1
【――ナラクデウス、愚かな魔界の王よ。そなたにはイデアリスの名の下に、ある宿命を課すことにした】
そんな声が聞こえて、ナラクは我に返った。ただ、意識があるはずなのに、あたりは暗闇ばかり。目が見えているのか、そもそも自分のまぶたが開いているのかすらおぼろげだ。
【この宿命はそなたにとって呪いだが、そなた次第では希望にもなりえる。かつての傲慢な魔王が、果たして何ものになれるのか。それを導き出すために残された、そなたにとって最後の光じゃ】
だが、鈴の鳴るようなこの声に聞き覚えがあった。胸の奥底にわだかまる感情が目を覚ます。そして声を振り絞れ、抗えと煽り立ててくる。だからこそ、この何もない――虚無の暗闇のさなかでも自分は〝ナラク〟でいられたのだと。
「貴様……イデアリスの〈使徒〉か。呪い、だと? 我に何をした! 何ものからも信仰を受けず、存在すら歴史に記されなかった無名の神が、いかなる目的でこの魔王に指図する!」
抗おうとするも、いまのナラクにはまるで身体が存在しないかのようだ。真っ黒な水中にたゆたう泡のように、すべての自由がきかない。
【なあに、そなたの持つ途方もない魔力を、ちょいと拝借させてもらっただけじゃ。強い力をただ殺し、奪うためだけに使うなんて資源の無駄づかいじゃからな。そこで、そなたの力を有効利用するアイディアが閃いた。そなたにはこの愚かで未熟な世界を創り変えるための礎となってもらう】
「世界の礎、だと? たとえ我が力を失ったところで、憎しみ合うこの世界が変わるものか!」
【じゃが、力があれば世界にきっかけくらいは作れよう。ゆえに、そなたの存在はわらわに好都合でな】
「我の願いは、魔界と人界を分かつこと、ただ一点のみ! 交われば毒となる二つの世界を、貴様は……創造主気取りで弄ぶつもりか」
そこまで言い放って、今さらナラクも理解した。イデアリスと名乗ったこの少女が、自身を〝破壊と創造の神〟などと表現したことを。
【わらわを目覚めさせたのは、そなたじゃ、ナラク。弄ぶというなら、そなたも同罪じゃ】
途端、得も言えない恐怖心がわき起こってきた。
――何故だ? 死をも恐れぬ魔王が、この期におよんで何を恐れるという――。
己をとっぷりと飲み干している、この黒い水の底まで沈んでいくかのような感覚。先ほどまで何の感覚もなかったはずが、急に息が苦しくなり、喉から肺の奥まで入り込んでくるこの液体は――これまで自分が殺めてきたものたちのどす黒い血だ。
――ぐぁ…………ぁあっ…………――。
この黒い海に水底などなく、奈落へと突き落とされる感覚が永遠に続き、声にならない呻き声を上げ続けるしかなくて。なのに、自分の周囲を何かおぞましくて不確かなものがついばむようによぎっていき、千切れる皮膚の痛みに悲鳴を上げる間もなく、耳元でささやいていく。
鼓膜をつんざくほどの、恐ろしい、嘆きの精霊があげる悲鳴のようでとても耐えられそうにない幾重もの――――そう、これは〝歌〟だ。
――この宿命はそなたにとって呪いだが、そなた次第では希望にもなりえる。
耳をふさぐことすらできない。これが己が罪を無間に裁く呪いだとするなら、魔界ですら地獄とはほど遠い。
だが、いま見ているこれがただの悪夢だとナラクにはわかっていた。
――ピ・ウル・エイデ/アシュタル・メイゼ/ミクタル・ノイエン・ミシュマルタム――
そうわからせてくれる声が、どこか神秘的な音色に乗って――――そう、これも〝歌〟だ。
自分が沈む昏い水の底まで照らしてくれる、輝かしい光の歌。真っ黒な呪いの歌を打ち消してくれる、救済の歌。拮抗する黒と白のせめぎ合いは、瞬く間に白で塗りつぶされていく。
ああ、おれはこのために――そう、清水のごとく溢れ出てくるこの熱い感情がナラクにとって、今は抑えることすら恥ずかしく思ってしまったのだ。
『――ピ・ウル・エイデ/アシュタル・メイゼ/ミクタル・ノイエン・ミシュマルタム♪』
鼓膜にこそばゆい音を感じ取って、途端に飛び起きてしまった。
汗で湿ったシーツの感触。鼓膜に心地よい小鳥のさえずり。きっちり閉じられたカーテン越しの窓明かりは、間違いなく朝の陽光のものだ。
今のはただの夢で、それもとびきりたちの悪いものだ。そして自分がかつての魔王ナラクデウスであることも、この瞬間とて忘れるものかと眠い頭を揺さぶってやる。
――しまった、さっき閃いたあの曲! 続きの歌詞とメロディーが頭から抜けちまわないうちに譜面に起こしとかねえと、いつまで経っても新曲が完成しやしねえ……――
本能的に作曲スキルを発動させてしまったのは、アイドルプロデューサーとして活動を始めたナラクのもうひとつの顔――〈謎の作曲家マルーリガス・フェロン〉としての業だ。
ナラクは寝ぼけた意識から途端に我に返ると、枕元に散らばっていた楽譜に手を伸ばそうとして、ようやく自分の手が誰かに握られていたことに気づいた。
「あっ……あのぅ――」
思わぬ場所からした声に驚かされて、ナラクは魔王のくせに冷や汗をかくはめになった。
カーテンの隙間を抜けた日差しが、両手のひらをまじまじと見つめていた自分を照らしていた。そしてその右手を優しく握りしめてくれていたのは、一回り小さくてか細い誰かの手。
「んー……ミュゼか。今朝は早いな。そっか、さっき聞こえた歌って、お前のだったのか」
すこし強めに掴んでしまった手をそっと解放してやると、ベッドのかたわらにいたミューゼタニアの様子を伺う。
「お、おはよぉございます、まおーさま。とても、とってもうなされてみえたので、少しでもお支えできればと思ったら、まおーさまにこのまえ教えていただいた歌が浮かんじゃって……」
そういえばこの歌は、いつだったか――悪夢にうなされだすと、それを打ち消すように聞こえてくるようになったものだ。断片的にしか聞こえてきてくれないおかげで、まだごく一部しか再現できていない。未完成なこの曲をミュゼにも一度だけ聴かせてやったことがあって、まだ覚えていたとはさすがはアイドルといったところだ。
「いえ、ミュゼが出すぎた真似を、申しわけございません。おからだの具合はいかがですか?」
どこかよそよそしい態度だし、いつもならこちらが起こすまで眠りこけているミューゼタニアが、朝からここにいること自体に違和感があって。
そういえば、とナラクは思い出す。昨日はかの芸術王ラパロに手痛い仕打ちを受けて、意識朦朧としたまま帰宅してすぐにベッドで寝込んでしまった。ミュゼの心配事はこれか。
「うーむ、折れた骨の修復も終わってるようだな、問題ない。しかし〈使徒〉のやつめ、何のつもりでこの魔王から力を奪っておきながら、肉体の再生能力だけ残しといたんだ。めんどくせえ」
骨折したはずの右腕を上げ下げして見せ、関節にも支障ないとミュゼにも教えてやる。
「まあ、バカ領主の言ったとおりこれが戒めだとしても、おれさまとしちゃ好都合だが」
それよりも、朝っぱらからミュゼがここまで挙動不審なのは何故だろう。吸血鬼の眷属だけあって、どうしても朝に弱いのは理解しているつもりだが。
見ると、カーテンが閉め切られているせいで暗くてはっきりしないが、彼女はなぜか普段着ではない給仕服を着ているようだった。これではアイドルどころか、まるで貴族仕えの侍女の装いではないか。
「……ところでミュゼ、どうしたんだその格好。これからバカ領主のところまで勤めにでも行くつもりか? そういえば、城かかえの侍女を募集してる掲示を広場で見かけた気がするが」
アイドル活動の合間に生活費稼ぎでもしようと気を使ったのだろうか、ミュゼは。かつての魔界の王も、今は稼ぎに乏しく、人界にて貧しい日々を送る現実があるからだが。
だが、そんな発想はすぐ意識から振り払う。ミュゼの首枷を見れば、趣味の悪い冗談にしか聞こえないから。
「あのなミュゼ、金のことなら心配無用だって命じたはず――いや悪い、お前に命じる権限なんてもうおれにはなかったよな。おれはお前の君主じゃない、あくまでプロデューサーであって、お前はただアイドル活動に専念してほしいって言いたかっただけなんだ、許してくれ」
今この人界で立ち回る最善策――そのひとつとして、常日ごろから謙虚であろうと心に決めていた。かの魔界に王として立つために必要な資質とは、何よりも聡明にして狡猾な策士であること。己を慕うものたちにとって、信頼に足る言動をこなせる指導者。それを最も知るものとしての生き方がこれなのだ。
ただ早とちりがあったようで、ミューゼタニアから必死の釈明が返ってきた。
「ご、誤解なのです! それに侍女だなんて、とんでもないのです! あんなクズの豚野郎にこの身を捧げるくらいなら、ミューゼタニア・ブルタラク、エミュリオンの丘からひと思いに身投げして美しく散ることを選ぶのですっ!」
あんなクズの豚野郎。己が首枷に触れて、忌々しげにそう吐き捨てる。珍しく声を荒らげたミュゼに、これは余計な詮索をしてしまったのかとナラクも詫びるしかない。
「悪い、ミュゼ。ただ、いくらエミュリオンの丘が絶景名所だからって、今ここでお前に散られたらおれが困る。いかにそれが美しい散り際だろうと、な」
うつむき気味になったミュゼを諭すと、
「ミューゼタニア、お前はアイドルになりたくて、血筋も何もかも捨ててこの人界まで飛びだしてきたんだろ? アイドリア・クラウンが、お前の立ちたい舞台なんだろ?」
ナラクの投げかけた視線に必死で答えるように、ミュゼがこくこくと頷いてみせる。
「だったらさ、その想いと覚悟は果たされるべきだ。そいつが果たせる時代が今だ。お前みたいな存在が輝くための踏み台になることこそが、いまのおれの役割だって理解してくれ」
しかし――と言葉を返して、結った髪の二房をぶんぶん揺らせるミューゼタニア。
「でもでも、まおーさまがこんなひどい目にあうだなんて……ミュゼもう耐えられないです」
ああ、そうなのか、とナラクは得心する。人の世界に閉じ込められたかつての魔王は、わずかだが魔界では得られなかったものを手にした。このミューゼタニアは、領主たちに利用されるこの身を案じてくれているのだ。アイドルという何ものにも代えがたい己が夢や憧れと、痛めつけられる庇護者との間でどうしたらよいのかわからず、葛藤しているのだと。
「――そっか。それで、お前はこれから侍女に扮装してラパロを暗殺しに行く算段か。そうなると余計に話が拗れるから、おれはお前の無茶を止めなきゃならんが?」
「で、ですから、それが、まおーさまの早とちり。これは……んん……そのぅ…………」
途端にもじもじとし始めるミュゼ。何とも歯切れが悪かった。だったらその姿は何だというのだろう。
と、ナラクはそこでようやくある点に気付く。
「――そういや、今日も快晴だな。カーテンを開けても構わないか?」
「……? ええ、ミュゼのことはお気づかいなく。王級吸血鬼として生まれたこの身、太陽ごときで滅ぼすのはむりなのです」
ベッドを下りて裸足で窓辺へ寄ると、遠慮なくカーテンを開け放ってやった。室内へと射しこんできた陽光に、どこか気恥ずかしそうに片腕を抱くミュゼの姿が照らし出される。
「……すまなかったな。おれが余裕こいて眠りこけてる間に、お前もお前で無茶するしかなかったわけか」
胸元からスカートまでを覆うフリルの白いエプロンは、赤や黄色の汚れで塗りたくられていた。うなされるこの身を案じて握りしめてくれていた手が、どうして切り傷に包帯だらけだと気付けなかったのだろう。
「……ふぇ……ごめんね、まおーさま……ミュゼ、頑張って朝ごはん、つくろうって…………でもね、ミュゼね、まおーさまみたいにお料理とかお掃除とかうまくできなくて……ふぇっ…………うみゅぅ…………」
途端に表情をくしゃくしゃにしてしまったミューゼタニアを、ナラクは叱りつけることもせず、ただ頭を撫でて安心させてやることしかできない。まだ十四歳の王級吸血鬼の姫君は、気位の高そうに見えるただの泣き虫で、歌って踊る以外は何も知らなかったのだ。
ささやかだが、彼女にとって小さくて狭いこの〝城〟は過酷で、ナラクがいなければ彼女はいつもひとりぼっちだった。