旅をはじめていつかのその日。前編
「……むぅ」
ヴァンが唸る。最早拠点となりつつある質素で簡素な宿屋の一室、その部屋の椅子に腰掛けて、唸る。
空色の瞳が見下ろすのは本。触れれば折れてしまいそうな白い指はしっかりとそれを支え、開かせていた。
「どう、ヴァン。やっぱり無理でしょう?」
尋ねるのは椅子に座るヴァンの背後にたつアリア。美しく整った顔を綻ばせ、蒼く長い髪をいじっている。
「……そうだな、書いてあるのは読めるのに理解が出来ん」
問いに答えを返してため息をつき、顔を上げた。テーブルを挟んで反対側に座る黄髪の少女が視界に入る。
リシャは相変わらず弱弱しい雰囲気を纏い、ほのかな微笑みを浮かべていた。
「でも、仕方ない、よ。だって、ヴァン、魔術の基本、も、お勉強、してないん、だよね?」
言われ顔をしかめ、また本に視線を落とす。大量の文字が並んでいて、そこに書かれた内容も読めた。
しかし、理解が出来ない。不可思議なことだが、読めても頭の中にソレを形象出来ないのだ。
それもそのはず、この本はただの本ではない。アリアの母であり『山吹の傀儡使い』という二つ名を持つ強大な魔女でもあり、そして、天涯孤独の身となったリシャを引き取った義母でもある、レリア・エキーアの魔術書なのだから。
魔術書とは、文字通り魔術師が自らが行使する魔術を書き綴ったもので、魔術は真に理解せねば使うことが出来ないが、魔術書は究極に理解せねば記せない。
そして、読む側もまた、魔術に対する真の理解を求められる。
もっとも、理解できない理由はそれだけではない。この魔術書があまりにも『強力』すぎるのだ。前提となる『理解』の壁が高すぎる。
譲り受けた――レリア本人から魔術書を理解する『許可』を得た――リシャですら、読み、理解できたのはまだほんの数ページ。
「気合や勢いっていう根性論で魔術を習得しちゃったんなら、その魔術書を理解することなんて出来るわけがないわね」
蒼く長いヴァンの髪を編み合わせているアリアが苦笑した。
「……むぅ」
また顔をしかめ、唸る。
今更ながら魔術が学問だと再認識した。学問は基本を知ってこそ、応用を解ける。しかもこの魔術書はさらにその『基本の理解』が高い水準であるのを要求してくるのだ。
アリアの言う通り師の教えの元、気合や勢いで魔術を習得したヴァンが理解できるわけがない。魔術の『基本』のきの字すら分かっていないのだから当然だろう。
そもそも、何故そんなヴァンがリシャの魔術書を読んでいるかというと――――。
「行くぞ、アリア、リシャ!」
太陽の光さえ遮る鬱そうとした森の中、ヴァンは前方を睨みながら叫んだ。視線の先には薄暗い木々の間から飛び出してくる三体の魔獣の姿があった。
四肢を持つ魔獣は成人男性ほどの大きさに灰黒い毛皮と鋭い歯牙を持っている。
今回ギルドから受けた依頼の標的だ。内容としてはありきたりなもので、この三体の魔獣はここからすぐ近くの村を何度か襲撃したことがあるので退治して欲しいというもの。
襲撃といっても、畑を荒されたり家畜を喰われたりといったもので人命が奪われたわけではない。だが、その村にとっては死活問題だろう。何より、魔獣が村に来るというだけでも恐怖となるのだから、無視は出来ない。
本来であれば、村や町が魔獣に襲われることはあまり無い。魔獣除けと呼ばれる、魔獣の嫌う臭いや光を常時発する魔道具を設置しているからだ。
それでも魔獣が村を襲えたのは、この三体が魔獣除けを無視できるほどの力を持っていることに他ならないので、その点においてもやはり無視は出来ない。
「えぇ!」
「う、ん!」
そこまで考え、金色の魔女と幼い魔少女の返事を受けて思考を中断させる。もう少しで激突するだろう三体の魔獣を再度見据え、ヴァンは口を開いた。
「サラマンダァ……!」
しかし、唱え終わるより早く、後方の魔女二人が動く。
「アース、グレイブ!」
リシャが魔術書を左手で開きつつ右手を高く振り上げる。瞬間、三体の魔獣が駆ける地面から土の槍が飛び出した。
しかし、魔獣たちはそれが分かっていたかのように各々跳躍する。
「馬鹿ね、跳んだら避けられないわよ?」
宙に浮かぶ三体を見上げ、アリアは嘲笑った。右手を掲げ手のひらを見せる。
「でも、リシャのを避けたのは褒めてあげるわ。フレイム、アロー」
静かに唱えた。開いた手から炎が飛び出す。一発。二発。三発。炎は真っ直ぐに魔獣たちに向かい、徐々に矢の形を成していく。
そして、とてもあっさりと三体の魔獣は絶命した。
「…………イグニ……ッション?」
燃え上がる肉塊が地に落ちる音と、どこかマヌケな響きを持った甘い声が森に響く。
「これで依頼は終わりね。証明部位を取ってさっさと帰りましょ」
「……う、ん。えっと、ごめん、ね? わたし、その、魔獣ってわかって、いても」
「別に気にすることは無いわ。リシャの動物好きは分かってるし……部位も私とヴァンで取るから、リシャは周囲の警戒してて」
「うん、わかっ、た。その、ありがとう」
もう何度目かになる二人のやり取り。会話からも分かるようにリシャは無類の動物好きで、魔獣と言えど犬に似た魔獣を自ら手にかけるのは難しいらしい。
それを甘えていると取る者は多いだろう。しかし、ヴァンはそれでいいと思っている。
リシャは魔獣に家族を奪われた。憎んでいると思う。うらんでいると思う。だからこそ、理由はどうあれ魔獣を直接手にかけることに躊躇するほうがいい。
憎しみに囚われて魔獣を殺すよりずっといい。
ともかく、今はそんなことは重要ではない。今のヴァンはもっと重大な、そう、まさに誇りと矜持、ひいては存在意義に関わる重大な衝撃を受けているのだ。何やら同じことを繰り返した気もするが、それほどに重大なのだ。
先も言ったとおり、上の会話は何度もされている。そう、何度も、だ。
つまりは討伐の依頼は三人で何度もこなしたということ。否、正確には二人で。
誰と誰でかは明白だろう。そうなのだ。
旅をはじめて一ヶ月――――ヴァンは『魔獣と一度も戦っていない』。
確かに放出系の魔術を得意とするアリアとリシャは、自らの身に纏う魔装系、しかも二つしか使えないヴァンより早く敵を攻撃できる。
「ヴァン? 集めるわよ?」
それは仕方ないとしよう。だが、問題は、いや、これは問題とするべきではないが。
長年冒険者をしてきたヴァンから見ても、二人はかなり強い。魔術を使えるという点はもちろん、その詠唱速度、威力、正確さ、どれをとっても並みではない。
もちろんアリアとリシャを比べれば数段アリアが上を行くが、ある一定以上の力量を超えている二人を比べるのは無意味だといえる。二十の者が五十を見上げようが百を見上げようが同じことなのだ。
つまり、何がいいたいかというと。
「ヴァン、聞いてるの?」
ヴァンが動く前に二人であっさりと敵を片付けてしまうのだ。これはいけない。いや、悪くは無い。むしろ安全に魔獣を倒せているといっていい。
しかし先の通り、ヴァンの誇りや矜持や男としてのうんぬんかんぬんその他もろもろに対して優しくない。とても優しくない。
もちろんそんなことは自分のわがままだと分かっている。悪く言えば自己中心的。良く言えることなどあろうはずもない。
なので、ヴァンはこの状況を。二人だけに戦わせているという状況を打破したい。ならばどうするか。
「ちょっとヴァン! もうっ、いいわよ。私だけで集めるから」
まず今の状況の原因は何だ?
自分が弱いことにある。
違う違う。そういうことではない。ある意味当たっているがこの場合正解ではないはずだ。ないと思いたい。
「……ヴァン? どう、したの?」
「何言っても反応しないの、よっ! と、毎度の事ながら証明部位を取るのは気持ちいいものじゃないわね」
放出系の魔術?
そうだ。それだ。放出系の魔術だ。それを使えないから、自分は出遅れている。
なら、その問題は回避できない。何故ならそれを習う魔術学校に通うため、こうしてお金を集めながら旅をしているのだから。
確かにそうだ。
ん? ちょっと待て。別に通う必要は無いんじゃないだろうか。
もうここに二人も放出系の魔術を習得している魔術師がいるじゃないか!
「ごめん、ね……。わたし、も、はやく、慣れて、交代、する、から……」
「あー、ううん、そんなつもりで言ったわけじゃないの。本当に気にしないで。というか、しちゃだめ。あんた、ただでさえ死骸とか苦手になってるんだから」
「でも……」
「でももたべものもないの。無理したらまた吐いちゃうわよ? 私も、ヴァンも、リシャのそんな苦しんでるとこ見たくないの。ね?」
「……う、ん……あ、ありがとう」
「ふふ、どういたし」
「アリア!! リシャ!!」
つい叫んでしまったが、気にしていられない。
目を丸くしているこちらを見ている二人に、ヴァンは自分でも興奮してしまいそうな名案を口にした。
「俺に魔術を教えてくれ!」