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「決して感情を載せすぎてはいけないよ」
いつか大切なものも全部無くしてしまうかもしれないからね。
幼い頃画家である祖父に言われた言葉。祖父も絵見と同じく自身の感情をキャンパスにこめることができた。しかし祖父は滅多にその能力を使わなかった。それでも祖父の絵は人気があった。
感情を載せてしまうと自身の中にある感情が無くなってしまう。ぽっかり穴が空いたみたいに、空虚感がある。絵に感情を込めすぎるとそれがクセになって止められなくなってしまうことを危惧していたのかもしれない。吐き出し続けた先の未来は廃人かただの生きる人形か。
絵見は自身の感情を載せることを悪いことだとは思わなかった。ただ周りが眉を下げるのを見ると少しだけ心が締め付けられるみたいになったが。零れ落ちるより、食い破られるよりよっぽどいいと思ってしまうのだ。
今回の画展では半分ほど絵見か他者の感情を込めた絵を展示していた。今日は画展の初日のため、絵見も様子を見にやってきたのだ。広いギャラリーを借りることができたため、多く展示することができた。
感情を込めた絵見の絵もそうでないものも、等しく人気ではあった。ただ画展の様子を眺めていると感情を込めた絵の前で足を止める時間が長い者が多い。理由はわからない。その絵に込められた感情が、見ている者のどこかに強く響いているのかもしれない。
絵見は腕にSTAFFと書かれた腕章をつけていたため度々話しかけられた。絵の購入に関しては受付にいってもらった。そういった話はあまり得意ではないのだ。また感想を投げかける者もいた。自分の受けた感情を誰かと共有したい人たちが多くいるのだ。そんな人たちの生の感情を受けると、絵見の目尻も柔らかくなる。なかなか感想を直接聞く機会はない。とても貴重だった。だからあえて作者と名乗らずぶらぶらしている。
「久しぶり、お姉さん!」
突然背後から話しかけられて振り向くと、以前依頼を受けた佐藤一家の息子、陸がいた。家族で画展を見に来たらしい。彼は絵見の存在に気づいて両親から離れてここに来た。七美のことがあったのだから、両親が心配すると伝えると陸は肩を落とした。
幸いにも佐藤夫婦は近くにおり、すぐに駆け寄った。何度も頭を下げて、犯人逮捕の一助になってくれたと感謝した。まだ判決は出ていないが、一家は憑き物が落ちたように明るい表情をしていた。七美の体は無事に埋葬できたそう。
くまの着ぐるみの絵の前で話を聞いていると、彼らはほぼ日常に戻ることができているようだった。絵を見ると沈鬱な表情にはなったがそれは仕方のないことだ。家族を亡くすことはそれまでの世界が歪んで異なるものになってしまう。原因を想起させるものならばなおのこと他の客と同様に絵を見ることはできない。全てを元通りにすることは不可能だが、それでも生者は生きていくしかないのだ。
「お姉さん、質問していい?」
「答えられることなら」
陸が絵見の袖を引っ張ってある絵の前まで連れて行く。夕日に照らされた桜と四人の家族の絵だった。
「これって七美の?」
絵見は首を横に振る。正確には七美が一番印象に残っていた景色を見た絵見の感情を込めた絵だった。つまり七美の中にこのとき感じたものは残っているということ。
「でもたぶん七美ちゃんが大切にしてたものだと思う」
「そっか」
陸は真剣に絵を見つめて俯いた後、しっかりとした眼差しで絵見を見た。
「この絵って買えるの?」
「君には無理かな」
絵見の絵は小学生の小遣いで買える値段ではない。大人とてちょっとやそっとでは買えないのだ。吉美は慌てて陸の肩を掴み、揺すった。何を言ってるの、と怒られても陸の意思は変わらなかった。
「これ、七美との思い出だから、欲しいなって思って。あの、お金貯めるので、いつか買いたいです!」
衝動的に言ったわけではなかった。陸は心から絵を欲していた。何にも代えがたい思い出なのだ。
「待ってるね」
その思いが将来薄れて無くなるかはわからない。しかし今の彼が真摯に向き合ってくれているのだから、絵見はそれに応えなければならないと思った。いつか、がいつになるかはわからないが、陸が抱いた思いは尊いものだから待つ価値はある。
陸は目を輝かせて何度もありがとう、と言った。その笑みは一点の曇りもない。そうして佐藤一家は頭を下げてその場を後にした。
「すみません」
画展を周回していると背後から呼び止められた。キャップを目深に被った男性はちょっといいですか?と手招きして絵の前まで来た。
「これっておいくらですか?」
指さされた絵は燃え盛るように一面真っ赤な絵だった。ぱっと見は赤色で塗りつぶされたキャンパスだが、よくよく見てみると人の顔が見えてくる。痛みに泣き叫んでいるような、苦しんでいるような、はたまた喜んでいるような人の影。狂気を感じる絵だった。
「これは売ってないんです」
『悲劇』と書かれた絵はまさしく絵見の悲劇を描いたものだった。両親を亡くしたときの感情を閉じ込めた絵。これは決して手放すことはできない。
男性は肩を竦めて残念です、といってどこかへ行ってしまった。
絵見はじっと絵を見つめた。だが何を思って描いたのかはさっぱり思い出せなかった。当時感じた全ての感情をキャンパスに閉じ込めてしまったからだ。
絵見が十一歳のとき、両親は亡くなった。絵見がかろうじて覚えているのは家がごうごうと燃えていたことだけ。火事にあった家の中に両親がいたのだ。ただ司法解剖した結果、火事による死ではなく他殺の可能性が出てきた。焼け残った遺体には何かで殴打されたあとがあり、自分でぶつけたあとではなかったのだ。
唯一の生存者であった絵見は事情聴取を受けた。家が燃えているときに目の前にいたのだ。火事が起こる直前に何か見たかもしれないと思われるのは当然だろう。しかし家が燃えるきっかけも、そのとき何をしていたかも絵見は覚えていなかった。火事の後、保護されてから事情聴取されるまでの間に絵を描いたからだ。絵にそのとき感じた全てのことを詰め込んでしまった。だから彼女は何も覚えていなかった。
何度聞かれようとも、何を聞かれようとも一つも思い出せない。なぜなら全て絵見の中になくなってしまったから。理由はそれ以外ない。警察も新しい情報は得られないと諦めた。描かれた絵を見たところで真相はわからない。事件は犯人逮捕に至らず未解決事件として幕を閉じたのだ。
絵見は犯人が捕まっていないことに何も感じなかった。悲しい、憎い、苦しいという気持ちも湧いてこない。だから佐藤一家が犯人を見つけることができて正直ほっとしていた。自分のように家族を亡くした誰かを助けることができて、犯人が捕まって、当時の自分を少しでも慰めることができたように思ったから。
両親が亡くなったため、絵見は祖父の家に引き取られた。それから祖父が見ていないときに少しずつ自分の感情を、両親との思い出をキャンパスに移していった。祖父が見たら悲しい顔をして怒るから、本当に少しずつバレないように。
両親がいないのに、彼らとの楽しかった出来事を思い出すことは絵見にとって耐え難いものだった。だから絵に閉じ込めた。そうして今の絵見がいる。絵を描いているとき以外はほとんど無表情で何を考えているかわからない女性が出来上がってしまったのだ。
幸いなことに彼女の傍には叶多がいた。彼は絵見との思い出を大切にしてくれて、時には絵見が忘れたことも今あった出来事のように話してくれる。そして絵見の感情が込められたキャンパスを大切に保管してくれている。いつか必要なときに、必要な絵が手元にあるように。
ヴーヴーとポケットからバイブ音が聞こえる。そういえば今日は一緒にいないからと上着に無理やり突っ込まれたことを思い出した。スマホを確認すると叶多からだった。噂をすればなんとやら。画面を開くと昼は食べたのか、帰りは遅くなるのか等まるで母親のような内容だ。口角を少しあげて手短に返信する。『これから食べる』『六時には帰る』
まだ腹は空いていないが、叶多に従い昼をとることにしよう。今朝彼がカバンに詰めてくれた弁当が今日のランチだ。スタッフに一言声をかけ、荷物を持って外へ出る。今日は快晴で風もなく日向ぼっこ日和だ。幸いにも施設の周りにはベンチがある。日向にある手近なベンチに腰を下ろして弁当を広げていると返信が来た。了解、と書かれた犬のスタンプだ。既読をつけたため画面を暗くして弁当に手をつける。
彩りよくトマトやレタス、卵焼きにウインナー等が入っているバランスのとれた弁当。本当に叶多はなんでもできるお母さんみたいだ。箸をもくもくと動かす。
両親を亡くして記憶と感情もなくし、祖父が他界しても心穏やかに過ごせているのは叶多のおかげといっても過言ではない。彼が絵見の家族のように傍にいてくれるおかげで狂わずにいられる。いつもふとした瞬間に感謝しているのだ。本人には恥ずかしくて滅多に言わないが。
ありがとう。
絵見は雲を眺めながら心の中で呟いた。