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はぁはぁ
息が切れる。心臓が痛い。体が重くて足がうまく上がらなかった。空気は澄んでいて涼しくて気持ちいいのに、体は熱くて喉がひゅっとする。
「絵見〜大丈夫?」
叶多が余裕そうに五メートル先から手を振っている。こちらは息も切れていて体も痛いというのに。
「普段籠りっぱなしだからだよ。たまには運動しなくちゃ」
僕は家に運動器具があるからね、と自慢げに言った。そういえば叶多はボンボンであった。絵見は入ったことはないが、トレーニング部屋があっても可笑しくない。
以前山に登ったときはここまで酷くはなかった。次の日筋肉痛になったものの足はひょいひょい動いたし、息は弾む程度でここまで肩で息はしていなかった。そういえば以前行ったときは学生だったかもしれない。通学というのは自覚していないものの程よい運動になっていたということだろう。絵見は今度からたまには運動しよう、と心に決めた。三日坊主にはしないぞ。
タイム、といって途中にあったベンチに座って水を飲んだ。叶多は座らずに脇でストレッチをしている。なんてタフなんだろうか。
ここは明美山。標高600メートルある登山に人気の山であり、アトリエからも電車で二時間程で着く場所にある。山の中腹に神社があり最近は参拝や御朱印目当ての登山客も多くいる。紅葉の季節は紅葉が綺麗に咲くため人通りも多い。今日は平日で新緑の季節のため登山客も疎らだった。
ふと視界に立ち入り禁止区域の内側で自撮りをしている女性を見かける。看板より少し進んだ場所のほうが景色がいいのは確かだが、何とも言えず絵見は肩を竦めた。最近はマナーのなっていない者も度々見かけるため少し残念な気持ちになった。
「そういえば絵見は今日もスマホ、持ってないの?」
「必要ないでしょ?」
絵見はスマホやケータイなどの通信機器があまり好きではなかった。なんだか縛られている気がして。業者等とのやり取りは基本叶多がしてくれるし、叶多はいつもアトリエに来てくれるから持ち歩いていないのだ。一応スマホはあるものの忘れてきたというのが正しい。
映えというのが流行りというのは絵見も近所の女子高生から聞いていた。あの女性も映えを目当てにやっているのだろう。
「なら迷子にならないようにね。さぁ休憩はおしまい!行こう!」
叶多がぱん!っと手を叩いて、絵見の腕を引っ張り立ち上がらせる。まだまだ休んでいたかったのに、と愚痴を漏らす前にずんずん登り始めてしまった。
しかし絵見が道中スケッチをし始めると律儀に止まって待っていてくれるので、できる男だな…と思っていた。絵見はスケッチブックに鉛筆で描いていく。この場所からの景色が絵見は好きだった。木の隙間から見える空と山の風景。
「そういえばいつもこんな風景描いているよね。飽きない?」
「モネだって同じ風景を何枚も描いているのよ」
なるほど、と叶多は肩を竦めた。
事実、同じ風景なんて存在しない。季節、時間そのときの気候、すべてがぴったり同じ瞬間なんて存在しないのだ。木々は成長しているし、地球だって自転している。描き手の心理状況だって毎日同じではない。楽しいときもあれば何かに押しつぶされそうなときもある。
だから毎回同じものなんて描けはしないのだ。
鉛筆を止めてスケッチブックを閉じてリュックにしまった。なかなかよく描けたと思う。するとぐぅとお腹が鳴る。気を緩めるとだんだん空腹が気になってきた。
「頂上に食事処があるらしいし、そこにする?」
「うん」
頂上までやっとの思いで辿り着き席に着くと、足が棒のようにぴくりとも動かなくなった。蕎麦を注文してお茶をゆっくり流し込む。
外を眺めると写真撮影をしていたりインタビューを受けていたりしている人たちが目に映る。雲一つない空は晴れやかで気持ちがよかった。ぼうっとしながらときどき足を揉んでいるとだんだん疲労も和らいでくる。そうこうしているうちに蕎麦が来た。
山頂で味わう蕎麦というのも乙なものである。音をたてて蕎麦をすするとそれまでの労苦も悪いものではなかったな、と思えてくる。何より空気が美味しいのだ。ぼんやり眺めながら蕎麦を食べているとインスピレーションが湧いてくる。
「そういえば、この間の犯人捕まったらしいよ」
「この間?」
「佐藤七美ちゃん」
「ああ…」
デパートのショーで行方不明者になった少女の亡くなったきっかけを描いた件だ。そうか、ようやく捕まったのか。
ショーの関係者であり、くまの着ぐるみを着て七美を誘き寄せて、首を絞めて殺した。その後、犯人はいつも仕事に持ってきている大きなリュックに七美を押し込めて帰宅し死体を凌辱したらしい。犯人は何回か同様の犯行を行っていたらしく、気が済むと遺体を人通りの少ない山間部に埋めて新しい少女を探していたそう。
佐藤一家もこれで心を落ち着けることができるだろう。
「よかった」
「そうだね」
気持ちが上がると甘いものも食べたくなってきた。絵見は追加であんみつを、叶多はくずきりを頼んだ。
来月には画展が控えている。そこに七美と共に描いた絵も展示できるだろう。佐藤一家が来てくれるといいのだが。実は画展に向けて新作を描きたいと思い山に登ったのだ。無論、気分転換も理由だった。
自分が誰かの助けになったことを実感し、そして自然に触れているとだんだん描きたいものが固まってきた。気分転換が良いほうに作用したようだ。やはり今日山にきてよかったと思った。あんみつも美味しいし。
「食べ終わったら下山しようか」
「そうだね」
店を出て、石でできた柱が目に飛び込んできた。登山客がその柱の前で記念撮影をしている。そういえば叶多とここに来るのは初めてかもしれない、と思った。
「写真撮る?」
「どうしたの、急に」
「撮りたいかと思って」
絵見はカメラもスマホも持っていないし写真を撮る趣味はないが、叶多は人並みに撮るだろう。だから聞いたのに、珍動物でも見たような顔が腑に落ちない。
じゃあ、いいと踵を返すと慌てて腕を掴んできて柱の前まで引きずられる。柱には山の名前が刻まれていた。叶多は絵見の肩を引き寄せてスマホを傾けた。ポーズとって、と耳元で囁かれてぞわぞわした。その違和感を薙ぎ払うようにさっとピースを作る。
シャッター音が鳴ってスマホをまじまじ見ると、死んだ魚の目のような絵見の顔とこの世のあらゆる美しいものを詰め込みましたと言わんばかりの輝かしい笑顔の叶多がいた。この差はなんなのだ、と眉間に皺を寄せる。叶多は逆に口角をあげて鼻歌を漏らしつつ写真を保存していた。写真うつりがいいやつはそれは楽しかろう。
ため息をついて叶多の腕をひき下山する。叶多は相変わらず絵見は写真うつりが悪いだの、口角をあげるだけでいいのにだのぺらぺらと口を開けっ放しにしていた。どれだけ体力が残っているやら。文句を言われるこちらの身にもなってほしい。
「また思い出が増えたね」
たった一枚写真を撮っただけなのに、それがとても素晴らしいことのように叶多は目を細めた。絵見はむず痒くて口を曲げてしまう。
叶多はいつも絵見が忘れてしまったことを覚えており、それらを大切にしてくれている。写真もその一つだった。祖父から言われたのか、叶多の考えなのかはわからない。だがそれを見ていると心が温かくくすぐったくなるのだ。
手を離そうとしたら、叶多が強く握り返してきたため手を繋いで下山した。小さい頃、二人でこのように手を繋いでアトリエに帰ったことをふと思い出す。それはすごく楽しかったような気がした。
絵見は画展のために一枚の絵を描いた。印象派のような風景画。先日登った明美山の景色。黄色や緑、水色と様々な色を使い描かれた山。嬉しくてわくわくして、触れたくなる心の高揚がそこにはあったのだ。
絵見はぼうっとキャンパスを眺めてから瞼を閉じる。そこは今空っぽだった。だがキャンパスには確かに絵見の感情が載っていたのだ。