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 今日は個展の最終日のため、展示時間が終わったら会場に赴く予定だ。後片付けや発送の準備などスタッフの人がやってくれる仕事だが、絵見はなるべく自分で梱包したかった。絵は絵見自身であり、自分の子どものようなものだから。

 まだ連続殺人の犯人は捕まっておらず、周囲は殺伐としていた。叶多も一緒に行きたかったようだが、生憎会議が入っているようで泣く泣く我慢している。気をつけるように、何かあったら連絡すること、等口酸っぱく言った。絵見だって大人であり、展示場には他のスタッフもいるのだからきっと大丈夫だ。叶多は心配性だな、と嘆息する。

 諸岡の飼っていた猫のみぃちゃんもすっかり家に慣れており、今は日向ぼっこをしている。ワトソンはみぃちゃんがとても好きでいつもお尻を追っかけている。しつこすぎて怒られているが、仲が良さそうで何よりだ。

 日も傾きはじめており、そろそろアトリエを出るかと重い腰をあげる。今から向かえば閉館して三十分以内には着くだろう。

 いってくるね、とみぃちゃんとワトソンにいう。玄関に手をかけてふと思い出し、部屋へ戻った。いけない、いけない。スマホを忘れていたのだ。カバンに入れたことを確認してアトリエを出る。また叶多の機嫌が悪くなったらよくない。

 空を見ると太陽と月が共存していた。明るい色と暗い色が一つの画面にあり、幻想的な風景。綺麗で少し淋しく胸をじんわり締め付ける感覚。

 明日描こう。この素敵な景色を叶多にも見せてあげたい。

 絵見は軽い足取りで展示場へと向かった。




 辺りはすっかり真っ暗で展示場は消灯している。あらかじめ受け取っていた従業員用の入口に鍵を差し込み、中へと入った。

 室内も真っ暗でどこにも従業員が見当たらない。展示室の方を見るとまだ作品が一つも片付けられていない様子に思わず眉間にシワが寄る。

 少し歩くとある一角だけ電気がついていた。今回のスタッフは一人で片付けでもしているのだろうか。いつもは複数人でテキパキと片してくれるのに。

「すみません、永世です。ありがとうご…」

 灯がついている一角を曲がりながら覗き込んだとき、背後から何者かにバチッと電流を流されて絵見は床に倒れ込んだ。

 よくない予感というものは往々にして当たるものである。




 鼻が少しヒリヒリと痛むな、自分は何をしていたのか、ぼうっとした頭を必死に回転させる。ぼやけた視界もだんだんはっきりしてきて、自分が展示場にいることを理解する。

 そうだ。展示場の片付けのためにやってきて、スタッフが見当たらないと探していたら急に誰かに気絶させられたのだ。

 ゆっくり顔をあげるとそこは『悲劇』が展示してある一角だった。この辺りには絵見が両親を亡くしたときに感情を込めて描いた複数の絵が展示してある。

 周囲を見回すとキャップを被った男が暗闇から近づいてきた。手には絵見のスマホがある。ポケットに入れたはずなのに、と自身を見ようとしてようやく自分が両手を縛られていることに気づく。この者が絵見を気絶させたのだ。

 顔を見ると笑っているのにどこか恐ろしさ―狂気を感じた。諸岡を自身に入れて描いた絵と上半身のシルエットは似ている気がする。そしてどこかで見た気がした。だが思い出せない。どこだったか?

「覚えてる?」

 男はキャップを少しだけずらして顔を近づける。ああ、思い出した。

「絵の販売を断った人…」

 この会場で開催されていた個展にて『悲劇』を欲しいと自分に言ってきた男だった。なかなか直に聞かれることも少ないため、印象に残ってる。

「それ以外は?」

 男は笑顔を貼り付けたまま尚も詰め寄る。早く思い出してほしいというように。切実に、といえば聞こえはいいがその姿は何かに取り憑かれているようにも見えて背筋が寒くなる。

 頭の中を隅々まで探しても全く欠片も思い出せなかった。相手はこちらを知っている様子なのに、一体それ以外でどこで出会ったのだろうか。

「…知りません」

 激昂して乱暴されるのでは、とびくびくしながら俯いて答えると男は途端に静かになった。

「そうだと思った」

 彼はおもむろに自身のことを語りだした。

 名前は沼田一。どうやら小学校が絵見と同じで話をしたこともある仲だったらしい。というのも絵見にはその記憶がないのだ。思い出せないのではない。彼女の頭の中には彼の存在はないのだ。

 それから絵見が覚えていなかったことまで話しだした。当時机の上に敷いていたランチョンマットの柄から、よく仲良くしていた同級生の名前、お気に入りの服装まで、絵見も意識していなかったことまで事細かに沼田は話した。その表情も語り草も鳥肌がたつぐらい気色の悪いものだった。気持ちが悪い虫を見たってここまで酷くはない。それほどこの男は常軌を逸している。

「君の両親にも会ったことがあるよ」

 先程までの口調と変わらずさらりと告げられる。そのことに関しても全く覚えていなかった。この変な人と会うなんて、学校の授業参観ぐらいしか思い浮かべられない。だが少しだけ違和感があった。この違和感はたぶん感情を自分で外に出したためのもの。

「ここまで言っても思い出せないんだ。やっぱりあの男のせい?」

「?」

「一緒に暮らしているんでしょ?」

 目の前の男は恐らく叶多のことを言っている。ただ先程までの話から脱線しすぎていて意図が読めない。

「あの男が好きだから、俺が君の両親を殺したことも忘れちゃったんだろう?」

 ひゅっと喉が狭まる。この男は今なんと言った?

 まん丸に見開いた目に自分だけを映していることに優越感を抱いたのか男はとうとうとまた自分のことを語りだした。ついさっきあったことのように、恍惚と。

 沼田は小学四年生の頃から絵見のことをいいなぁ、と思っていた。彼とは四年生から一緒のクラスだったらしい。絵見は同性たちと楽しそうに話しており、逆に沼田は教室の端っこで一人で過ごすような少年だった。クラスが一緒、という以外に接点がなかった二人だったが、たまたま席が隣同士になった。そしてある日沼田がたまたま教科書を忘れたのだ。どうしようか悩んでランドセルをひっくり返していると予鈴前に着席した絵見が見かねて「教科書一緒に見る?」と声をかけてくれたのだ。そのときの沼田の気持ちを細かく表現することは難しいだろう。氷原に咲いた一輪の花のようなもの、といえば少しは伝わるかもしれない。つまり春が来た、と思ったのだ。絵見も自分に気がある、付き合っている、と。

 あまりに突飛な考えに言葉も出なかった。どういう思考回路になればそのように導かれるのか皆目見当もつかない。絵見が得体のしれないものを見るような目で見つめているのに、沼田は気づきもしない。

 それからどんな話をした、どんなことをしたと細かに話をした。よくそんなことまで覚えていると感心するほどだ。

 話の中についに絵見の両親が現れた。自分と絵見の仲を引き裂こうとした。関わってはいけないと両親に言われた、と絵見に言われたらしい。その瞳は地獄の釜のようにごうごうと燃えている。何一つ覚えていないものの、両親の考えは正しかったと言わざるをえない。この男ははっきりいって狂っている。

 怒りに支配された沼田は絵見の両親を殺害することを決める。二人の仲を引き裂く障害物は撤去しなければならない、と考えたのだ。絵見が不在で絵見の両親が在宅中のことが多い日曜日の夕方を犯行日と定めて、沼田はこっそり永世家に忍び込んだ。沼田は一度だけ永世家に入ったことがあったのだ。絵見が風邪をひいて休んだ日にプリントを届けに。そのときのことを覚えていた。犯行当日、玄関のドアは開いていた。家に誰かがいるとき、鍵を閉める習慣がなかったのだ。治安もよくそこそこ田舎だった、というのも理由だろう。そのとき絵見の両親を殺害し、家に火を放った。たまたま早く帰宅した絵見に一部始終を見られたものの、彼女は警察には事の次第を言わなかったのである。正しくは絵に詰め込んだため、覚えていなかったのだが。

「だから君も俺を受け入れてくれたんだと思ったんだ。庇ってくれたんだって、一緒になるために。でもすぐ君は転校しちゃうし連絡先はわからなかったし、再会するまでにこんなに時間がかかっちゃった」

 沼田は自分の都合のいいように解釈したようで、自分は絵見に許された、受け入れられたととらえたようだ。そして十年以上も絵見に執着していたらしい。今までずっと探していたのだ。その事実に体の震えはどんどん大きくなっていく。

「やっと見つけたと思ったら、隣に男がいるし」

 美術館で無事に再会したとき、沼田に気づいていない様子の絵見に落胆したもののそういう遊びをしているんだと思った。シャイなのだ、と。だからこっそり後をつけて自宅を突き止めると、なんと男と一緒に暮らしているではないか。どうやら親戚ではない、ということは調べたらすぐにわかった。

 そこで絵見は新しい男が傍にいるから、自分のことを忘れてしまったんだ、という思いに至った。ならば男を殺せばいいのだ。

 絵見の両親を殺したときのように傍にいる男、御手洗叶多を殺めればまた彼のことを忘れて自分を選んでくれる。

 ただいきなり本命を殺すのもつまらない。沼田を忘れたことを後悔させなければならないと思った。ならどうするべきか?答えは簡単だった。身近な者を殺していって罪の意識を思い出させればいいのだ。君のせいで大勢が死んでいるんだよ、と。これは自分を忘れたことの罰なんだと。

「御手洗叶多を殺したら、ようやく本当に結ばれるね。残念ながら俺のことは最後まで思い出せなかったみたいだけど、覚えてもらう楽しみもあるよね」

 沼田は後ろ手に隠し持っていたサバイバルナイフをぽんぽんと手に当てながら獲物を狙う獣のように鋭い目を輝かせた。歪んだ愛はあまりに一方通行で、絵見にとって刃物でしかなかった。今ならいい絵が描けたかもしれない、と思わなかったのはまだ絵見に人間らしさが残っている証拠だ。

 気絶してからどれぐらい経ったかはわからない。ただいつも帰るときには連絡をいれるため遅くなれば叶多も怪しむだろう。そのとき警察に連絡していればいいが、もしも単独でこちらに迎えに来た場合、沼田の思い通りになってしまう。絵見は天に祈るように顔を俯かせた。どうか叶多が来ませんように。

 こういった祈りは往々にして裏切られるのが世の常である。

「絵見〜?」

 遠くで扉が開く音と叶多の間延びした声が展示室に響いた。人のことをいえた義理ではないが、あまりに不用心ではないか。関係者でもないのに、扉が開いていたから入ったのだろう。お金持ちだからかそういうところは気が利かない。

 沼田は口角をあげて満面の笑みを浮かべている。この展示スペースの壁に身を隠して、包丁を持った手を胸元まであげて獲物がやってくるのを今か今かと待ちわびているようだ。その瞳は鋭いのにあまりにも濁って見える。

 声をあげたらきっと叶多はこちらへと駆け足で来てしまう。だから決して声を出してはいけない。なんとか縄を解けないか腕をこすり合わせていると、ふとズボンのポケットに入れたパレットナイフに気がつく。出かける前に絵を描いていた時、ポケットに入れっぱなしにしていたのだ。適当に物を置いたりしまったりする癖がここにきて役に立つことがあるなんて思いもしなかった。沼田は相変わらずこちらの動きを目にも止めていない。今のうちに縄をとかねば。絵見はバレないように気をつけながらパレットナイフで縄を擦る。縄が太くてジグザグと擦ってもなかなか切れない。

 カツカツとゆったりとした足音がどんどん近づいてくる。展示場の一角、一角を真面目に確認しているようで、思ったよりも時間がかかっている。絵見がいる場所は全体の半分よりもはじめの方、つまり関係者用の裏口より遠いところにあるため少し時間がかかる。おかげで縄もあと少しで切れそうだった。

「おかしいな…」

 縄を切ることに集中しすぎてついそこまで叶多が来ていることに気付けなかった。叶多が絵見のいる一角に曲がろうとしたとき沼田はナイフを両手で持って飛び出した。

「避けて!」

 沼田が飛び出すより少し速く絵見が声を張り上げた。その声がする方に振り向いた叶多は目の前に襲いかかってくる沼田をみつけて慌てて体を捻る。だが少し反応が遅く、ナイフは叶多の腹部に刺さった。叶多は両手でナイフの柄を抑えたため深くは刺さらなかったものの、服には赤い染みができている。

 沼田と叶多がナイフの柄を押したり引いたりして膠着状態になっている。痛みに顔を歪めた叶多が思いっきり沼田の腹に蹴りを入れると、彼はナイフと共に後方に転び、絵をなぎ倒しながら尻もちをついた。

 出血のせいか叶多もその場で膝をつき、腹部を手で押さえている。先に体勢を整えたのは沼田の方で、ナイフをしっかりと持ち直しゆっくりと叶多に近づいていく。その顔は人を殺すことに躊躇など微塵も感じられない。むしろ愉悦さえ感じているような、歪な表情を浮かべている。

 やっと縄を切った絵見は辺りを見回して武器を探した。丸腰で沼田に体当たりをしても分が悪すぎる。だが周囲には絵とパレットナイフしかない。合同の展示だったならば壺などの鈍器もあったかもしれないが、生憎今回は個人展だ。

 沼田が叶多のすぐ傍まで近づいているところが視界に入り、慌てて近場のものを掴んで駆ける。叶多はまだ痛みでうずくまっており、動けずにいた。眉を歪ませ息を荒くし、キッと睨みつける姿は最後の抵抗をしようとしている小動物のよう。沼田はますます口角をあげてゆるりとナイフを振り上げた。

 バン!

 沼田がナイフを振り下ろすより速く、絵見が先程沼田がなぎ倒した絵を振り下ろした。バン!バン!バン!力の限り何度も何度も叩きつける。絵見の介入を予測していなかったのか、沼田は無抵抗に殴られ続けた。殴られた拍子にナイフは床に落ち、叶多によって遠くへと飛ばされる。

 沼田に反撃の隙を与えるわけにはいかない。一心不乱に振り下ろし続けるとキャンパスが歪な音をたてて壊れた。布張りしていた枠は二つに分かれ、布は破けた。

 その瞬間色々な記憶が頭の中に戻ってきて涙が溢れたが、頭を振り払って次の一枚を手にとり振り下ろす。バン!バン!バン!二枚目のキャンパスが壊れ、次のキャンパスに手をかけようとしたとき、叶多が慌てて声をあげた。

「もう気を失ってるよ!」

 はっとなり、動きを止めて相手を観察すると確かに沼田は倒れてびくともしなかった。一心不乱に殴り続けていたため気づかなかったようだ。

 掲げていたキャンパスをゆっくり下ろして肩で息をする。普段しない動きをして体は限界だった。何より絶え間なく頭に流れる記憶が、絵見の心を疲弊させていた。ぷつっと糸が切れたように絵見は床に倒れる。三枚目のキャンパスは床に置いた後だったため壊れることはなかった。

 叶多の慌てた声がだんだん小さくなっていく。視界は暗くなり、やがて意識が闇の中へ沈んでいった。

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