母の歌
歌を溶かした水、「歌い水」を売り歩く少女、ルール―が、旅の途中で経験した、すこし不思議な出来事をえがいた物語です。
第2回 「幻想と怪奇」 ショートショート・コンテスト応募作です。二次選考まで通過いたしましたが、三次通過ならず。とても気に入っている作品ですので、アップさせていただくことにしました。
どこからか歌声が聞こえる。
優しく慈愛に満ちた歌声が。
さらさら。
小川のせせらぎの音に乗って、歌声はルールーの耳元に流れ着く。するとルールーの姿は鮭の稚魚に変わり、歌声に合わせて踊るように川の中を泳ぎ回った。
「そろそろ起きな、ルールー。村に着いたぞ」
まどろみの中の心地よいひとときは、少年の声で終止符が打たれた。
瞼を開くと、青い空の中を泳ぐうろこ雲が、ルールーの青い瞳に落ちてきた。
さらさら。
ルールー達を乗せた行商隊の馬車は、次の市場が開かれる村の入り口、小川のほとりで停車していた。
荷台で寝転んでいたルールーは、乱れた後ろ髪をきれいに編み直すと、這い出るようにして座席へと移動した。
「ありがとう、あにい」
ルールーの感謝の言葉は、呼び起こしてくれたことにではない。自分を休ませ、遠路を一人で馬車を操ってくれたことに対してだ。「あにい」と呼ばれたその少年は、ちぢれた赤毛をかき上げながら、照れくさそうに「おう」と一言だけ発した。
少年は名をアリアンといい、ルールーより三歳年上だった。ルールーはまだ十二歳の少女だったし、慣れない道で二頭立てのロバを操ることは大人でも難しいから、とアリアンは自ら御者を買って出たが、ルールーはそれが彼の優しさだとわかっていた。
長旅の疲れが出たのかルールーは数日前から体のだるさを感じていて、アリアンはそれに気づいていたようだ。
行商隊の先頭に立って進んでいた護衛役のフーリンが、早馬で一足先に村まで挨拶にいき、市場の開催許可を得て戻ってきた。
フーリンに続けて村の代表者があらわれ、白い布を振りながら村の中央広場まで行商隊を誘導した。
少し遅れて、村長と思われる白髪の老人が杖をつきながら広場に訪れた。商隊長のダグナが馬車から降りて挨拶を交わし、打ち合わせのために村長の屋敷へと向かった。
ルールーとアリアンが、慌ただしく荷下ろしをしていると、
「よーう。お疲れさん」
のんきな声で、フーリンが声をかけてきた。
行商隊を護衛する役割が完了して、暇を持て余していた彼は、あてもなく広場をぶらついていた。
「護衛役、お疲れさまでした。フーリンさん」
ルールーは、愛想良く返事を返した。
「いやいや。ルールーの世話がいいから、マフもご機嫌だったようだぜ」
マフとはフーリンの愛馬で、彼の自慢の駿馬だった。
気性が荒く、フーリン以外の人間になつくことはないが、どういう気まぐれか、マフはルールーとアリアンの二人には気を許した。
もともとルールーは動物の世話が好きだったし、その中でもマフはとびきり毛並みが美しく気品に満ちていたので、フーリンから世話を頼まれた時には天にも昇る心地だった。
アリアンは輓馬の扱いに長けていたので、マフもまたフーリン以外ではアリアンだけに背中を許していた。
フーリンは、アリアンに視線を移し、
「ここでは、なにを売るんだい?」
と問うと、アリアンは手にした積み荷を向けて、
「前の漁村で仕入れた酢漬けの魚と塩。ルールーは『歌い水』です」
と答えた。
アリアンがいう「歌い水」とは歌が溶かされた水のことだ。
普段は小さなガラス瓶に入れておき、水を張った皿の中央に一滴たらすと、やわらかい光を発しながら水が歌い出す。
歌い水に歌を溶かす職人は「歌い子」と呼ばれ、町では若い娘たちの憧れの仕事だった。
「魚と塩なら、この山村なら喜ばれそうだな。ルールーも頑張ってな」
そのとき、なにかを感じたか、フーリンは高い鷲鼻をくんくんと鳴らした。
酒盛りを始めた仲間を見つけようだ。
吸い寄せられるように、上機嫌で酒盛りに向かうフーリンの背中を、二人はくつくつと笑いながら見ていた。
*
開店準備を終えて、一晩を経た。
ルールーの朝は早い。ニワトリの鳴き声とともに、他の誰よりも早く目を覚まし、マフの世話をする。
少しして、遅れて起きてきた商隊の仲間達と朝食の準備をする。
それがルールーの朝の日課だった。
今朝のメニューは、大きめの種なしパン一つとミルクに加えて、トマト一つ、干し肉が二枚もついていた。
市のある日の朝食は普段より豪勢で、嬉しい。ずうっと毎日、市が続けばいいのに、とルールーは思う。
朝食を食べ終えるころ、
「さあ、しっかり食って、しっかり売ってきてくれよな。明日の朝食がパン一個になるかどうかは、お前らにかかってるんだからな」
ダグナがみなに発破をかけると、かけ声とともに、それぞれの仕事場に向かった。
ルールーは、商品箱から歌い水の入った木箱を取り出した。小瓶が割れていないか一つ一つ丁寧に確認すると、木箱からのびる革のベルトを首にかけた。
「うたあーい水、うたーい水、歌い水はいりませんかーあ。楽しい歌、勇ましい歌、ちょっぴり寂しい歌、いろいろ取りそろえて、ございますーう。すこおーし、聴いてみませんかーあ」
ルールーはそんな調子で、市場中を歌いながら売り歩いた。
彼女の透き通った歌声は、商品に興味のないものであっても、ついつい耳と目がいってしまう。そんな商売人にはうってつけな天賦の才が、ルールーにはあった。
ダグナは仕事に厳しかったが、ルールーやアリアンがしっかり仕事をしてくると、ご褒美に焼き菓子を何枚か渡した。
ルールーは、その焼き菓子がたまらなく好きだった。焼き菓子のことを思えば、歌声にもいっそう張りが出るというものだ。
「歌い水、一つくださいな」
小さな女の子をつれた母親らしき女性が、ルールーに声をかけた。
「はい、ありがとうございます。それで、どのようなお歌がご希望ですか?」
少し悩んで、
「そうねえ、この子が喜びそうな、楽しくて素敵な歌がいいわ」
「はい、かしこましました!」
ルールーは、一つ一つ小瓶を日の光にかざして水の色を調べ、タンポポの花の色に似た、うす黄色の歌い水を選んだ。
そして小瓶を小さく振るってから、自分の耳の後ろにあてて曲を聴き、それをハミングし歌ってきかせた。
ルールーの澄んだ歌声が、響き渡る。
「お母ちゃん、このお歌がいい。これにして!」
女の子が興奮気味に母親の服の裾を引くと、
「じゃあ、これでお願い」
と、母親は銅貨三枚をルールーに支払った。
その親子を皮切りに、次々とお客が集まってきた。
「お嬢ちゃん、素敵なお声ねえ。私にも一つ、くださいな」
「僕も!」
「あたしも!」
ルールーは一人一人と丁寧に対応し、広場中にその透き通った歌声を響かせた。
ルールーはお客からのたいていの要望に応えられたが、「お母さんみたいな歌」というお題が一番苦手だった。
世の中は争いで満ちていた。
ルールーは、物心がつく前にいくさで両親を失っており、両親の記憶がほとんどなかった。一人でとぼとぼと荒れ野をさまよっていたところをダグナに拾われ、行商隊の中で育てられた。
行商隊は男衆ばかりだったし、父親であればダグナを思えば良かったが、母親となると今ひとつよく分らなかった。
アリアンは、ルールーを実の妹の様に可愛がり、ルールーもまた彼を「あにい」と呼んでなついていたが、男きょうだいのようなものであって、母親ではない。
そんな自分には、母親の愛情なんて理解できないし、良い母親になることだってできない、とまで考えていた。
……とはいうものの、そこは商売人のはしくれ、焼き菓子のためにも、なんとかできてしまうのがルールーのたくましさだった。
*
市場の開催は五日間を予定していたが、そんな調子で、ルールーは三日目には一瓶を残して、歌い水を売りさばいてしまった。
木箱に残された最後の一瓶。
歌い水の小瓶には、必ず、歌い子の名前や題名などがラベルされているのだが、これにはそのどちらもされていなかった。
市場開催時、あまりの慌ただしさで、そのことに気づけなかった。
木箱のすみに、他の小瓶に隠れるように置かれた小瓶。
それでもルールーほどの売り手であれば、なんとか売り払うことはできたはずだが、この歌い水にはもう一つ大きな問題があった。
この歌い水には歌がなかった。
日に透かすと、小瓶はやわらかなうす桃色をしていた。小瓶から伝わる曲もまた、優しく温かで、どことなく懐かしさを感じる素敵なものだった。
しかし、どんなに曲が良くとも、歌い水に歌がなければ、さすがのルールーでも売ることはできない。
「おお、これはなんということだ! ルールーに売ることができない歌い水が、この世にあるなんて!」
夕食時、ダグナはブドー酒を片手に、歌劇の主人公さながらにおどけながらそう言った。
しょんぼり、首を垂れるルールーを見て、
「今日の客は聴く耳がなかったな」
と、優しく頭をなで、腰に括り付けた革袋から焼き菓子を取り出した。
「でも、商隊長」
「仕事が終わったら、とうさまでいい」
「ならとうさま。言い訳を言うわけじゃないんですが、これ、ちょっとおかしいんです。この歌い水、歌がないんです。これじゃ、売れません」
ルールーの説明を聞いて「そんなことが、あるはずない」と、笑いながら小瓶を受け取り、耳の後ろに当てた。そして数秒して、ダグナの表情が曇りだした。
「確かにこの子の言う通りだ。これには歌が入ってない。不良品だぞ、これは」
歌い水は、歌い子と楽士とで作られる。
普通は、楽士の曲とともに歌い子の歌を溶かしこむが、先に楽士が奏でた曲を溶かしてから、歌い子が歌を溶かすこともある。
曲は水と空気が振動して起こす「音の記憶」だから、楽器の音色にあわせて水は記憶できる。
しかし、歌は「心の記憶」なので歌い子が心を込めて歌わなければ、水は記憶できない。
なにかの手違いで、歌を溶かす前に売りに出てしまったのだろう。これではさすがに商品にならない。
「こいつあ、とんだくわせもんだ。俺たち相手になめたことしやがるぜ。おい、こんなの仕入れたやつぁ、誰だ?」
「とうさま、すみません。俺です」
右手を小さくあげて、アリアンが名乗り出た。
「前の村を出るときに、みすぼらしい子供が駆け寄ってきて、売りに来たんです。断っても全く引かず、結局根負けして、銅貨一枚で受けちまったんです。でも、まさか不良品だったなんて」
苦虫をかみつぶしたような表情をしながら、アリアンは答えた。
目を剥いて、ダグナは、
「こいつはルールーのせいじゃねえ。アリアン、お前の責任だ。どうして中身を確認せず、金を払っちまったんだ? お前にやった焼き菓子、全部ルールーにくれてやんな」
彼には彼なりの言い分もあっただろうが、ルールーの気持ちを考えてか、素直にダグナの言いつけに従った。
ダグナは、続けて言った。
「アリアン、良い機会だ。お前、明日、その村にひとっ走りして、銅貨、取り返してきな。このままじゃ、お前も面目がたたんだろう」
アリアンが鼻息荒く、「はい」と答えると、ルールーが言葉を続けた。
「とうさま、私も一緒にいっていいですか? この歌い水の持ち主に、会ってみたいんです」
ルールーは思う。
売り子がいるのなら、歌い子もいるはず。
いったい、どんな歌なんだろう。
この素敵な曲の歌い子に、会ってみたい!
ルールーの胸に、熱い感情がこみ上げてきた。
彼女の形相に、ただならぬものを感じたダグナは、
「ん……まあ、お前も、そいつに文句の一つも言ってやりたいやなあ。よし、二人でいってきな」
一呼吸置いて、そう答えた。
「ありがとう、とうさま!」
その時、遠くから物見高く様子をうかがっていたフーリンが、二人の元へとやってきた。
「ロバの足だと、時間がかかりすぎるな。俺の馬をかしてやるよ。あいつは気性が荒いが、早いぞ。まあアリアンのうでなら、操れるだろ」
フーリンの申し出に感謝し、二人は礼を言って深々と頭をさげた。そんな二人の頭を、フーリンは愛おしそうになでた。
*
翌早朝、二人はニワトリが鳴くよりも早く起きて、村を出た。
マフは、疾風のごとく馬車道を駆け進む。
ロバで二日を要した道のりだったが、数刻もすると目的の村へたどり着いてしまった。
そこは海に面した漁村で、村に入ると、ぷんと魚の匂いが鼻粘膜を刺激する。マフはその香りが苦手とみえて村へ入りたがらなく、入り口の木につないでいくことにした。
「歌い子? こんな村にそんなもん、いたかねえ。別の村の間違いでねえかい?」
ルールー達は、村人達に声をかけてまわったが、誰一人として歌い子のことを教えてくれない。彼らに隠す理由はなく、嘘を言うようにも思えない。
普通、歌い子は大きな町の教会や音楽堂で暮らしている。村人が言うように、確かに、この村に歌い子がいること自体が、考えにくかった。
歌い水を売った子供がこの村の住人でないとすると、銅貨を取り戻すことはもちろん、歌い子に会うことは不可能に近かった。
二人で落胆していると、突然、遠くから、マフのけたたましい嘶きが聞こえてきた。
「マフに、なにかあったのよ!」
二人はマフのもとへ、急いで駆けつけた。
誰かがマフを連れ去ろうとしている。それは、アリアンに歌い水を売りつけた少年だった。
気性の荒いマフが、見ず知らずの人間に素直に従うはずがない。とても少年の手におえず、掴んだ手綱に振り回され、何度も地べたを這いつくばされている。
「お前、なにやってるんだ!」
アリアンは少年のうでをつかみ、力一杯、ねじり上げた。
「乱暴しないで!」
苦悶の表情でうめき声をあげる少年をみて、思わずルールーは叫んでいた。
少年の身なりはみすぼらしく、おそらく戦災孤児だろう。年齢は十歳ぐらいか。ルールーは、少年に自分の姿を重ね合わせていた。
我に返ったアリアンは、手の力を緩めた。そして少年を睨み付けてこう言い放った。
「あんな不良品、つかませやがって! 渡した銅貨を返せ!」
「そんなこと知らねえよ! それに銅貨はもうパンを買うのに使っちまったよ! そのパンだって、もうあいつらの腹ん中さ!」
少年が指さした先で、さらに幼い子供たちが、心配そうに様子をうかがっていた。おそらく、この子供たちはこの村の住人ではない。よそから流れてきて、子供達だけで精一杯生きてきたのだろう。
「わかったよ。もういい」
アリアンの顔から、怒りの色が消えた。
「あにい、ありがとう」
彼もまた、ダグナに引き取られた孤児だったので、少年達の境遇が理解できたのだろう。
あの歌い水は、盗品だった。
戦乱から逃れてこの村に流れ着いた女性が持っていたもので、村はずれに一人で暮らしているらしい。
女性の留守中、少年は小屋に忍び込み、パンと、金になりそうな歌い水とを盗み出したという。
ルールー達は少年に別れを告げると、その女性の住む小屋へと向かった。
小屋は、川のほとりにひっそりと建っていた。
「こんにちは。誰かいませんか」
ルールーはドアを叩いた。
が、ドアは開くことはない。煙突からは、うっすら煙が立っているので、中に人がいることは間違いないのだが。
どうせ居留守だろう、と強引にドアをこじ開けようとするアリアンを、ルールーは制した。突然の来客に戸惑い、警戒しているのだろう、と。
ルールーは歌い水の曲をハミングした。優しく穏やかに、そして大切に。
本当の持ち主であれば、必ずこれに答えるはずだ。
ルールーの歌の魔法が効いたか、慌ただしい足音とともに開かずの扉が開いた。
「ああ、その歌は! お願い、歌い水を返して! それはとても大切なものなの!」
女性の名はリードナといった。
戦乱を逃れて夫婦で町を出たが、旅の途中で夫を失い、数ヶ月前に身重な体をおして、やっとのことでこの村にたどり着いたらしい
リードナは歌い子で、あの歌い水の曲は楽士の夫が作曲した子守唄だった。
産まれてくる我が子のために作った、世界でただ一つだけの曲。
子守唄の歌詞がどうしても思いつけず、小瓶を戸棚の中にしまっておいたところを、盗まれてしまったという。
「もちろん、歌い水はお返し致します。だって、もともと、あなたのものなんですから」
ルールーは、歌い水の入った小瓶をリードナに手渡した。
リードナは目を潤ませ、何度も二人に礼を言った。
「とても素敵な曲ですね。私には両親がいません。子守唄どころか、母の記憶すらほとんどありません。ですがこの曲を聴いていると胸の奥がきゅーっとなって、すごく懐かしく優しい気持ちになれるんです」
リードナは口元を緩ませ、
「あなたは、きっと良い母親になれるわ」
そう返した。
「母を知らない私でも、なれるんですか」
「もちろんよ。この曲を聴いて優しい気持ちになれたのならね。だって、それが母親の愛情なんですもの」
そう言って、目を細めた。
彼女の言葉を聞いて、ルールーの頬は火照り、心に温かなものが込みあげてきた。
そんなルールーを見て、
「もしも、このお腹の子が無事、元気に産まれたなら」
リードナは、決意したように話し出した。
「そのとき、私は歌詞を考えてこの歌い水に溶かすつもりよ。でも、もし、そうでなかったら歌詞をつけず、歌い水を川に流そうと思うの。海につながる川に。夫たちがいる、海のさらにむこう、喜びの島に向けて」
「とても素敵だと思います。ぜひ素敵な歌詞がつくよう、お祈りしています」
ルールーからそう言われると、リードナは足早に部屋の奥へと向かった。
戸棚からもう一つ小瓶を取り出し、歌い水の半分を移した。そしてその小瓶の片方を、ルールーの手の平に包ませた。
「あなたにお願い。この歌い水、半分あなたがもらっていただけないかしら。そして将来あなたが素敵なお母さんになったとき、あなたの子供のために、あなたにも、歌詞をつけてもらいたいの。あなたのその澄んだ歌声を、その水に溶かしてちょうだい」
ルールーは、目を丸くして、
「私にも、できるんですか?」
「こんな私にだって、できるのだもの。きっとあなたなら、もっと上手にできるわ」
ルールーは満面の笑顔で小さくうなずくと、大事に小瓶を革袋にしまった。
こほん。
会話が途切れる間合いをみて、アリアンが短く咳払いをし、
「お話し中、悪いんだけれど」
申し訳なさそうに、言葉を挟んだ。
「そろそろこの村を出ないと、夜までに行商隊まで帰れなくなるぜ」
リードナはアリアンに頭をさげて、銅貨を一枚渡そうとした。
アリアンはそれを拒んだ。ルールーの笑顔こそが、十分な報酬だったからだろう。
アリアンの手綱さばきで、うす暗い馬車道をひた走るマフは、これまでにない俊足だった。
「しゃべるなよ。舌噛むぞ!」
そう言われるも、ルールーに話をする余裕など、まったくなかった。マフから振り落とされないよう、目を閉じて、アリアンに必死にしがみつくだけで精一杯だった。
ときおり目を開くと、マフのたてがみとともに揺れるアリアンの赤毛が目に映り、それが頼もしく、気高く感じた。
夕食までに、二人は行商隊までたどり着いた。マフをフーリンに渡して礼を言うと、今日の報告をしに、ダグナのもとに向かった。
話を聞くと、ダグナは嬉しそうに、二人の肩をぽんと軽くたたいた。
その後、リードナがどうなったのか、二人は知らない。あの村が行商隊の交易路から外され、立ち寄ることがなくなったからだ。
けれども二人は確信していた。
リードナによって素敵な歌詞をつけられた歌い水が、彼女の赤子の心に響いているだろうと。
*
それから十年して、ルールーは母親になっていた。赤子は男子で、父親に似て、くせのあるきれいな赤毛をしていた。
ダグナのすすめでルールーは歌い子になったが、小瓶の曲に歌詞をつけていない。この曲はリードナだけのものなのだから、と。
しかし赤子がぐずるとき、ルールーはふんふんとあの曲を無意識にハミングしていた。
そして、赤子がにこりと微笑んだとき、紐で首からぶら下げた歌い水の入った小瓶を、両手でぎゅっと包み込んだ。
顔すら覚えていない母親の子守唄が、ルールーの心に響いてくるような気がした。
おわり