとも。宿代も跳ね上がりますからね。困ったものですわい」
その言葉を聞いてヤンチューレは微笑んだ。
「異郷の訛りが時々お話の中に出て来ますね」
アールン・フィルスクは頭を掻いた。
「ははは、大変お恥ずかしい。気付かぬうちに異邦の訛りが出てしまうようで」
「私もですよ。注意しているのですが」
そう言ってからヤンチューレはテーブルの向かいに座る男の顔を覗き込むようにして尋ねた。
「もしや、御仁も異世界からの転生者か、転移者ですか?」
小さく頷き、アールン・フィルスクも尋ねる。
「もしかして、あなた様も」
ヤンチューレは、ゆっくりと頷いてドングリ珈琲の入ったマグカップを口元に運んだ。一口啜ってから、懐かしそうに言った。
「私がいた異世界のことを、最近とても思い出すのです。まるで自分の古里であるかのように懐かしく。この世界で生まれ育ったのに。それが前世の記憶というものなのでしょうか」
ヤンチューレは自分の送ってきた人生を語り始めた。他人の一生には一向に興味のないアールン・フィルスクだが、朝食をご馳走になった手前、聞くよりほかなかった。
古都ヴォノイドムの南にある地方都市ザライズゲルでヤンチューレは生まれ育った。貧乏貴族の六男坊として生まれた彼は早くに家を出て自立する道を選んだ。地下迷宮に潜り、怪物たちを退治し、その宝を奪う冒険者の生活である。ある程度の資金が貯まったところで商売を始めた。害虫駆除の仕事である。これが当たった。富裕層の一員となりザライズゲルでは指折りの名士となった。
「そんなときです。前世の記憶が蘇ったのは。ええ、転移前の記憶、つまり異世界の記憶です。向こうで話していたアクセントや訛りも思い出しました。それと似た響きが、先ほど聞こえてきました」
「そうでしたか」
ヤンチューレはマグカップに視線を落として呟いた。
「そんなに幸せな記憶ではないのですけど、思い出すと懐かしい気持ちになります。何だから何だ、単なる感傷だろうと言われるでしょうが、聞いていただけますか?」
それが朝食代の対価なのだろう。アールン・フィルスクは頷いた。
★ 異世界の記憶その一、冬の終わりと春の再会の物語 ★
私をいじめていた男子は、物凄く体が大きかった。小学生なのに中学生と間違えられるくらいで、相撲部屋からスカウトが見に来たという噂まであるくらいだった。本当の話なのかどうかは知らないけれど、スカウトは最終的に、その話を無かったことにしたそうだ。「卒業したら上京だ!」と本人は弟子入りに乗り気だったそうだが、素行不良だったことがネックになったと聞いた。根っからの乱暴者だったことが問題視されたのである。力士なのだから、ちょっとくらい悪でも強ければオーケーという気はするけれど、ちょっとどころでないと弾かれてしまうようだ。アウトとセーフの境目は、どの辺にあるのだろう? 私には関係ないが、あの子にとっては大切なラインだったはずだ。力士になっていたら、彼の運命は変わっていたはずだから。
その日は大雪が降っていた。朝の登校中、除雪車が道路の雪を掻き分け、ブルドーザーが除雪した雪を道の脇に山と積み上げている。下校の頃には、その雪山が子供の背より高くなっていた。その横を一人で歩いていたときである。助けを呼ぶ声が聞こえた。探しても姿は見えない。誰か大人を呼んで来よう、と思ったときだ。その声が近くの雪山の中から聞こえてくると気付いた。その雪山に登ってみる。頂上付近に大きな亀裂があった。声は亀裂から聞こえてきていた。中を覗くと、いじめっ子の姿があった。
雪山に登っていたら、その隙間にずぼっとはまり、出られなくなったのだそうだ。
道の横に積もった雪の山の上を歩く子供はいる。面白半分に登る子もいる。いじめっ子の男子も、その一人だった。そしてクレバスのような亀裂に落ちて動けなくなったのだ。
あいつは「早く大人を呼んで来い」と言った。私は、その顔めがけて雪を落とした。すっかり埋もれるまで雪を入れた。その作業を、あいつの声が聞こえなくなるまで続け、私を誰も見ていないことを確認してから、その場を立ち去った。
か弱い女の子だって、強い男の子に勝てる! そう思うと興奮して、その晩はなかなか眠れなかった。
いじめっ子は、その日から学校に来なくなった。学校の全体集会が開かれた頃、行方不明になったというニュースが報道された。いや、逆だったかな。何しろ昔のことで、もう忘れた。だが、こう思ったのは覚えている。春が来たら出てくるさ、と。
☆ 異世界の記憶その一、終わり ☆
上記のような話っぽい何かを語り終えたヤンチューレは、マグカップの中のドングリ珈琲を飲み干した。わずかに首を横に振る。それから彼は言った。
「お聞きいただきまして、本当にありがとうございました」
何か感想を言った方が良いような気がして、アールン・フィルスクは言葉を探した。
「いじめは、良くないですね」
そんなありきたりなコメントだったが、ヤンチューレは満足したようだ。
「雪の中に埋められたときは腸が煮えくり返ったのですが、今は反省していますよ」
除虫菊を大量に買い付けると言ってヤンチューレは宿を出て行った。アールン・フィルスクは空になったワイングラスの縁を指先で撫でながら思案していた。ほとんどなくなった所持金を、何とかして増やさないといけない。古都ヴォノイドムまで行けば、何か仕事があるだろう。そんな考えでやってきたのだけれど、その予想が当たるとは限らない。腹ごしらえを済ませたところで、仕事探しに出かけるか。そう考えをまとめ、席を立ち上がりかけたときである。
「今の話を聞かせてもらいましたよ」
そう話しかけてくる男が現れた。ハンサムな青年だった。宝石が飾られた小麦色の長いローブを着ている。無数の金の糸が煌めく金毛羊の毛皮の上着を手に持っていた。今朝は昨夜とは打って変わって暖かい。どちらを着るか悩んで、ローブを選んだのかもしれない。
「異世界のお話を聞くのが、僕は大好きなんですよ」
そう言って青年はアールン・フィルスクの前の席に座った。
「今、よろしいですか?」
バカ野郎! 座る前に言えよ、とアールン・フィルスクは腹の底で毒づいた。表面上は穏やかなままである。人生の浮き沈みを重ねてきた彼は、思慮分別と柔軟性を兼ね備えた大人だった。無作法な若者を怒鳴りつけるのは、その望むところではない。まして、叱りつける青年が、良いところの坊ちゃんみたいな格好だったら、なおのことだ。
アールン・フィルスクの予感が当たった。フィルロ・スグロドと名乗る青年はスグロドの郷士の長者の長男で、その財産を相続する者を意味する<太郎>という称号の持ち主だった。彼は体を悪くした父の代理として<春の清めの大祭>の開かれている第二スクエニア神殿を参拝した帰りだった。
「凄く混んでいて驚きましたよ。僕の田舎の全人口の数倍は神殿にいたのではないでしょうか?」
第二スクエニア神殿の代名詞的存在であるド・ラクエの像に持参した供物を捧げ、言いつけられた用事はすべて済ませたが、せっかく都会に来たのだから、少し見物していこうと思い、あらためて宿を取ったのだった。
「でも、危なかったですけどね。危うく宿を取れず、野宿するところでしたから」
とはいえフィルロ・スグロドは野営に慣れていた。彼は飼っている馬や牛や羊の世話をするため、時に野原で寝ることがあったのである。
そんな話を聞きながらアールン・フィルスクは、その田舎の金持ちの御曹司から金を巻き上げる方法はないだろうかと考えていた。
「失礼、こんな話をするつもりじゃなかった。アールンさんは異世界から来た人なんですよね?」
その通りなのでアールン・フィルスクはコクリと頷いた。
瞳をキラキラ輝かせてフィルロ・スグロドは言った。
「異世界の話を聞かせて下さいませんか? 田舎だと、異世界から来た人とは、そんなに出会えませんから。お願いしますよ。国に土産話を持って帰りたいんです」
頼まれると断り切れない。正確には、この太郎ちゃんから金の匂いがするので、断れないだけなのだが。
自分の実体験ではないこと、そして、それほど面白い話ではないことを、あらかじめ言っておいてからアールン・フィルスクは語り始めた。
「これの元ネタは、ある人物が書いた物語だ。その人物にも前世の記憶があった。異世界の記憶だ。その思い出を綴った作品を、私が読んで覚えたものだ。だから、内容に間違いがあると思う。それを了承してもらいたい。それと、話の中身が、少々だけれど刺激的かもしれない。それを心しておいてくれたまえ。それから、つまらないと思うかもしれない。その覚悟をしておきたまえ」
★ 異世界の記憶その二、魔界の果たし合いは過酷だった ★
魔界のプリンスは当惑していた。
「果たし状? 魔界学園の体育館裏で待つ? なんだこれ?」
従者が事情を説明する。
「その果たし状は、転校生の悪役令嬢がプリンスの靴箱に投げ入れたものでございます。あの女は、プリンスがいずれは魔界の王になるお方だと知り、恐れ多くもプリンスを倒し、この魔界の王になろうと企んで決闘を申し込んできたのです」
魔界のプリンスは呆れた。
「学校の番長を決める不良じゃあるまいし、そんなことやってられるか。それに、今日もデートで忙しいんだ」
長身の瘦せマッチョで超絶イケメンそして頭脳は優秀スポーツ万能である魔界のプリンスはモテてモテて大変だった。悪役令嬢を名乗るスケ番と学校の裏で戦っている暇はないのである。
従者から渡された果たし状を引き裂こうとしたら、中から一枚の紙が落ちてきた。プリンスは紙を拾い上げた。それは顔写真だった。美しい女性が冷ややかな目で彼を睨んでいる。
「この女は?」
従者は言った。
「これが果たし状を送り付けてきた転校生の悪役令嬢にございます」
「果たし状に自分の写真を同封してきたのか?」
「そのようで」
自分を睨みつける写真の悪役令嬢と睨み合うこと数秒……魔界のプリンスは従者に尋ねた。
「今日のデートの相手は、誰だったかな?」
「異世界宇宙を創生した根源悪のご令嬢様であらせられます」
「政略結婚希望の相手だったな。彼女も美人で清楚なところが魅力的だが、それとは正反対の悪役令嬢の方が面白い女という予感がする。彼女には悪いが、そちらのデートの相手は影武者に代行してもらおう」
魔力で動く木偶人形がプリンスの代役として異世界宇宙を創生した根源悪の美人令嬢とのデートへ出発した。女嫌いで不愛想な本物より、こちらの代役の方が女性に優しくて好評なのだが、それはこの際どうでもいい。かくして魔界のプリンスは指定の時刻に待ち合わせ場所である魔界学園の体育館裏へ向かった。そこは告白すると九割以上がオーケーとなると噂される学園の伝説的デートスポットで、在学生である彼も何度か呼び出されていた(ちなみに告白成功率が百パーセントにならないのはプリンスが求愛を断るからだった)。いつもは何組かのカップルがいるが、今日の利用者は一組だけだった――プリンスと悪役令嬢である。
待ち合わせの相手、悪役令嬢が怒鳴る。
「遅い! この私を一体いつまで待たせるつもりなの!」
「時間ちょうどだよ」
そう言って魔界のプリンスは悪役令嬢を観察した。編み上げブーツにカーキ色の乗馬ズボンを穿き、白いブラウスを着て長い髪を背中に垂らし、手には短い乗馬用鞭を握り締めている。動きやすそうな格好ではあるけれど、ちょっと違和感があったので、相手に訊いてみた。
「その格好で俺と戦う気なの? それとも乗馬するの?」
悪役令嬢はせせら笑った。
「この鞭で、あんたのお尻をペンペンしたげる。泣いたって許してあげないんだからねッ」
「そんなのお断りだ。戦う前に言っておく。俺を倒して王になるつもりらしいが、それなら直接、今の王を倒した方が早いぞ」
指摘を受けた悪役令嬢は不愉快そうに言った。
「今の王って、凄くキモい。何なのアレ! 触りたくもないし、口を利くのもイヤ! アレ、あんたのパパでしょ。何とかして。あれじゃ戦えない。あんたの方がまだまし」
酷い言い方だった。実はナルシストである父王が聞いたら、どれほどショックだろう……と魔界のプリンスは父を憐れんだ。
「事情は分かった。だが、それで俺を倒そうというのか? 迷惑な話だ」
「魔王はキモくていじめがいがないの。あんたの方が正ヒロインっぽいんだもの、闘志が湧くってもんよ」
「そんなこと言われたって嬉しくも何ともない。大体にして、王になるより悪役令嬢を一生やっていた方が楽しいぞ。王には責任がある。悪役令嬢には何もない。空っぽの頭でも務まる。何もしないで、おーほっほっほって笑ってりゃいいんだからな」
悪役令嬢の美しい顔が憎悪に歪んだ。
「この美しい私が頭空っぽだって言うの!」
「アニメやゲームに出てくる女戦士みたいにビキニアーマーを着て決闘に来ないだけの頭はあると思うが」
「びびび、ビキニアーマーなんて、着てくるわけないじゃない! そんなの着る悪役令嬢なんて、いるわけなくってよ!」
「普通は、そうだよね」
そう言って魔界のプリンスが頷いた直後、悪役令嬢は乗馬用の短い鞭を振るった。すると、魔界のプリンスの足元の地面にポッカリと穴が開いた。次の瞬間、プリンスの体は穴の中へ落ちて消えた。悪役令嬢が再び鞭を振るうと、開いた穴が閉じた。何もかも元通りである。プリンスが消えた以外は。
悪役令嬢は笑った。
「おーほっほっほっ、何が魔界のプリンスよ! 口ほどにもないぃぃぃ」
言っている最中に悪役令嬢の足元に大きな穴が開き、彼女は落下しかけた。大きく足を開き、穴の縁に両足を引っかけ、辛うじて墜落を免れる。だが、その姿勢で固まってしまう。穴から離れるためには足の位置を変えないといけない。だが、足を踏ん張っていないと、落ちてしまうのである。
悪役令嬢は乗馬鞭の魔法が誤作動したと思った。そこで乗馬鞭を使い、魔法の穴を閉じようとした。そのときである。穴の中から出てきた魔界のプリンスが、悪役令嬢の手をガシッと抑えた。
「なにすんのよ!」
「この鞭が問題だな、寄こせ!」
「いやっ、この汚い手を放しなさい!」
「うるさい!」
魔界のプリンスは悪役令嬢から鞭を奪い取った。その際、悪役令嬢は突き飛ばされ地面に倒れ込んだ。鞭を奪ったプリンスが楽しそうに言った。
「形勢逆転だな」
倒れた悪役令嬢が凄い目で睨んだが、魔界のプリンスは気にも留めない。
「プリンスの俺は魔界の紳士なんで、サディスティックな趣味はない。だがな、悪役令嬢! お前だけは別だ。この鞭でお尻をペンペンしてやる。泣いても許さない。お前みたいな悪役令嬢に虐められて泣いた正ヒロインたちの分まで虐めてやる」
悪役令嬢は這って逃げようとした。その尻を魔界のプリンスは鞭で叩く。ぶ厚い乗馬用ズボンが破れた。プリンスが面白がって何度も叩いたものだから、ズボンはすっかり破れてしまった。それでも手加減しているようで、悪役令嬢のお尻の柔肌には傷一つついていない。
「どうだ、上手いものだろ? 感謝しろよ」
そう言って魔界のプリンスは彼女の下半身を覆うわずかな布を鞭の先でいじった。それまで悲鳴をあげまいと耐えていた悪役令嬢の口からか細い叫び声が漏れる。プリンスの端正な顔が強張った。その瞳にサディスティックな光が宿る。
「もう逃げないのか? それとも、もっとお仕置きしてほしいのか?」
プリンスは狂気の笑い声を上げた。そして悪役令嬢の足をつかみ、その体を仰向けにひっくり返す。それから彼女の腰の上にまたがって座った。
「お前のデカ尻は座りがいがあるなあ。安定感がある。いい椅子だ。おい、悪役令嬢より人間椅子にジョブチェンジしたらどうだ?」
顔を真っ赤にして悪役令嬢が暴れる。しかし体格差はいかんともしがたい。そもそも逆効果だった。尻の下で悪役令嬢が動くたび、魔界のプリンスは興奮の度合いを高めた。頬の筋肉をビリビリ震わせて笑う。
「それ以上は動くな。理性が吹っ飛びそうになる。降参しろ。それで許してやろう」
誇り高き悪役令嬢は魔界のプリンスの顔めがけて唾を吐いた。その直撃を浴びたプリンスは唾を拭いもせず、乗馬用の鞭の先を彼女の首筋に当てた。
「その奇麗な顔を鞭で叩くか? それとも柔かい体がいいかな? 顔を鞭で思いっきり叩いたら、そのお高い鼻がへし折れるぞ。胸なら、服さえ着ていれば痣は見えない。ただし、服を着ていたら布地がビリビリに破けるがなあ! さあ、どちらがいい? 特別サービスで、お前に好きな方を選ばせてやろう」
悔し涙を瞳に湛えた悪役令嬢が白く細い指でブラウスのボタンをすべて外す。指が震えるので時間が掛かったが、プリンスは紳士なので急かさない。怒りもしない。むしろ、逆だ。
「大変そうだな。手伝ってやろうか? ま、気にしないで、ゆっくりやってくれ。意外と良い眺めを楽しんでいるから」
悪役令嬢はプリンスを睨んだ。それから目を伏せた。ボタンがすべて外れた。彼女が歯を食いしばった。そして白い布地を左右に広げた、そのときだった。イケメンなのに鼻の下を伸ばしていたプリンスの瞳を眩い光線が貫く。
魔界のプリンスは絶叫した。
「目が、目が見えない! 素肌の眩しさにやられた……してやられたぁ!」
両手で目を覆った弾みにプリンスの手から乗馬用鞭が落ちた。それを拾い上げた悪役令嬢は呪文を唱えた。
「アブラカダブラ、アブラカダブラ! 鞭よ、この変態にお仕置きを!」
鞭は巨大化し、悪役令嬢が何もしなくとも自動的に動いて魔界のプリンスを滅多打ちにした。衣服が裂け血みどろの肉塊となったプリンスが倒れる。悪役令嬢は、その下から這い出た。逃げ出す時、ズボンだった布地は脱げてしまった。上半身のブラウスも脱げた。
今、悪役令嬢の体を包んでいるのは上下に別れた布のみだった。下半身と上半身のごく一部を包む布地を両手で覆い隠し、彼女は言った。
「ビキニアーマー、念のために着てて良かった」
こんなこともあろうかと、悪役令嬢はビキニアーマーを服の中に着ていたのだった。神秘的なビキニアーマーによって魅力を増した悪役令嬢の肌が、魔界のプリンスを打ち破ったのだ。
「悪役令嬢にビキニアーマーは似合わないって思ったけど、そんなことなかった。私にピッタリだった」
そんな感想を悪役令嬢が述べている間に、歴史的大敗を喫した魔界のプリンスが息を吹き返した。イケメンを汚す血を悪役令嬢の白いブラウスで拭いながら、彼は言った。
「俺の負けだ」
「ちょっと、人の服で血を拭かないでよ」
「だが、勘違いするなよ。俺はお前に負けたんじゃない。そのビキニアーマーに負けたんだ。ビキニアーマーの魅力で目がやられなかったら、お前には勝っていた」
「おい負け犬、人の話を聞きなさいって」
「降参だ。くっ、殺せ。」
「いや、悪役令嬢は基本、人殺しはしないんで。その代わり、私の言うことを聞いてもらいます」
悪役令嬢はビキニアーマーのブラジャーのカップの中から指輪を取り出した。
「これを指に嵌めて」
指輪を受け取った魔界のプリンスは訝しげに尋ねた。
「何なの、これ?」
「ビキニアーマーとセットで買ったの。一緒に買うと送料無料になるのよ」
「それは良かったね。でも、何に使うのさ?」
「これは恋のおまじないの指輪なの。その指輪を嵌めた人間は、もう一つの指輪を嵌めた人間を永遠に愛するのよ」
「え……そんなこと、あるわけないじゃん」
「あるの! 通販のコマーシャルで言ってたもの!」
「だまされてんだって。ちなみに、これいくらしたの?」
悪役令嬢は買った値段を伝えた。魔界のプリンスは気を失いかけた。
「それ詐欺だって! こんなのにだまされんのかよ! 俺、魔界のプリンス辞めてインチキグッズを通販する番組の司会者やるわ」
「うっさい。早く指に嵌めなさい」
魔界のプリンスは渋々、指輪を嵌めた。
「何も起こらないんだけど」
「まあ待ちなさい。もう一つの指輪を、私が指に嵌めたらセッティングは完了っと」
片方のブラのカップから出した指輪を悪役令嬢が自分の指に嵌めると、奇跡が起こった。
「やばい、なんか俺、悪役令嬢がめっちゃ好きになってきた」
そう言うと魔界のプリンスは悪役令嬢にしがみついた。
「好きだ、好きだ、大好きだ! 俺と付き合ってくれ!」
急に抱き締められて悪役令嬢は息が止まるほど驚いた。
「ちょっと、やめて! 放してったら!」
それでも魔界のプリンスの勢いは止まらない。ビキニアーマーを着ただけの薄着な悪役令嬢の体が、傷だらけのプリンスの体との摩擦熱で熱くなる。彼女の冷たい理性が、火傷しそうなくらい熱した本能で融けていく。彼女は喘いだ。
しかし、それ以上のプリンスの方がヤバくなっていた。彼は、どうした具合か、急にオネエ言葉でよがり始めた。
「やめてよ、胸の先が擦れて……いやだ……もう、やめてぇ」
そして魔界のプリンスは喜悦の涙を流しながら。ビキニアーマーを着た悪役令嬢に屈服したのだった。
このようにビキニアーマーを着けた女性は、魔界のプリンスすら圧倒する。しかし改良の余地は残されているようだ。猛き女戦士ならまだしも、上品な悪役令嬢の敏感な部分のケアは、まだまだ足りないのである。ビキニアーマーの誕生から、間もなく四十年。これからもビキニアーマーは、戦う女性を守るため、進歩と発展を続けていくことだろう。おしまい。
☆ 異世界の記憶その二、終わり ☆
予想していたことだったが、フィルロ・スグロドの反応は芳しいものではなかった。その表情に浮かんでいるものは、失望と言っていいだろう。
それは、アールン・フィルスクも同じだった。田舎の金持ち郷士と親しくなるチャンスを、つまらない変な話で潰してしまったのだ。自業自得とはいえ、悲しく、やるせなくなるのは止められない。溜め息を吐く。
ほぼ同時にフィルロ・スグロドも深く息を吐き出した。彼は言った。
「僕がどうして異世界の話に興味があるか、お話します。僕の病気の父が最近、妙なことを言い出すようになったんです。異世界に関する話です。今まで、そんなこと一度だって言ったことがなかったのに」
フィルロ・スグロドの父は、重い病気で病の床に伏していた。そのために、父の代理として相続人であるフィルロ・スグロドが第二スクエニア神殿を訪問したのである。その際、父の快癒を祈ることも彼は忘れなかった。
「あなたの話を聞いて、思いました。病気のために変なことを言うようになったのかと考えていたのですが、そうじゃなく、父は本当に異世界の住人だったのかも、と。そして、万が一の時が来たら、元の世界へ戻りたいと願っているのでは……と思えてきたのです」
父親の死後、一族の首領となる証しである銀と赤い宝石の指輪を撫でて、フィルロ・スグロドは言った。
「今からお話するのは、きっと父が見ている悪夢の話なのでしょう。あるいは、ただの譫言でしょう。その違いは、いずれにせよ、僕らには分からないことです」
「話を続けてくれ」とアールン・フィルスクは言った。
★ 異世界の記憶その三、天国へ向かう殉教者の物語 ★
エジプトの首都カイロの雑踏に知った顔を見つけ、ウマル・ムサウィは息を呑んだ。白いものが混じる頬髯に覆われた顔は、やつれているが昔と同じだった。だが、その男は生きているはずはなかった。自爆攻撃で殉教したからだ。
殉教者ハッサン・バブーフは今、天国にいるはずである。だから、他人の空似に違いない。ウマル・ムサウィは、そう思い込もうとした。そのとき、相手と目が合った。その顔が驚愕で強張る。視線を逸らし来た方へ足早に歩き出す。
その背中を見てウマル・ムサウィは確信した。間違いない、あの男はハッサン・バブーフだと!
声を掛けたがハッサン・バブーフは立ち止まらなかった。急ぎ足で歩き続ける。人混みの中で相手を見失わないよう気を付けウマル・ムサウィは後を追う。同時に、自分も誰かに後を付けられていないか、気を配る。イスラム過激派の彼は当局に追われているのだ。
ハッサン・バブーフとウマル・ムサウィは、かつて同じイスラム原理主義勢力に属していた。その組織は自爆テロを辞さない過激派だった。二人とも自爆テロ要員だった。神の敵と戦って死ぬ殉教者は死後に天国へ行くと信じているので何も怖くなかったし、むしろ早く死にたいとまで思っていた。
自爆テロ決行の時が、やがて訪れた。ただし攻撃に参加を許されたのはハッサン・バブーフだけで、ウマル・ムサウィは待機を命じられた。
ウマル・ムサウィは深い悲しみに沈んだ。組織の指導者は次の機会を待てというのだが、早く天国へ行きたいのだ。彼は自爆テロを命じられたハッサン・バブーフを妬んだ。そして、その攻撃任務を自分と代わってくれと頼み込んだ。
ハッサン・バブーフは拒否した。彼は笑顔で言った。
「一足お先に天国へ行って、お前を待っているぜ」
攻撃は大成功だったが、凄まじい報復が待っていた。治安当局の反撃でテロ組織は壊滅し、ウマル・ムサウィは国外へ逃れた。残党狩りは熾烈を極め、国際手配された彼は何所にいても常に逮捕の危険にさらされていた。自分を捕らえようとする相手と戦って死ねば殉教者になれそうな気もするが、学識豊かなイスラムの聖職者に認定してもらわないことには、天国へ行けると保証されないのだろう。
しかし今ウマル・ムサウィの前を歩くのは、聖職者から天国行きを保証された男である。
それがどうしてカイロの街中を歩いているのか?
捕まえて問い質したかった。しかし人が多すぎてなかなか追いつけない!
前方に警官の姿を見かけ、ウマル・ムサウィは舌打ちをした。このままだと真正面ですれ違う。しかし後戻りしたら不審者だと思われるだろう。歩き続けるしかない、そう決めたときだった。
先を歩いていたハッサン・バブーフが後戻りして目の前に立った。
「お前、追われているんだろう。何も言うな。俺の後についてこい」
ハッサン・バブーフは警官が歩く向きとは違う方へ歩き出した。その後ろをウマル・ムサウィが続く。警官は二人に注意を払わなかった。やがて彼らは人通りのない路地に入った。狭い小道で相対する。
死んだはずなのに、生きているのはどういうことだ? と助けてもらった礼も言わずにウマル・ムサウィが尋ねる。ハッサン・バブーフは煙草に火を点けてから答えた。
「俺は自爆攻撃で死んだはずだった。だが、目覚めたところは天国ではなく、見たことのない生物が闊歩する別世界だったのさ」
その別世界にいる知的生命体の手で、自分は体に特殊な処置を施された、とハッサン・バブーフは言った。そしてシャツの裾を捲った。腹がある部分に暗黒が広がっている。
「腹の暗黒に何かが棲んでいる。そして時々、外に出てくるんだ。それが何なのか、俺には分からない。分かったところでどうしようもないと感じている。俺にできるのは、目立たぬよう振舞う、それくらいだ」
ウマル・ムサウィには理解しかねる話だった。彼は勢い込んで尋ねた。
「天国は、天国は、天国は無かったのかよ!」
ハッサン・バブーフは首を振った。
「俺は天国に行けなかったが、お前は行けるかもしれない。それは誰にも分からないさ。組織の指導者だろうと、聖職者だろうと」
ウマル・ムサウィが食い下がる。
「コーランには、ちゃんと書いてある!」
吸い終えた煙草を靴底で踏み潰したハッサン・バブーフは立ち去りかけて足を止めた。
「すまんが俺は棄教した。お前は天国へ行けるよう頑張ってくれ、それじゃ」
ウマル・ムサウィが気付いたときには、殉教者の姿は人の波に紛れ見えなくなっていた。
☆ 異世界の記憶その三、終わり ☆
「父が言っていた話は、大体そんな感じです」
フィルロ・スグロドが語る話を聞き終えたアールン・フィルスクは言った。
「その話の世界は、私がいた異世界とは違うようだ。しかし異世界は無限の数がある。そんな異世界があったとしても別段、不思議ではないね」
そろそろ帰らねばなりません、と言ってフィルロ・スグロドはアールン・フィルスクに別れを告げた。せっかく金持ちの知り合いができたと思ったら、もうお別れである。そんな不運を嘆きつつ、アールン・フィルスクはフィルロ・スグロドに手を振って惜別の思いを表した。
残されたアールン・フィルスクは一人、食堂の椅子に座り、今後のことを考えた。
フィルロ・スグロドと一緒に彼の田舎へ行ったら良かったのだろうか? だが、そこで働かせてもらえるとは限らない。そもそもアールン・フィルスクは牛馬の世話をするのが得意ではなかった。不得手な仕事をしても、長続きできるとは思えない。彼の計算では畜産業界に入ったとしても、すぐに飛び出る可能性の方が高かった。
「分かった。まずは予定通り、ここで職探しだ」
そう決めてアールン・フィルスクは宿を出た。第二スクエニア神殿で催される<春の清めの大祭>のために古都ヴォノイドムを訪れた巡礼者や観光客や僧侶たちに混じって、怪しげな風体の人間たちも大勢いた。人の多い都会で何か悪さを企てる不穏な輩どもだった。その一人が腕組みをして混雑した通りを歩く。
「どうやって金を稼ぐか、それが問題だ、それが!」
そんな風なことをブツブツ言っているアールン・フィルスクを人々は避けて通り過ぎていく。わざとぶつかる奴もいた。
「気を付けろ!」
悪態を言い残して去ろうとする男の腕をつかみ、アールン・フィルスクは言った。
「お前もな。スリをやるなら相手を選べ」
空っぽの財布をアールン・フィルスクに渡し、男は言った。
「そのようだ。これで警吏に引き渡されるのでは、たまったものではない。見逃してくれ」
「断る。お前みたいなヘボスケのスリでも、町の治安を維持する仕事の官吏に渡せば褒賞金が貰えるだろうからな」
スリの男は鼻で笑った。
「この街の司法官が、そんなことするはずないだろ。見逃してくれるのなら、良いことを教えてやるよ」
「言ってみろ、聞いてから手を放すかどうか決める」
「お兄さん、あンた、異世界からの訪問者だろ?」
「それがどうした?」
「金儲けの話があるんだ」
「言ってみろ」
「そういう人の話を聞きたがっている女がいるんだ、別嬪さんだぜ」
別嬪さん、という言葉にアールン・フィルスクは心を動かされた。
「何処にいるんだ、その別嬪さんは」
「案内するよ」
旧市街の三条通からムチルザ川に沿って西へ歩き泪橋を渡り低い丘を二つ越えた先にある高台の頂上に螺旋形をした桃色の金属製の塔が五つ建っていた。別嬪さんは、その金属の塔の内部にある異空間に暮らしている……といった風なことをスリの男は言った。
五つの塔に囲まれた空間内部には何もない。ただ、向こう側に広がる青い湖が見えるだけだった。アールン・フィルスクは腰に下げたビームサーベルの柄を握った。
「おかしなことを言うと、ビームの刃をお見舞いするぞ」
「勘弁してよ。その通りなんだから」
そう言ってスリの男は桃色をした五つの塔に囲まれた空間へ呼びかけた。
「ファーベルン様、異世界から来た来訪者をお連れしましたぜ!」
すると、何もなかったはずの空間に扉が現れた。バタンと開く。
スリの男は扉を手で指し示した。
「入れって言っている」
「私一人で行くのか? 身元保証人のお前は行かないのか?」
「こっちにも仕事があるんだよ」
どうせスリの仕事のくせに……と思いつつ、アールン・フィルスクは案内人の男を見送った。それから扉の向こうへ入っていった。内部は殺風景だった。半透明の床と壁があるだけだ。そこに棒立ちとなっていると、高く澄んだ女の声が聞こえてきた。
「わたしはファーベルン。様々な物語を記録することを生業としている者だ。お前は異世界からの訪問者だと聞いた。異世界の物語を聞かせて欲しい」
声だけは別嬪だ、と思いながらアールン・フィルスクは言った。
「話せと言われたら話します。ですが、用がありますので、それを片付けてからにしたいのですが」
「何の用だ?」
「金を稼がないといけません」
「ふふ、分かった。そのカネは、わたしが用意してやろう」
ファーベルンが支払うと言った金額に満足したアールン・フィルスクは、辺りを見回して言った。
「話すのであれば、長くなります。座って話したいのですが」
座り心地の良さそうな長椅子と、アールン・フィルスクが見たことのない素材の布で出来たクッションが突然ポン! と音を出して現れた。長椅子に腰かけたアールン・フィルスクは、クッションの手触りに満足した。膝の上に置く。
「さて、準備が整ったところで……それでは、何から話しましょう」
「喉を潤す飲み物は要らないか?」
「忘れておりました。アンティグア産のロゼ・ワインをお願いします」
「酔っ払って呂律が回らなくなると、こっちが困る。ノンアルコール飲料にしておけ」
「それでは、タンポポの珈琲を」
突如テーブルが出現した。その上にソーサーとカップが載っている。ソーサーとカップを持ったアールン・フィルスクは、タンポポ珈琲の豊潤な香りを鼻腔いっぱいに吸い込んだ。一口啜る。
「では、始めます」
★ 異世界の記憶その四、武田竜軍団の物語 ★
荷車の荷台上に置かれた異臭が漂う壺の中身を、ロッサム・チャペックと名乗る南蛮人は次のように述べた。
「竜の消化管の素材となる物質が、この壺には詰まっています。何でも食べる竜ですから、消化液は強力なものです。強力な消化液は臭いも強い。それで、これほどの悪臭を発しているとお考え下され」
説明を聞いた武田信玄は頷き、手拭いで覆った口をわずかに動かした。
「その横の壺は何を入れているのだ?」
「これは竜の心臓二つを合成している壺です。ええ、竜には心臓が二つあるのです」
そう言ってロッサム・チャペックは、己の傍らで丸くなっている六脚の巨大爬虫類を指さした。
「こうして大人しく寝ている分には、普通の心臓で良いのです。しかし、いざ闘いとなりますと、それだけでは足りません。何しろ竜は図体が大きい。そして素早く動きます。そこで最低二個の心臓を持っているのです」
その後もロッサム・チャペックは、内臓や骨そして脳といった竜の体を合成している数多い壺について説明した。武田信玄は重臣らと共に、その話を聞いている。場所は武田信玄の居城、躑躅ヶ崎館内の馬場である。時は元亀元(西暦一五七〇)年の冬。足利義昭を擁した織田信長が上洛を果たした二年後である。
ロッサム・チャペックの説明が一区切りついたところで、武田信玄は言った。
「その方が申すには、これらの壺で作り上げた竜を、当家に進呈したいとのことだったが」
にっこり笑ってロッサム・チャペックは言った。
「その通りにございます」
十数匹の六脚爬虫類を引き連れた南蛮人ロッサム・チャペックが躑躅ヶ崎館城下に現れたのは、その日の早朝である。南蛮人だけでも珍しいのに、人より大きな六本足のトカゲが群れで出現したとあって、城下は大騒ぎとなった。躑躅ヶ崎館から将兵が出て異形の生き物たちを取り囲む。
槍を構え弓矢の用意をした武田兵らに、ロッサム・チャペックは奇麗な日本語で言った。
「武田の殿様に竜を進呈したいのです。お目通りはかないますでしょうか?」
正体不明の人とトカゲを殿に会わせるわけにはいかない。だが、向こうに敵意はなさそうだったので、指揮官は躑躅ヶ崎館へ報告し、指示を仰いだ。やがて当主の武田信玄から直々の許可が下りた。ただし、顔を合わせるのは人とトカゲ、それぞれ一人と一匹(もしくは一頭というべきか)のみとするとの条件付きだった。
それで面談となったわけだがロッサム・チャペックは武田家の将兵らに、自分たちが荷車で運んで来た多くの壺を躑躅ヶ崎館へ運ばせた。その中身を殿に献上したいのだと言われれば、置いていくわけにはいかない。
問題は、荷車を牽くときに起きた。荷台の壺は途轍もない重量で、数人がかりでもびくともしないのである。ロッサム・チャペックの連れてきた六本足のトカゲらは、一匹でも軽々と荷車を牽いていたのだが――将兵らはオオトカゲの力に驚いた。しかし、いつまでも驚いてはいられないので、牛馬の十数頭に荷車を牽かせ、多くの壺を躑躅ヶ崎館へ搬入した。
そんな六脚爬虫類をロッサム・チャペックは、武田信玄に対し次のように紹介した。
「このトカゲらは恐るべき力を秘めた怪物です。身の丈は人の三倍あります。力は牛馬よりも強く、動きは燕より素早く、残虐さは狼以上です。全身を覆う鱗の厚さは南蛮胴の甲冑をも凌駕いたします。さあ、どうか試しに槍で刺し刀で斬り鉄砲で撃って下され」
武田信玄は家臣らに命じ、六脚爬虫類を刀槍で襲わせた。手練れの猛者が刀を振るい、鋭い槍を突き出したが、トカゲの鱗は破れない。逆に刀が折れ槍が刃こぼれする始末である。
「鉄砲じゃ。鉄砲で撃て!」
蚊に刺されたほどの痛みすら感じない様子の六脚爬虫類に驚嘆しつつ、武田信玄は考えた。火縄銃ならば、この硬い鱗を貫くだろうと……しかし! トカゲの鱗は鉄よりも硬いようで、火縄銃から発射された鉛玉すら弾き返したのである。
それを見て、武田家の面々は言葉を失った。ロッサム・チャペックが喋り出す。
「これを御家に進呈したいのです」
武田信玄がロッサム・チャペックに質問した。
「これは人の言葉を解するのか?」
ロッサム・チャペックが答える。
「簡単な命令ならば分かります」
「簡単な命令とは何だ?」
「殺せ、やっつけろ、引き裂け、噛み殺せ。そんなところです。ああ、失礼。休め、というのもありました」
休め、とロッサム・チャペックに命じられた六脚爬虫類は、その場にうずくまって眠り始めた。鋭い牙と爪の生えた化け物が安らかな寝息を立て始めて、やっと武田家の者たちは安堵のため息を漏らした。それでも武田信玄は強張った表情を崩さない。
「そちは、わしに壺を見せたいと申していたようだな」
「その通りでございます」
人の好さそうな笑顔でロッサム・チャペックは言った。
「壺の中身はバラバラになった竜の体です。その断片化した体を縫い合わせた竜を、御家に進呈いたしたいのです」
そして物語は冒頭に戻り、新しく展開する。その幕開けはロッサム・チャペックの役割だ。
「どうして壺の中でバラバラになっている竜を進呈するのだろう? とお考えの方はおありでしょう。しかし成長した竜を新しい家に懐かせることは至難の業です。それより、赤子の頃から竜を育て、飼いならすことをお勧めしております。家の一員として育った竜は、お殿様の命令を何でも聞きます。敵陣へ行って相手の大将首を取ってこいと言われましたら、敵がどれほど多くとも前線を突破し本陣へ突入して、憎き仇の首を取って戻ってくることでしょう」
このトカゲさえいれば戦争に勝てそうな言い草である。確かに、鎧より硬い、あの鱗があれば、何だってできるだろう。
武田信玄は他の質問をした。
「これの餌は何だ?」
そのときロッサム・チャペックの青い瞳が一瞬キラッと煌めいた。
「人肉です。ですが、既に死んでいる遺体の肉は食べません。新鮮な生肉しか食べませんので、生贄をご用意していただかないとなりません」
居並ぶ武田家の家臣たちの表情に嫌悪の色が浮かんだ。ロッサム・チャペックは、それにまったく気が付かない様子で言った。
「朝と昼と夜と眠る前の一日四回、健康な成人男性を食べさせてやって下さい。子供と女の肉は柔らかすぎて主食には向きませんが、間食に適しています。老人の肉はお勧めできません。体内に毒物が多く混入している恐れがあって、食べた竜の健康を損ねる危険がございます」
強力な消化液で何でも食べる竜なのに、年寄りの肉を食って腹を壊すとは、これ如何に?
そんな疑問が湧いてきたせいなのか、武田信玄はロッサム・チャペックの献上品を拒絶した。
「当家には、そんなものは不要である。持ち帰るがいい」
ロッサム・チャペックは食い下がった。
「これが複数体あれば、武田騎馬軍団は武田竜軍団へ昇格いたしまするぞ」
「余計なお世話だ」
それ以上の話は無用とばかりに、武田信玄は馬場を後にした。屋内に戻る途中で、近侍の武士に語る。
「おぞましい話だ。六本足のトカゲの化け物に人身御供を捧げねばならんとは……許しがたい」
心の底から憤っているような声だった。さすが『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』の格言を残したとされる武田信玄である。
しかし武田信玄は人命第一のヒューマニストというわけではない。狡猾な戦国大名である。
「おぞましい怪物なのは間違いないが、その力には抗しがたい魅力がある。さて、どうするか?」
その足が止まる。
「祥三郎」
「は」
祥三郎と呼ばれた青年武士が主君である武田信玄の足下にひざまずく。
「その方に重大な主命を与える」
「ははっ」
「お前は今から、あの行商人の後を追え」
「はい!」
「そして、追いついたら頭を下げて、こう言え――拙者を貴殿の弟子にしていただきたいと」
「は?」
「弟子となって、あのトカゲの製法を学ぶのだ。習得したら御家へ戻ってこい」
弟子に取ってもらうよりトカゲの餌にされる方が可能性は高そうに思われるが、武田信玄は本気だった。
「土屋祥三郎。この命令は、お前にしか出させない。お前なら必ずや、あの怪物の秘密をつかんで戻ってくる」
主の武田信玄に、ここまで言われて発奮しない侍は武田家にいない。
「分かりました。仰せのままに、怪物の秘密をつかんで躑躅ヶ崎館へ帰還いたします!」
躑躅ヶ崎館を駿馬に乗って飛び出した土屋祥三郎は、ロッサム・チャペックと六本足の爬虫類一行の後を追った。聞けば富士山の方へ荷車を牽いて進んでいったという。そちらへ向かって馬を走らせていくと枯れすすきの中を進む荷車の一団が見えてきた。
「おおい、ロッサム・チャペック殿、待って下され!」
一団の先頭を行くロッサム・チャペックに追いついた土屋祥三郎は、馬からヒラリと降りると、竜の行商人の足元にひれ伏した。
「拙者を貴殿の弟子にして下され!」
「弟子? 弟子だと?」
訝しげに首をひねるロッサム・チャペックへ、土屋祥三郎は来る間に考えていた弟子入りの理由を述べた。
「これまで拙者は、このような生き物を見たことがございません。ロッサム・チャペック殿は、どのようにして竜を懐かせることができたのですか? どうやれば操れるのです? その極意を、どうか拙者にご教授お願い致します」
ロッサム・チャペックは難しい顔をした。
「竜に懐いてもらうためには、育てなければならない。だが竜を成育させるのは簡単なことではない。多くの者が、ここで挫折する」
「拙者はくじけません」
「生物学の基本的知識が必要だ」
「覚えてみせます」
戦国時代の侍が生物学の基本的知識を習得するのは並大抵の苦労ではないだろう。だが、それがどれだけ困難な道であっても、土屋祥三郎は踏破する決意を固めている。主君である武田信玄から直々に拝命したのだ。やるしかない!
その意気込みを感じ取ったロッサム・チャペックが「よろしい、弟子入りを許そう」と土屋祥三郎の入門を許可した直後、富士山の山腹から空飛ぶ機械が離陸して六本足の爬虫類一行へ急速に接近してきた。それに気づいたロッサム・チャペック師匠の顔色が変わる。
「いかん、時空警察だ!」
そう叫んだロッサム・チャペックは続けて縦笛を鳴らした。人には聞こえない超音波に反応し荷車を牽いていた六本足の爬虫類たちがせわしなく動き始める。竜たちは荷車に白い布をかける。その表面は、やがて付近の色合いに同調し、あたりに紛れて見えなくなった。
見えなくなった荷車を見てロッサム・チャペックはニヤッと笑った……が、それだけでは足りないようで、続けて縦笛を吹く。
異変を察知した土屋祥三郎は、何が起きているのかロッサム・チャペックに尋ねようとしたが、人には聞こえぬ音波を発生させる笛をピーヒャラピーヒャラ吹き鳴らしている師匠には、答えるゆとりがなかった。
そのときである。
「指名手配犯ロッサム・チャペック、投降せよ。お前には弁護士を雇う権利がある。お前には自分に不利な証言を拒否する権利がある……」
急接近する飛行メカから聞こえてくる言葉の意味を、土屋祥三郎はほとんどと言っていいくらい理解できなかったが、分かったように思う事柄もある。ロッサム・チャペックは犯罪者であり、何者かに追われている。そんなところだ。
「弟子!」
ロッサム・チャペックに呼ばれたとき土屋祥三郎は自分がその弟子であることをすっかり忘れていた。
「あ、そうでした。師匠、どうしましょう?」
「わしと竜たちは、いったん別次元に逃れる。お前も連れて行ってやりたいが、あらかじめ電脳世界の基底現実にデータのバックアップを残しておかないとダメなのだ」
話の内容を全く理解できない土屋祥三郎の両肩に手を置いて、ロッサム・チャペックは言った。
「一緒にいただけの人間を逮捕する奴はいないだろう。大丈夫、すぐに釈放されるさ! それでは、失礼!」
ロッサム・チャペックの体がスッと消えた。同時に、土屋祥三郎の肩の上の重みがフッと消えた。そんな彼の目の前に、空飛ぶ機械から人が下りてきた。体の線が良く見える肌に張り付くような服を着た美しい女だった。
彼女は言った。
「25erk15f7muh。57dmo47」
土屋祥三郎は、彼女が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。女は元亀元年を生きる武士が未来の機械言語を理解できないことを失念していたようで、やがて彼とのコミュニケーションを諦め、空飛ぶ機械に戻ってしまった。女の姿が機械の中に入ると、その機械そのものも消えた。
残された土屋祥三郎は馬に乗ると、躑躅ヶ崎館へ戻り始めた。
☆ 異世界の記憶その四、終わり ☆
話し終えたアールン・フィルスクはタンポポの珈琲を啜った。ファーベルンは言った。
「続けなさい」
★ 異世界の記憶その五、トンネルを掘る人々の物語 ★
豊前国(今日の福岡県と大分県)の耶馬渓は山国川が大地に刻んだ自然の彫刻である。その美しさは古代から広く知られていたが、同時に旅人や荷物を運ぶ牛馬が崖から転落することが度々ある交通の難所としても有名であった。何しろ昔のことで、道路の拡張工事もままならない。十八世紀の中頃というから江戸時代になって洞穴道いわゆるトンネルが掘削され、やっと命の心配なしに通行できるようになったとのことである。
その工事はすべて手作業の難工事であり、完成まで三十余年もの月日を要した。その間、怪我人や病気となる石工が数多くいた。それを見かねた医者が、怪我や病を癒す湯治場を開くことを思い立った。火山地帯なので掘れば温泉に突き当たるだろうと予想したのだが、なかなか上手くいかない。医療の傍ら休まず温泉掘りに明け暮れたのが仇となり、自分自身が体調を崩してしまった。それでも怪我人や病人のために温泉掘りを続けていた、ある日のことである。一人の若い武士が、その医者の暮らす掘っ立て小屋を訪れた。用向きは何かと問われると、自らの名を名乗り、聞き覚えがあるかと医者に問うた。
その名は知らないが、同じ姓の武士は知っていると医者が答えると、青年武士は刀を抜いて構えた。そして、その医者が親の仇なので、仇討ちに来たと言うのである。
白刃を突き付けられた医者は、その場に正座した。そして、かつて自分が武士であり、国元で諍いを起こし、同僚の武士を斬って出奔したことを告白した。青年武士は、その斬られた武士が自分の父だと言った。それを聞いて医者は首を垂れ、この首を斬り落として国元へ持ち帰るよう言った。
青年武士が刀を振り下ろそうとした時である。石工たちがツルハシや天秤棒を持って青年武士を取り囲み、その医者に手を出したら生きて帰さないと警告した。彼らは自分たちのために親身になってくれる医者を尊敬していたので、それを親の仇として殺そうとする青年武士を許せなかったのである。
石工たちの思いを知り、医者は青年武士に頼んだ。温泉を掘り当てるまで敵討ちは待ってもらえないかと。拒否したら自分の命がないので青年武士は承諾した。それだけでなく温泉掘りに協力し、遂に湯脈を掘り当てた。その頃には、青年武士は仇討ちを考えなくなっていた。親の仇が尊敬できる人物と気付いたためだ。彼は武士を辞めた。そして厳しい修行後、医者となったと伝えられている。
☆ 異世界の記憶その五、終わり ☆
「次の話をしなさい」とファーベルンは言った。アールン・フィルスクは言いつけに従った。
★ 異世界の記憶その六、聖女と悪役令嬢の物語 ★
聖女イライザが金持ちで美形の王子から求婚されたと聞き、悪役令嬢ポリアンナはキレにキレまくった。
「あン畜生~ぅ、許せない、許せないわァ!」
早速ポリアンナは悪辣な奸計を考え出した。イライザを女しか愛せない体にしてしまおうと思いついたのである。
「くくく、そうなったら婚約破棄は間違いなし!」
そしてイライザの後釜に収まろうという計画なのである。
「んまァ、あたくしの魅力で王子を虜にするのは簡単ですけどね、ほほほ、ンほ~ほほほ」
百合師ペドロワは笑い続けるポリアンナに言った。
「依頼というのは聖女イライザを百合の世界へ導くことなのね」
「そう!」
ポリアンナは笑うのを止めて大きく頷いた。
「お願いよ、百合師ペドロワ。貴女の力で、聖女イライザをガールズ・ラブ・オンリーの肉体へ変えてちょうだい!」
ペドロワは首を横に振った。
「生憎だけど、その依頼はお断りよ」
「ど、どうして! どうしてなのよォ~!」
憤るポリアンナにペドロヴァは言った。
「既に聖女イライザから依頼を受けているわ。悪役令嬢ポリアンナを、ガールズ・ラブ・オンリーの肉体へ昇華させてほしい、とね」
「な、なんですって! それは本当なの!」
「そうなのよ、ポリアンナ」
どこからともなく現れた聖女イライザは言った。
「わたし、百合師ペドロワに依頼したの。悪役令嬢ポリアンナを、わたしと同じ愛の持ち主に変えてほしいって」
「なぜ、なぜなのよォ~!」
「それは……わたしが、あなたを愛しているからよ」
驚愕のあまり声を出せない悪役令嬢ポリアンナに、百合師ペドロワが近づく。
「早速だけど仕事を始めさせてもらうわ」
それから背後のイライザに言う。
「そこで見ている? それとも、目を瞑っている?」
イライザは怪しい光を瞳に宿して言った。
「ここで見ているわ、一部始終を!」
聖女イライザから請け負った仕事を完遂した百合師ペドロワは、真っ暗闇の道を歩いた。闇の中から、愛し合う聖女イライザと悪役令嬢ポリアンナの甘い体臭が漂ってきたように感じられた。ペドロワは足を止めた。気のせいだった。呟く。
「今夜も宿無しか」
コートの襟を立て、百合師ペドロワは歩き始めた。
☆ 異世界の記憶その六、終わり ☆
話に疲れたアールン・フィルスクは肩で息をした。ファーベルンは言った。
「休まず続けなさい」
★ 異世界の記憶その七、宇宙戦争の物語 ★
宇宙海兵隊の機動歩兵ジョニー(仮名)は目の前で宇宙戦艦が吹き飛んだのを見て、真っ先に戦艦の建造費を計算した。数学好きの学生だった頃の名残だ。彼の計算だと戦艦一隻の建造費で彼の生まれた植民惑星で賄われる年間予算の約四パーセントが消える。惑星防衛予算の四パーセントではない。全予算の四パーセントだ。それが一瞬で消えた。眼下の惑星を支配する炭素骨格生命体の波動レーザーにやられたのだ。四散した鉄屑がジョニーの乗り込む強襲揚陸艦の周囲に張り巡らされた重力波干渉壁にぶち当たり、そのたびに極彩色の光を放って消えた。何もかも消える。次に消えるのは自分の命だと彼は思った。
死ぬ前に敵を殺す。それがジョニーの願いだった。植民惑星のニュー・ブエノスアイレス市で平和に暮らしていた彼の家族は宇宙の彼方から飛来した謎の知的生物――後に炭素骨格生命体と判明した――の核攻撃で街の一千万人の住人と共に水蒸気と成り果てた。
小惑星帯へ修学旅行に出かけて難を逃れたジョニーは高校卒業を待たずに宇宙海兵隊へ入隊した。家族の仇を取るのだ。それ以外に自分は一体、何をすればいいというのか! 過酷な訓練を乗り切れたのは、その思いがあったからだった。激しい戦いで正気を失わずに済んだのも、強い復讐心のゆえである。
今ジョニーは強襲揚陸艦の降下デッキから眼下の惑星を睨みつけている。呼吸可能な大気と水のある惑星の表面に白い雲と青い海が見えた。過ごしやすい惑星なのだろう、と彼は考えた。居住不能となった故郷の惑星も、昔は綺麗だった……と失われたものの大切さを噛み締めていたら、出撃命令が出た。
「第六海兵隊、降下開始」
コンピューターの命令を同時にジョニーの体は宇宙空間に放り出された。滑らかに伸縮する触手と硬質な本体は共に強化戦闘服で覆われている。大気圏突入時の高温に耐える強化戦闘服は、その触れ込み通りの性能を発揮して惑星2025/04/06モモルロンガ21:57に降下する第六海兵隊を守った。敵の高射砲からも、ある程度は守ってくれた。目標地点への降下に成功した第六海兵隊の兵員は約八割だったが、それは事前の予測通りだった。
ジョニーの所属する連隊はアレクニドと呼ばれる蜘蛛に似た八足の知的生物を主力とした連隊と共同で敵の拠点を攻撃した。アレクニド連隊は無類の強さを発揮して二足歩行の炭素骨格生命体を殺戮した。だが、それは敵の罠だった。逃げる敵を追い敵陣深くへ切り込んだら逆に包囲され、四方八方から攻撃されたのだ。救援を要請されたジョニーの部隊は核融合ミサイルと波動レーザーの飛び交う中を前進した。
甲殻機動軟体生物とジョニーたちは呼ばれている。過酷な宇宙環境に適応するため進化した生き物だったが、そんなジョニーたちにとっても、その戦場は過酷すぎた。戦死者が続出したのだ。こちらもお返しに敵を殺しているから、おあいこだが……それにしたって、死にすぎた。最後まで戦場に残っていたのはジョニーたちの部隊の十数人だけだった。無傷な者はいない。ジョニーは比較的、軽傷だった。それでも強化戦闘服は壊れ、厚い装甲の裂け目からジョニーの青い血と内臓が溢れ出た。それを触手で抑えているうちに、後続部隊の降下が始まった。後続部隊の衛生兵は――ジョニーの部隊の衛生兵は地表へ降りる前に死んだ――ジョニーの傷を見て「唾をつけときゃ治る」と言った。ご挨拶だな、とジョニーは思ったが、その言いつけに従い無数の牙のある口から傷口に唾を垂らした。そのうち傷の痛みが軽くなってきた。強靭な体力を持つよう進化した先祖に感謝しつつ、ジョニーは敵のいた拠点の捜索活動に加わった。敵である炭素骨格生命体には謎が多い。戦争開始から十年になるが、未だに正体不明なのだ。入手できる情報は何でも入手し、敵の全容解明に努めなければならなかった。
惑星2025/04/06モモルロンガ21:57で軍が採取した記憶素子から、炭素骨格生命体に関する情報がまた一つ追加された。以下に記す。
★ 惑星2025/04/06モモルロンガ21:57採集データ第421085号
子供を幼稚園に連れて行くのは大変だ。
「ママがいい! 幼稚園イヤ! 行きたくない! おうちにいる!」
毎朝ずっと駄々をこねられるから、朝から疲労困憊だ。無理やりに連れて行くこともあるが、釣り上げられたサメより暴れられるので怪我しそうになる。面倒になると二世帯住宅の母に任せて出勤する。そのたびに母から言われた。
「ホント、アンタにそっくりだよ。アンタも小さい頃、こんなだった。お母さんと一緒にいる、幼稚園に生きたくない! って泣いて大騒ぎ。こっちが泣きたくなったわよ毎朝。男の子は皆ママっ子だって言うけど、それにしたって酷かったよ。毎朝毎朝、こっちが一番忙しい時間にわ~わ~泣いてさあ……ちょっとアンタ、人の話ちゃんと聞きなさいよ。アンタのことなんだから」
母の話が始まると長いので、私は早々に立ち去る。覚えていない昔の話を延々と聞かされるのはごめんだ。昔はそうでもなかったが、同居していた父が亡くなってから、話がくどくなった感じだ。ちょっとかわいそうだけど、こっちも忙しいんで、すまん、お母さん。
そんな状況が、いつの間にか良くなった。夏前だったかな? 息子のわがままに付き合いきれなくなった私は、母に子供を幼稚園に送ってくれるようお願いするようにしたので――帰りは妻が拾って帰る――時期を特定できない。母に訊ねると、また昔の話をされるので、聞けない。
これについては私より妻の方が詳しかった。いつもは私より早く出勤する妻が、その日は遅く出るということで、私は彼女に息子を任せて出勤した。それで妻が息子を自転車に乗せて――私だと暴れるので無理――幼稚園に登園した。嫌がる子を自転車から無理やり下ろし、玄関先で待っている幼稚園の先生に渡すのだが、その先生が新顔だった。若くて可愛らしい女の先生で、彼女を見た途端、息子は泣くのをピタッとやめた。そして、その日からは素直に登園するようになったとのことである。
「その先生が、凄く気に入ったみたい」
妻は、そう言って笑った。私は、その先生が気になった。若くて可愛らしい新任の先生に興味を持ったことは妻に知られないようにする。当然のエチケットだ。
その先生の顔を見る機会は、なかなか巡って来なかった。母にお願いした息子の登園を私がやればいいのだが、母はいちいち話がくどいので、話を切り出しにくい。息子が書いた●●先生の似顔絵を見せてもらったが、丸に手足が生えた生き物だった。母に用事があるとき、私が子供の登園を担当した。しかし、そんなときに限って、おばちゃん先生――私ではなく、息子が言うのだ、おばちゃん先生と――たちの当番で、噂の女性は現れない。お遊戯会や運動会があるから、その時に見られるかな! と期待していたら、新型コロナのせいで中止となった。
そして季節は巡る。年少さんだった息子は年中さんになった。担任の先生が、息子が大のお気に入りの●●先生とのことで、もう大はしゃぎである。私も嬉しかった。彼女の顔を見るチャンスは、もう間もなくだと思ったからだ。
遂に、その時が来た。運動会のお知らせである。その日は絶対に休みにするぞ! と固く心に誓っていたら、息子に言われた。かけっこの練習をしたいというのである。
これは珍しいことだった。息子は私に似て、運動が苦手だ。かけっこは遅い。その自覚があるようで、かけっこを含む運動全般はやりたがらない。妻は運動好きで、習い事でスポーツをさせたがっているけれど、当人がやる気を見せないので断念していた。
私は息子に訊ねた。
「ママにお願いした? ママの方が、走り方を教えるの、上手だよ?」
息子は首を横に振った。彼が話す内容を整理して記す。私の妻はスパルタ式の特訓を息子に課してしまう傾向にあるようだ。上手くいかないと怒るので、ママには頼みたくないと涙ながらに言われ、私はかけっこの練習に付き合うことを決意した。学生の頃にやってから何のスポーツもやっていないけど、幼稚園児のかけっこの練習なら、何とかなるだろう。
その考えは甘かった。公園で息子と走り回って、帰宅したらバタンキューである。翌日には全身が筋肉痛だ。そのことを母に話したら「年を取ると次の日ではなく次の次の日に筋肉痛になるから、お前はまだ若い」と言われた。あまり嬉しくなかった。息子は上機嫌だった。運動会の練習で、何と一番になったというのだ。これは凄い、と素直に驚き褒めてやると、息子は興奮し「一等になったら●●先生に褒めてもらう」と言い出した。父に褒められるより●●先生に褒められる方が嬉しいようだ。ちょっと嫉妬する。
そんな私を見て、妻は笑った。意味ありげな笑みが気になった。体育会系で、いわゆるサバサバ女子タイプなので、そんな含み笑いは珍しい。何なのかと尋ねると、母から聞いた私の幼稚園時代の話を始めた。
「○○君――妻は私と二人だけのとき、二人が知り合った小学生の頃と同じ呼び方で呼ぶ――は、自分が幼稚園に進んで行くようになった理由、覚えてる?」
「ぜんぜん。すっかり忘れた」
「お母さんから聞いたよ」
私は幼稚園の年長さんのお姉さんを好きになり、彼女に会うため幼稚園に通いたがるようになったそうだ。毎朝五時に起きて両親を叩き起こし、幼稚園に連れて行けと言うものだから、酷い寝不足になったらしい。
「そんな話、知らん」
そう言う私に妻は言った。
「××君――息子の名前だ――も、いつか初恋の先生のこと、忘れちゃうのかな?」
「初恋じゃないって。まだ幼稚園児だよ。恋も愛もないよ」
「いや、あれは初恋だよ、絶対そうだよ」
やけに自信たっぷりだった。どうしてなのか、と聞く前に妻は喋り出した。
「君たち親子、凄く似てるもの。私、君たち親子のこと、誰よりも知っているから分かる。あれは恋よ。君もそうだったから分かる」
否定するのも何なので私は黙った。これも穏やかな毎日を過ごすためのエチケットだ。
さあ、運動会本番の日! の朝に息子は熱を出した。ちょっと興奮しすぎたようだ。無念の結果となり、彼は病床で悔し涙を流した。私も悔しかった。息子の晴れ姿も、●●先生も見られなかったからだ。
それからしばらくして、息子はまたも涙を流すことになった。大好きな●●先生が結婚のため退職することになったのだ。それを知ったときの息子の落ち込みようと言ったらなかった。声をかけにくい雰囲気が漂っていた。どうしようかと思っていたら妻が「●●先生にさようならのお手紙を書こう」と言い出した。その頃、息子は文字やお手紙に興味を持つようになっていたのだ。妻と息子は早速お手紙を書き始めた。●●先生が退職する日に、息子が書いた人生初の手紙を渡したそうだ。先生は泣いて喜んでくれたと息子は悲しさと誇らしさの混ざった顔で私に報告した。
息子が寝てから妻も私に報告した。
「お母さんに聞いたよ。大好きだった年長組の女の子が卒業して学区が違う小学校へ行くから、もう会えないって知って、もう絶望の表情だったんだって。そのとき、亡くなったお父様が、お姉さんへのお別れのお手紙を書くよう言ったんだって。それで、二人で一生懸命に書いたんだって。その話を聞いていたから、××君にお手紙を書くように言ってみたの」
死んだ父親が、私のためにそんなことをしてくれたとは、知らなかった。いや、妻に言われるまで忘れていたのだ。私と父は、あまり仲が良くなかった。二世帯住宅も乗り気ではなかった。妻の勧めで決めた。子育ての支援が得られることを期待してだ。しかし、その時期は父が病床にあり、私の両親からの支援を得ることは無理だった。彼女が育児休暇を終え職場復帰する頃に父が亡くなり、現在に至る……なんてことを書いている間に、妻が第二子の予定について話し始めた。二人の間で棚上げになっていた問題である。妻はもう一人子供が欲しいと言っている。だが、妻には仕事がある。それに二人の収入で二人目の諸費用を賄いきれるのか、不安もある。
そう言う私に妻は言った。
「私さ、もう若くないんだよね。急がないと駄目なの。若くて可愛らしい●●先生くらいピチピチしてたらいいんでしょうけど……ねえ、一つ聞いていい?」
「何なりと、どうぞ」
「●●先生、どうだった?」
「え」
「私は、そんなに美人だと思わなかった。若くて可愛いとは思ったけどね」
若いには若いけど、それだけで、そんなに可愛くも美人でもなかったね、と私は言った。妻は私の顔をしばらくじっと見て、うんうん頷いた。
「そうだよね、そんなに可愛くもなかったよね」
実は私は、若くて可愛らしい●●先生の姿を一度も見ることがなかった。その機会が訪れなかったのである。しかし、そんな機会が来なくても別に構わない。妻と息子と母がいれば、他の何も要らない。
息子はこの春、年長さんになった。彼が大好きだった先生はもういないけれど、毎朝元気よく通園している。
☆ 異世界の記憶その七、終わり ☆
語り終えたアールン・フィルスクは言った。
「休ませてくれ」
ファーベルンは言った。
「もう少しの辛抱だから、頑張って」
★ 異世界の記憶その八、なろうでメロウな都会の物語 ★
都会の夜にアーバンな静けさを求めても得られるのは無機質な喧騒だけ。騒音が繁栄の象徴だとは勘違いしている都会人が多すぎるせいだ。郊外の田畑から聞こえてくるカエルや虫たちの鳴き声の方が同じ騒がしさでもメロウで風流というものだろう。アーバンライフで違和感を覚えるのは聴覚だけに限らない。お気に入りのスポーツカーで首都高をドライブし流れる夜景で疲れた目と魂を癒そうとしても、隣でぶっ飛ばすデコトラの鮮烈な光芒が瞳を惑わせ心を熱く高ぶらせる。そうなると、もういけない。荒れ狂う精神が命じるままにアクセルを吹かしてしまうのだ。覆面パトカーが後ろにいるというのに。そんな感性のズレは五感に限ったことではない。潮風を頬に感じながら海の見える公園を歩くとスケボーのガラガラ音が鼓膜を震わせ昔、そう、ほんの少し昔にローラースケートで階段を転げ落ちたときの古傷の痛みを思い起こさせる。とっくに治っているはずなのに。ついでに、思い出してしまう。自分がもう若くないことを。
夜は人を感傷的な気分にさせる。そんなこと、わかっているはずなのに。同じ過ちを繰り返す。若さゆえの過ちを。そんなとき思い出す。フォゥウ! とシャウトしながらマイケル・ジャクソンのダンスを真似したことを。封印したはずなのに。80年代の記憶は。マイケルの死と共に。さようなら、マイケル。
やんちゃそうな青少年たちが公園の隅で忘れかけたステップを踏む中年男性を見つめている。僕のことだ。ダンスに見惚れているのでなく、様子を窺っている感じがした。金や貴重品を狙われている気がする。引き上げ時だろう。さようなら、僕の愛した公園。僕も昔、遠い昔、あのやんちゃ坊主みたいに深夜まで遊んでいた場所よ、グッバイ、グッナイ。
家に戻り、冷水シャワーを浴び、酒を作って、ソファに座る。リモコンでテレビの電源を点けて消し、スマホを見て、それも消す。備え付けのマイクへ向けて指示を伝え、音声入力でコンポーネントステレオのラジオを点ける。好きな番組があるのだ。懐かしいシティポップやメロウなAORを、じっくり聞かせてくれる。寝酒のつまみにちょうどいい。
僕はアルコールの入ったグラスを傾け、一口すすった。馥郁とした香りに陶然とする。また一口。むせる。
それでも癒されることにかわりはない。最高のひと時だ。後は最高の音楽があれば、それでいい。メロウなメロディーに浸りたい。
間もなくラジオ番組が始まった。
A「どーもどーもどーもです、こんばんわ、シティポップスの新世界ラジオ夜のミュージックが始まりましたー!」
B「どーもーって、おいおい、自己紹介自己紹介自己紹介忘れとるがながながな、ガーナチョコ」
A「そういうしょうもない小ネタのギャグやめーいってマネージャーさんに言われとるやろ」
B「そうでんがなそうでんがな送電相伝一子相伝でんがな」
A「言っていることの意味が分からん。なあ相方、これラジオやで。漢字を見せないと、そのギャグ通じへんって、リスナーの皆に分からへんって」
B「そやかてな、台本に書いてあるねん」
A「ナイナイ、そんなこと、どこにも書いてない」
B「いや、よく見てみい、あるやんあるやんアル・ヤンコビック」
A「ないて」
B「あるて」
A「どこにあるんや」
B「ホレここ、読んでみい」
A「えっと、自己紹介って書いてあるな」
B「ほれみい! あるやろが! はよせい、自己紹介!」
A「ちょっと見間違っただけやん。そんなに注意せんでもええやんか、感じ悪いなあ、落ち込むなあ」
B「ちょっとちょっと君君、オープニングから気分下げてどうすんねん。ポップなノリで行こうやないかいワレ! ワシら明るいシティポップスやで! 明るく陽気にウキウキウォッチンや!」
A「深夜に気合入りまくってんなあ。ま、気ぃ取り直してこ。えっと、あらためましてこんばんわ。コント芸人シティポップスの片割れシティポです」
B「そして僕は相方のップスですって、なんやねん、ップスって!」
A改めシティポ「ップスやがな」
B改めップス「ップスって言いにくいやろ!」
シティポ「言っているやん」
ップス「言えてないっての」
シティポ「試しにな、もう一回言ってみい」
ップス「ップス」
シティポ「言えるやん」
ップス「言えてない、そう聞こえてるかもしれんけど、ホンマは言えてないんや!」
シティポ「なんでやねん」
ップス「なんでやろな」
僕は「なんだこれ」と思った。チューナーをいじる。それから元の位置に戻そうとしたけど、そこは雑音ばかり流れてくるので、すっかり嫌になった。電源を切る。寝るかな。そして、なろうでメロウな都会の物語の夢を見るんだ。おやすみ。
☆ 異世界の記憶その八、終わり ☆
その夢物語を語り終えたところで、アールン・フィルスクは音を上げた。
「疲れました、もう休ませて下さい」
姿を見せない別嬪さん、ファーベルンは言った。
「何を言っているの。残りわずか、後はほんの少しなのよ、頑張って」
「それじゃ、せめて漢字を開いて平仮名にして下さいよ」
「それは嫌」
「でも、もうネタ切れです」
「残り三百文字を切ったの。それで三万文字を越えるのよ」
それが何なのか、アールン・フィルスクは分からない。だが、三万文字を越えないと約束の金は払わないと言われると、渋々腰を上げた。
「それでは、これから時の迷宮へ行ってきます。あの中に行けば、異世界の話のネタが豊富にあるそうなので」
危険を顧みず時の迷宮へ出かけるつもりだと聞き、ファーベルンは感動した。
「素晴らしいわ。あなたは異世界人の鑑よ!」
「そうでもないです」
アールン・フィルスクは扉の外へ出て、姿を消した。時の迷宮へ行って戻らなかったとファーベルンは信じているが、それが事実なのか、実は誰も分からないのだった。