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好きだったあの人から

看護婦に呼ばれ、急いで優笑さんの病室へと向かった。


誕生日会を行った病室とはまた別の場所だ。

容態が悪化したせいで、別の部屋に移動させられてしまった。

 

病室が変わってから、優笑さんが僕の部屋に訪れることは無くなった。


今の彼女は立つことは疎か、一人では食事を摂ることもできない。

うっすらと目を開けた状態で一日中ベッドに横たわっている。

かろうじて会話を交わすことはできたが、はっきりと言葉を発することは難しくなっていた。

身体の右半分の機能を失ったせいで、聞き取ることや話すことが難しくなったのだ。

 

ベッドの横に用意された丸椅子に腰を下ろして優笑さんを見る。


顔や手足は痩せており、肌の色も白くなっている。

僕が椅子に座ったことに気がついたのは、優笑さんの肩を叩いてからだった。

 

優笑さんがゆっくりと口を動かして言葉を放った。


何を言っているのか、瞬時に理解することはできない。

口の動きを必死に観察して言葉を読み取る。


来てくれてありがとうね、と言ったようだ。


「大丈夫ですか?」

 

視線を合わせて訊いても、優笑さんは何も言わずに笑っているだけだ。


昨日よりも聴覚や認識力が衰えている。


僕の質問を理解できたかすらもわからない。

 

ベッドに横たわる優笑さんを見ていることができない。


あの声も、笑顔も、元気も失われている。


僕の手を引いて病院を歩き回っていたあの頃とはまったく別人のように思えた。

 

眉間に皺を寄せて頬に力を込め、涙をグッと堪える。


自分が原因で誰かが泣くことを優笑さんは望んでいないはずだ。

頭では理解できているはずなのに、視界はどんどん歪んでいった。


「そんな顔、しないで」

 

優笑さんが布団の中から左腕を伸ばして僕の膝に手を乗せた。


「あれ」

 

優笑さんがポツリと呟きながら窓際に置かれた机に視線を向けた。


そこには僕が捨てたグローブがあった。


キャッチボールをする時、優笑さんはいつもあのグローブを使っていた。


「あれですか?」

 

指を差して問うと、優笑さんは大きな瞳を上下させた。

 

咄嗟に立ち上がって窓際へ向かった。


グローブを手に取り、丸椅子に腰を下ろす。


ベッドの上に置くと、優笑さんは満足げな表情を浮かべた。


「プレゼント。もう少しで、誕生日でしょ?」

 

壁に視線を移して優笑さんが言う。


そこにはカレンダーが貼られていた。

一日ごとに斜線が引かれており、八月十八日には『あと一ヶ月! 頑張って生きる!』とメモがされている。


「誕生日、九月ですよ」

 

僕の誕生日まであと一ヶ月以上もある。


あまりにも早すぎる誕生日プレゼントだ。


「知ってる。私、誕生日覚えるの得意だから」


「そうですよね」

 

グローブを膝に置いて視線を合わせると、優笑さんは達成感に満ちた表情を僕に見せた。


「音楽、聴きたい」


「はい」

 

枕元に置かれた携帯端末とイヤホンを手に取って音楽アプリを起動する。

アーティストを検索して曲のトラックを開き、イヤホンを僕と優笑さんの耳に片方ずつさした。

 

男性の声とともに右耳にピアノの音が流れ込んだ。


影響されて何度も聞いた曲だ。

 

このアーティストの声を聴くたびに優笑さんと過ごした日々が思い出される。

 

退院したら二人でカラオケに行こうと約束した。


九月に発売する予定の新曲を優笑さんは楽しみにしていた。


いつかこのアーティストのライブに行くのが夢だと、歌を聞くたびに語っていた。

 

果たせていない約束の数々が次々に頭に浮かび上がる。

いつか病気が治ると信じていたから、たくさんの約束を交わしていた。

 

僕の誕生日会だけではない。


優笑さんの弟を含めてキャッチボールをする予定だった。


来年の夏休みは三人で花火をするつもりだった。


僕が中学生になったら、勉強を教えてくれるとも言っていた。


「優笑さん」

 

音楽が流れている彼女の耳に僕の声は届かない。


曲は終盤に向かっている。

優笑さんはこの後に入るギターの音が特に気に入っていた。


「僕ことを勇気づけてくれてありがとうございました」

 

骨張った優笑さんの手を握って呟く。


冷や汗で濡れた彼女の手のひらは少しだけ冷たい。

目を閉じて曲に没入している今なら、緊張せずに言えるような気がした。


「ずっとずっと、好きです」

 

メッセージが添えられたグローブに視線を落として思いを告げると、優笑さんはうっすらと笑みを浮かべた。


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