4
絵見が小学一年生だった頃、叶多と初めて出会った。
初めての夏休み期間、共働きの両親が祖父の家兼アトリエに絵見を預けた。絵見が夏休みは祖父のアトリエで過ごしたいと駄々をこね、祖父も了承したためだ。絵見はそれはもう大喜びで飛び跳ねていた。アトリエについて叶多と会うまでは。
当時の叶多は反抗期真っ只中のぼんぼんで、祖父以外の大人にも子供にも反発していた。初めて会ったとき祖父から自身のパトロンのお孫さんで、絵見とも年が近いから仲良くするように言われて握手をしようと手を差し出したのに、あろうことか突っぱねられたのだ。絵見もまだまだ子供で、その対応にかぁーっとなってぷいっと顔を背けて怒ってしまった。仲良くしてやるもんか!と。
祖父と過ごせて嬉しい気持ちもいつの間にか霧散してしまった。何せほぼ毎日叶多がアトリエに来ていたからだ。顔を見るたびにふんっと視線を逸らされればいらいらするのも仕方ないことだろう。
だが日が立つにつれてその思いも薄れていった。叶多も祖父の絵が好きでよく絵を描いているところを隣に並んで眺めていたのだ。その横顔はきらきら輝いていてつっけんどんな普段では考えられないほどの表情だった。ああ、こいつは祖父の絵がとっても好きなんだな、と思ったらなんだか嫌いにはなれなかった。そこから絵見の態度は軟化していき、度々叶多に自分から話しかけるようになったのだ。
「なんでいつもここにいるの?」
「…周りが兄さんたちと比べてうるさいから」
この頃になると叶多も渋々だが返事を返すようになってきた。二人は広い庭の片隅で花壇を見ていた。アトリエは叶多の別荘の敷地内にあり、庭も広々として手入れが行き届いている。ぼんぼんがよく御伴もつけずに出歩いているな、とは思ったが敷地内なら問題ないのだろう。ミンミンとそこかしこで鳴いている声が、肌をじりじりと焼く太陽と共に夏を感じさせる。
アトリエ内を綺麗に掃除するから、と追い出された二人は大人しく近くで外を眺めていたのだ。ふーん、と絵見は生返事をする。
「お兄さんってどんな人?」
「なんでもできるすごい人たちだよ。僕だって勉強ぐらいできるのに、兄さんたちが会社を継ぐんだから僕は別にいいでしょ」
叶多の兄たちには会ったことはなかったが、話を聞くに相当できる人たちなのだろう。例えば全科目満点とるぐらい。
つまり彼は反抗期なのだ。反発心からこんなにつんつんしている。
「なら、お兄さんたちがやらないことすればいいよ」
「?」
「例えば掃除をしたり、料理したり!お兄さんたちはしないでしょ?」
「…しない」
「一緒にやろ!」
絵見は体育座りをしている叶多の手を取ってぐいぐい引っ張る。つんつんしているよりよっぽど楽しいと思った。ぽかんと口を開けていた叶多だったが、逡巡したあとゆっくりと立ち上がって絵見に連れられていった。
ほんのり耳が赤いのは暑さのせいに違いない。絵見も暑くて顔が真っ赤だった。
二人はアトリエへと入るとずんずん祖父の元へとやってきて言った。
「私達もお掃除やる!」
その日は結局夕方まで祖父の指示に従って二人で掃除をした。掃き掃除に拭き掃除、窓から台所の掃除まで。恐らく実家ならば母がやっているだろうところまで隅々までやった。叶多の家の場合は家政婦だろうが。
当時は祖父の役にたっている、自分たちだってこんなにできると自画自賛したものだ。今思うと祖父が絵見たちの思いを汲んでやらせてくれていたに違いなかった。祖父が一人でやったほうがうんと早く終わったに違いないのだから。
ただそのときの出来事は叶多にとって代えがたいものだったようで掃除を皮切りに料理や洗濯等も家政婦に聞きながら自分でやり始めたそう。『そう』というのは随分経って本人から聞いたからだ。
家政婦さんの作り置きしたご飯はおいしいねというとあっさり否定され、この料理は自分で作ったんだ。と言われ、実はねと昔話をされたのだ。絵見のおかげで家事全般できるようになったんだよ、と。やっといろいろと一人前に出来るようになったため、話してくれたのかもしれない。絵見はすっかり当時のことを覚えていなかったため、まぁいいんじゃないと適当に返した。昔話をする叶多の横顔が大切な宝物を愛でているみたいで、でも少し悲しんでいるように眉尻を下げていて返答に困っただけなのだが。
そんな出会いがあり絵見自身にも色々なことがあった。だが結局こうして傍にいることも何かの縁なのだろう。絵見が画家になり、叶多がパトロンになったことも。
「絵見、終わった?」
絵見はアトリエの掃除をしながらぼんやり物思いにふけっており、手が止まっていたらしい。後ろから声をかけられて慌てて振り返る。
「まだ」
「こっちは終わったから手伝うよ。どこやればいい?」
窓掃除、と答えると了解、と返ってくる。もくもくと窓掃除する叶多はちょっとだけかっこいいと思わなくもない。それに絵見のテリトリーだから指示を仰ぐところもポイントが高い。金持ちだけでなく人間的にもできる男なのだ。上二人は既に妻子を設けているのに叶多はいつまでたっても独身で社長―叶多の父が嘆いている、とこの間たまたま会った実家からときどきくる家政婦さんが言っていた。彼女もすぐ出来そうなのに一度も見かけたことはない。だがそのうち彼も結婚するのだろう。絵見にはその予定がないが、友として祝福しなければなるまい。
「ご祝儀はしっかり出すからね」
「急に何の話?」
なんでもない、と目を細めて自分の作業に戻る。描くことに夢中になっているとそれ以外が疎かになり、やりっ放しになってしまうのでアトリエは散らかりぎみなのだ。掃除はちょっとやそっとでは終わらない。
たまには絵を描かない、こんな一日もいいものだと絵見は思った。