パスワードは行ってきます
武岡義人35歳。妻、春果33歳。娘、杏子8歳。都心から電車で1時間圏内のベッドタウンでマンション暮らしをしている。
このマンションは結婚を機に40年ローンを組んで買った。あの頃はまだ妻の事を『春果さん』と呼び、彼女も僕の事は『義人さん』と呼んで仲睦まじい夫婦だったと思う。
「義人さん! 忘れ物」
玄関で靴を履こうとしていた僕の所へ、スーツを着込んだ彼女がやって来る。僕達は共働きなので、家を出るのも一緒なのだ。
「何? 鞄も財布も携帯も持ってるよ」
僕は驚いて身の回りのものを確認するが、必要な物は全て持っている。
「はい、忘れ物」
そう言って、彼女は背伸びをした。
「春果さん」
「ふふっ、夢だって言ったでしょ」
嬉しいが恥ずかしい。確かに、まだ恋人だった頃に行ってきますのキスが出来る夫婦が夢であると語った事もあった。
「「行ってきます」」
ただ、一緒に家を出るので夢は夢に終わると思っていたのだ。まさかの展開に、彼女と結婚出来た事の幸せを噛み締める。
その時はそんな毎日が永遠に続くかに思われた。
しかし、杏子が生まれてからは、生活が一変してしまう。特に生後数ヶ月は大変で、二人とも寝不足の日々が続いていた。僕の出社時間に彼女が寝ている事も多く、いつの間にかお見送りは途絶えてしまう。
更に、丁度良い保育園が見付からなかった。駅までの間で寄れる所は、入園の受け入れが6ヶ月の幼児からとなっている。産休期間が終わっても職場復帰の目途が立たず、結局彼女は退職を選ぶ事となった。
杏子が生まれてからは、互いを『パパ』『ママ』と呼ぶようになる。子供中心の生活の中で、夫婦はいつしか父母となって行く。もう、昔のように異性を感じる事も無くなったが、それが家族というものだろうと無理矢理納得させていた。
そんな杏子も小学校2年生になり、大分手が掛からなくなってくる。そうなって来ると、春果が社会復帰をしたいと思うのも当然の事だと思う。いきなりフルタイムは大変だろうと、話し合いの結果パートとして職場を近所で探す事に決まった。タイミングよく前職の経験を活かせる仕事が見付かる。しかも、評価によっては社員登用も有るという。
玄関にスーツ姿の二人が揃うのも久しぶりだ。
「「いってきます」」
声が揃った瞬間、何かかが動き出す。まるでスリープ状態のパソコンにパスワードを打ち込んだ時のように。
触れ合う唇に、はにかむ彼女。これからも頑張れると確信した日である。