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 今日も私は絵を描く

 真っ白なキャンパスに色をのせる

 赤黄緑青紫

 筆で世界を色づける

 それが私の感情表現だから

 今日も私は絵を描く





 いつも通りの朝がきた。女性は日差しを浴びてむず痒そうに目を擦りながら体を起こし着替えを始めた。絵の具で汚れたエプロンを身に着けて、水を一杯くいっと傾けてキャンパスに向き合う。昨日描き途中だったキャンパスに色を置いた。

 彼女の名前は永世絵見。二十六歳の画家である。同じく画家だった祖父が使っていたアトリエを譲り受け、大学卒業後は絵を描いて生活していた。絵で食っていけるのかと疑問に思うだろう。それが可能なのである。なんと絵見にはパトロンがいるのだ。

「絵見、おはよう。朝食は食べた?」

 無遠慮にノックもなしに部屋へ入ってきた男の名は御手洗叶多。絵見のパトロンだ。御手洗財閥の三男坊であり、このアトリエの管理者のようなもの。彼の祖父が絵見の祖父のパトロンだったこともあり、幼い頃から付き合いがあった。叶多は絵見の祖父の絵がとても好きで度々アトリエに来ており、そこでよく会って遊んでいたのだ。絵見の祖父が亡くなった後もアトリエを壊さずに取っておき、絵見が大学卒業を迎えた日に自分お抱えの絵師にならないか、と問うた。彼は絵見の絵も同様に好きだったのだ。

 絵見にとってもありがたい話だったため一も二も無く了承した。今のご時世、絵だけで食べていくことなど不可能に近い。ありがたいことだ。

 御手洗財閥は一番上の兄が引き継ぐため、三男坊の叶多は自由気ままに生活していた。必要があれば役員として会議にはでるものの、絵見には彼が仕事らしいことをしているところが想像できなかった。株や投資もしているらしいが、その辺の話はさっぱりわからないためあまり覚えていない。

 叶多は勝手知ったる家のように手頃なテーブルにラップがかかった皿を乗せて絵見を覗き込む。絵見は生返事をするのみで、視線は変わらずキャンパスに釘付けだ。

「これは食べてないな〜」

 やれやれと肩を竦めた叶多は先程テーブルに置いた皿を持ってきて、乗っていたサンドイッチを無造作に掴み、絵見の口へと押し付ける。集中すると食事を忘れる絵見のために、こうして食べ物を口に突っ込んでくれるのだ。口に入れられればもぐもぐと咀嚼するため、叶多は毎回やや強引に食べ物を口に突っ込む。まるで餌付けのよう。一度集中しすぎて一日何も食べなかったことがあったため文句は言えない。

 大財閥の息子なのに人の世話を焼くなんて、面白いと思わないか。彼は上の兄たちと比べると本当にのびのびと育てられたため、様々なことを自分でやる機会が多く設けられた。料理や掃除もその一つだ。本来大財閥の息子なのだから、そのような雑事は使用人にやらせればいい。だが叶多はいつかこんな窮屈な生活からは脱してやる、と考えて行動していた。料理もやりたい、掃除もやりたいと率先してチャレンジしていた。今や自分がどれだけ恵まれた環境にいるかを理解してその器に収まってはいるが、彼が培った大財閥の息子らしからぬスキルは反抗期のおかげといえるだろう。

「依頼があるんだけど、今日会う?」

 柔らかなハンカチで絵見の口元を拭きながら問いかける。赤ちゃんのようにおんぶにだっこだな、と思いながら答える。

「一区切りつけてからがいいから、午後ならいいよ」

「十三時でどう?」

 ん、と首肯して意識を完全にキャンパスへ向けた。




 十二時頃に絵を完成させ後片付けをしていると、叶多が様子を見計らったかのように昼食を持ってきた。勝手にテーブルの準備をして、絵見の肩を押しながら着席を促す。午後の準備をしたかったのに、と思いつつも従順に席についた。

 朝はサンドイッチと軽く済ませたためか、昼食はカレーにサラダが用意されていた。いただきます、と手を合わせてスプーンを持つ。口に含むと少しの辛味が舌を刺激する。いつもと変わらず美味しかった。

 叶多は料理に少しだけ拘っておりカレーは数種類のスパイスを使って調理していた。彼はカレーが好きらしく、度々食事にカレーが出ていた。祖父が気まぐれに作ったカレーが好きだったと言っていたが、絵見はレトルトか市販のルーに違いないと思っていた。今日作ったカレーを口に含んだ叶多は、眉間に皺を寄せている。この味ではなかったらしい。美味しいからいいじゃないか、と思った。

「ところでこの後会う人って誰?」

 視線はカレーから逸らさずに問いかける。

「阿部さんちのお母さんのママ友の佐藤さん。阿部さんから勧められたんだって」

「阿部さんかぁ。なら断れないね」

 阿部さんはご近所さんで、散歩やゴミ出しの際に度々道端で出くわしては世間話をしたり料理のお裾分けをいただいたりする仲だった。この間も手作りケーキをもらった。叶多に内緒で全部食べてしまったことは言わないように気をつけなければ。そのようなわけで親しい間柄なのだ。そのママ友なのだからもちろん断ることはできない。

 ごちそうさま、と手を合わせて流しに食器を置く。叶多も食事を終えて、自分と絵見の分の食器を洗い始めた。

 後でやるのに…と思いつつ、絵見は午後の仕事の準備を始めた。後でやるといってなかなかやらない絵見に対して、叶多は綺麗好きですぐ片付けるタイプだった。相性はいいのかもしれない。

 今日は何を使うかな…

 絵見はその時々によって使う画材も画法も変える。詰め込む感情を一番的確に表現するために。そのためいくつか画材を広げて、木枠を用意して違う種類の布をつけたり紙を水張りした。これですぐに絵を描くことができるだろう。

 ふぅと息をつくとノックの音が響いた。

「絵見、もういい?」

「どうぞ」

 扉が開くと叶多の後ろから夫婦と小学校高学年ぐらいの男の子と小学校低学年ぐらいの女の子が入ってきた。四人とも緊張した面持ちだ。今回の依頼者はこの家族である。

 椅子は生憎二脚しかなかったため、絵見と母親が座った。座ってから叶多が間に入って説明を始める。金持ちの息子なのに本当によくやるな、と感心する。

 母親の佐藤吉美、父親の佐藤剣太、息子の佐藤陸、と叶多が順々に事前にもらったメールを見ながら紹介する。一家が絵見に依頼をしにきた理由を、母親と父親二人で時折嗚咽を漏らしながら話し始めた。

 事件は一ヶ月前まで遡る。一家は娘の七美を含めた四人でデパートに来ていた。一家はデパートで催される小ぢんまりとしたショーが目当てだった。テレビでやっている子どもたちに人気のキャラを使っていたらしい。そのショーが終わってから握手会や写真撮影があり、子供たちがせがんだこともあってその列に並んだ。列に並んでいる際、少し目を離した隙に七美がどこかへいってしまったのである。いなくなったことに気づき、その日は一日中デパート内を探した。もちろんインフォメーションにいって迷子の案内も流してもらったし、職員の方も一緒に探してくれた。それでも見つからなかったため警察に行方不明者届を出したが一ヶ月経った今も音沙汰がない。

「それで、阿部さんがこちらを紹介してくれたんです…!一縷の望みをかけて、来ました」

 涙でくしゃくしゃになったハンカチを握りしめて吉美は言った。剣太は妻の背中を撫でながら強く頷いた。陸はずっと俯いて唇を噛み締めている。

 絵見は女の子に目をやった。女の子はずっと両親を見つめていた。

「娘さんの七美ちゃんは当日赤いスカートを履いていましたか?」

「ええ!何故知っているんですか!?」

 絵見は女の子をすっと指差して言った。

「あなた達の傍に七美ちゃんがいます」

 吉美ははっとして絵見が指さした方を見た。だが彼女たちには見えないのだ。何故なら…

「七美ちゃんはもう亡くなっています。ご愁傷さまです」

 一家は絵見が指さした空間に触れようと手を彷徨わせてやがて諦めたようにぎゅっと握りしめて涙を溢した。肩の震えから一家はまだ七美が生きていると信じていたことが伺える。

 絵見には昔から霊が見えた。霊感があったのだ。ただ見えるだけで話はできないため、はいかいいえの質問しかできないが。だから七美が見えた。

そうしてもう一つ、彼女にしかできないことがある。

「あなたたちにできることは二択です」

 絵見は一家に向けて人差し指を立てた。その指に一家の視線が吸い寄せられる。

「一つ、このまま七美ちゃんの死を受け入れて帰る。もう一つは犯人の手がかりを手に入れて帰る、です」

「そんなこと、できるんですか?」

 剣太が声を震わせて問いかける。こくり、と絵見は頷いた。

「私は人の感情をキャンパスに閉じ込めることができるんです」

 絵見は不敵な笑みを浮かべた。

 絵見は祖父と同じく絵に自身の感情を載せることができた。それは素敵な風景を見て感動した情動だったり果てしなく湧き上がる怒りだったり、なんでもいい。ただそれを絵として完成させると心の中にあったその感情がごっそりと消えてなくなるのだ。

 さらに絵見には霊感があったため、霊が抱える感情も触れることで体感でき、憑依に近いことをすることでその霊が抱える感情を直接キャンパスに描けた。これこそ彼女が佐藤一家にできる唯一のこと。七美が亡くなったときに関わる情報を描き起こすことができるかもしれない。

 お願いします、と佐藤夫婦は声を揃えて言う。陸は未だ俯いたまま何も話さなかった。絵見は七美の視線に合わせて話しかける。

「佐藤さんたちの意見はわかりました。でも一番重要なのは本人の意志。どう?七美ちゃん。やる?」

 七美はもじもじとして目を泳がせている。夫婦は絵見が見つめる虚空を心配そうに見つめた。

「これをしたら、あなたを殺した犯人が見つかるかもしれない。その代わり、あなたはそのときの辛い気持ちを思い出して、そうして忘れるの。それでもやる?」

 自分にとって辛い記憶を思い出すことは苦痛でしかない。トラウマレベルのことだってあり得る。それを一瞬でも思い出せと言っているのだ。だから絵見は慎重に七美の表情を観察した。

 吉美がそこにいるだろう七美に言葉を投げかける。

「辛いならいいの。でも叶うならあなたの体を弔いたいのよ」

 場はシーンと静まり返る。まだ七美は決断できずにいた。やがて静寂を破る者が現れる。

「おれが…俺がいけないんだ…」

 陸だ。彼の目から大粒の雫が次々にこぼれ落ちてズボンを濡らした。

「七美がどっか行ったのに、気づいたのに…言わなかったんだ。…いつも、お母さんとお父さんの関心は七美だからって…俺…」

 最後は泣き声に掻き消されて聞き取れなかった。吉美は横から、剣太は後ろから陸を抱きしめる。

 そんな三人の姿をじっくりと視界に収めて、三回瞬きをしてから七美は絵見の腕に手を添えてしっかりと見つめ返した。小学校低学年とは思えないほど強い眼差しで、覚悟を決めた顔だった。

「そう。やろう」

 絵見は柔和な笑みを浮かべてその意思を讃える。一家がはっと息を呑み、身を乗り出そうとしたとき、叶多がでは!と間に一枚の紙を置いた。

「一応依頼ですので、注意事項を読んでいただきサインをお願いします」

 剣太が恐る恐る紙を手に取り一家で取り囲んでまじまじと見る。


一、依頼において金銭のやり取りはしない。

一、完成した絵の著作権は甲にあり、絵を如何様にする権利も甲にある。

一、甲に不利益をもたらす流言飛語はしない。


「…ほんとに謝礼等は受け取らない、ということですか?」

「ええ。私にとっては私が仕上げた絵にこそ価値がありますから」

 吉美の問いに絵見は眉をくいっとあげて答える。

 絵見の絵は人気があり、収集家の間では高値で取引されることもある。故に依頼者と金銭のやり取りはしないのだ。もしこのとき金銭を受け取った場合、その絵は霊の記憶を見て描いていることから所有に関してトラブルになる可能性が高い。不要なトラブルを避けるためにこのように依頼料はもらわないことにしたのだ。

 一家を代表して剣太が著名し、叶多が確認してからファイリングする。準備が整ったことを確認して絵見は七美に手を差し出した。

「おいで。思い出して、あなたが最後に見た光景を」

 逡巡したあと、七美は差し出された手に己の手を重ねた。七美は重ねた手から絵見の中へ入っていった。彼女の内側に入る様は水が上から下へ流れるように自然だった。

 両目を閉じていた絵見がゆっくり瞼をあげると、一枚のキャンパスの前まで来た。椅子を近づけてパレットに絵の具を出し、水と筆を用意する。今日はアクリル絵の具を使うらしい。

 まずモデリングペーストで立体感を出す。流れるように筆を動かすその姿に迷いはなかった。描くものがすでに頭の中にあり、それを絵見の体が覚えている筆運びで写し出すだけ。感覚とテクニックは全て絵見の中にある。一心不乱に筆を動かす絵見は何かに取り憑かれたと他者から見ても明白だった。比喩でもなんでもないのだが。

「七美が、入ってるんですか…?」

 伸ばされた吉美の手を、間に入ることで叶多が制す。

「終わるまで触れないでください」

 悲壮感に濡れた顔を浮かべる一家に叶多は首を振りながら答える。陸は剣太の腕の中で何度も妹の名前を呼んだ。

「今外から刺激を加えると何が起こるかわからない。危険なんです」

「でも、そこにいるんでしょう!?」

「…娘さんはもう亡くなっている!」

 叶多の突き放すような強い言葉に心が打ち砕かれて、吉美は支えを失ったようにぺしゃりと尻もちをついた。さらりと絵見から告げられた七美の死という事実が、じわじわと自分たちの中へ浸透していき変えられない現実へと変化していく。

 絵見の体は彼女自身のものであり、七美ではないのだ。

 絵見は背後のざわつきも一切気にせずに描き続けている。下地を塗った上に色を重ねて油絵の具のような塗り方をしている。だが油絵の具と異なるメリットは乾燥が速いことだった。七美の早く家族を安心させたい、犯人を捕まえる手助けをしたいという気持ちのためにもスピードは重要だった。

 時々聞こえるしゃくるような音はBGMだ。少しの高揚感の後に起こった恐怖と悲劇を感じさせるのにぴったり。絵の具が乾燥する少しの間、絵見は瞼をおろした。蓋をした隙間から一筋の水が流れる。これは恐らく七美のもの。皆の涙が伝染したのだ。

 涙が乾いたとき、キャンパスも同様に乾いていた。絵見は作業を再開する。

「いつ頃終わるんですか?」

「アクリル絵の具だから恐らく一日か二日ですね。どうしますか?一旦帰られますか?」

 下手をすると一週間、一ヶ月かかったときもあった。それらは油絵の具を使ったときがほとんどで、アクリル絵の具を使ったときは不眠不休で作業をし、仮眠をとったとしてもそこまで日数はかからない。佐藤一家は運がいいのかもしれないと叶多は思った。

「俺見ていたいです!」

「陸…!」

 真っ先に陸が手をあげたのを、後ろから剣太が窘めた。幼いのになかなか意気込みがある。

 叶多が眠くなったら簡易ベットを用意する旨を伝えると両親はほっと息をついた。さすがに小学生がずっと起きているのはよくない。だが眠くなったら眠れる場所を用意すれば問題はないだろう。

 結局全員が絵の完成を待つことになった。

 夕方になっても絵は完成しなかったため、皿にご飯と昼の残りのカレー、カツを乗せて絵見以外は食事をした。絵見には叶多がおにぎりを作り、朝食と同様に口元に運んで食べさせた。

 夜が更けても手が止まる気配がしなかったためそれぞれ叶多が用意したブランケットに身を包んで見ていた。陸は睡魔に勝てず早々に簡易ベットに入ったが仕方あるまい。保ったほうだろう。

「不思議ですね」

「何がですか?」

「犯人が知りたいのに、絵が描かれている過程を見続けていたら本当は知らないほうがよかったんじゃないかって、思い始めたんです」

 七美に辛い思いをさせてまで知る必要があったのだろうか、と。これは自分たちの我儘なんじゃないか、と。

 叶多はキャンパスに視線を向けた。もう半分以上出来上がっただろう絵は、恐怖に飲み込まれそうな雰囲気があった。一歩入ったら抜け出せない底なし沼のような、それでいて一歩踏み出すことを強要しているような印象。

「でもこれはあなたたちが望んで、七美ちゃんが選んだことです。目を背けてはいけない」

 吉美と剣太は震える声ではい、と答えた。もう後戻りはできない。

 絵見が乾燥待ちも兼ねて一旦仮眠を始めたため、他の者たちも瞼を閉じた。椅子に座って寝ていたため頭は船を漕いでおり不安定だ。疲れが溜まっていたのだろう。その場にいた者はすぐに夢の中へと落ちていった。




 ぴちゃっと水の音がして吉美の意識が浮上する。いつの間にかぐっすりと眠っていた。目を擦りながら辺りを見回すと朝日が窓から入っているのが確認できる。

 そうして絵に視線を向けると一対の目とかち合う。絵見が吉美たちを見て微笑んでいた。彼女は既にパレットをテーブルに置いてただ座っている。朝日に照らされて、逆光の中微笑む姿はまるで何かからのお告げの瞬間のように神秘的だった。

「終わりました」

 絵が完成したのだ。はっとして吉美は剣太と陸の肩を揺らして起こし、一家は出来上がった絵を見た。

 ぱっと見はただのくまのぬいぐるみのよう。ただそれがぬいぐるみではなく着ぐるみだと気付いたのは、くまがこちらへ手を伸ばしているからだった。手を繋ぐかどうか、こちらに判断を委ねているように見せかけて有無をいわせない圧力も感じる。くまは可愛らしい面でもってこちらを油断させている。だがこの後起こることを知っている一家は何故背景とくま自体から悪寒がするほどの恐怖を感じるか、理解していた。このくまの着ぐるみを着た人物こそが七美を連れ去った犯人なのだ。

「この着ぐるみ見覚えがある!」

「警察に相談してみます」

 陸が手をあげて答えた。剣太も見覚えがあるらしく、力強く頷いた。

「僕の友人に警官がいるんです。ちょっと相談してみましょう」

 スマホを片手に部屋を出ていく叶多の後を剣太と吉美がついていく。

 陸だけは両親を見たり絵見を見たりしてついていくか悩んでから、とととっと絵見に近づいて袖をくいっと引っ張った。

「七美はもういない?」

「あなたの傍にいるよ」

 事実、七美は陸の右隣りにいた。絵を描き終わったため既に絵見の中にはいない。

「俺のこと、恨んでない?怒ってない?」

「恨んでないよ、怒ってないよ」

 絵見が七美から受け取った感情は被害者に命を奪われた瞬間の恐怖と痛みだけだった。家族に対しての怒りは少しもない。ただ…

「でも少し心配してたよ」

 皆が泣いているから。

 家族が悲しんでいるのは悲しい。七美は優しい子だ。触れられないのに、拭えないのに、零れ落ちる家族の涙を拭おうと手を伸ばしていた。

「だから笑ってあげて。元気だよって。大丈夫だよって」

 陸はまた零れそうな涙をぐっと押し込んで、満面の笑みを浮かべて辺りを見回した。ちゃんと七美に見えるように。

 七美もつられたように笑顔になってやがて絵見にも見えなくなった。陸の背中をぽんっと押すと、彼は両親の元へ駆けていった。彼は自分の罪を受け入れて、前を向いて生きていける。

 これ以上絵見にできることはない。この後は警察の仕事だ。絵見は水やパレットの後片付けをし始めた。

「本当にありがとうございました」

 警察への取り次ぎが終わり、再び一家は作業部屋へ入ってきて頭を深々と下げた。顔を上げてください、というと少しの間のあとゆっくりと面を上げる。

「この絵はどうなるんですか?」

 吉美は犯人の手がかりとなる、くまの着ぐるみの絵へ視線を向けた。

「展示会に展示をしたあと、買い手がつくかもしれません。もしくはオークションに出すか、どうなるかはまだわかりませんが人の手に渡るでしょう」

 収集家の中にはこのような不吉な絵を好んで集めている者もいた。過去に依頼を受けて描いた絵も同様に愛好家たちの手に渡っている。この絵も同じ道を辿るだろう。

「そうですか。そのときは展示会、行きます。どう自分たちの環境や心境が変わっているかわかりませんが、きっとまた見たほうがいいですから」

 細めた目で絵を見る吉美の横顔は少しだけすっきりしていた。絵見も目尻を和らげて言う。

「待ってます」




「絵見〜!ってあれ?今回は人がいるんだ?」

 無遠慮に部屋へずかずかと侵入してきた叶多は、これまた無遠慮に絵見のキャンパスを覗き込んだ。

 今は油絵の具を使って色を重ねている。佐藤一家の絵を描きあげてから新しい絵を描き始めていた。昨日まではただの風景画だったものに四人の人影が加えられている。

「うん。きれいだなって思ったから」

「…いつも言うけど、深く関わらないほうがいいこともあるよ」

 わかってる、と頭をふった。七美が自身から抜けていくとき、彼女が大好きだった、印象に残っていた光景を見たのだ。これは不可抗力である。

 その風景がどうしても頭から離れなくてこうして絵に落とし込んで昇華しているのだ。

「たまには登山に行こっかな」

 前回は海を見に行ったから、今回は山にしよう。絵見はときどき刺激を求めて外出をする。外に出るとリフレッシュにもなるし、絵を描くためのパッションにも繋がる。

「いいね、いつ行く?」

 ぼそりと溢した言葉を拾い上げて、叶多はスマホを使って計画を立て始めた。フットワークが軽いところも彼のいいところだろう。

 目の前の絵もこれで完成だ。タイトルはどうしようか。『綺』としておこう。

 夕焼け空をバックに桜を眺める四人の家族。移ろいゆく空は別れと哀情を誘う。伸びる影はもう交わることはない。平凡な一枚は誰かにとっての大切な一枚でもあるのだ。




 私の名前は永世絵見。画家である。そして私には普通の人とは違うことができる。感情を絵に込めること、霊が見えること、その霊が感じたことを描けること。今日もそうやって誰かの大切だった、もしくは重要な一場面を描いている。

 私は今日も真っ白なキャンパスを色づける。

 それが私の感情表現だから。


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