6:束の間の日常
イリスの意識が浮上する。
カーテンの隙間から漏れる朝日が、ベッドに寝転ぶイリスの目の位置に丁度当たっていた。眩しさに目を細めながら起き上がり、ベッドの脇に腰掛けてほうと息を吐き出しす。
あれは夢、だったのだろうか。あの世界もあの声もこんなにもはっきりと覚えているのに、今イリスがいる場所は寝る前と変わらぬ古びたベッドの上だった。
薄い上衣の首元を引っ張って胸元を覗くと、胸元には昨夜よりも少し色濃くなった紋様がある。朝目が覚めたらこの紋様が消えていれば良いのにと思っていたのに、現実はそう甘くはない。
「ソーン……か」
目が覚める前、あの真っ黒な世界で見えた小さな小さな黒い蛇がソーンなのかもしれない。確かに蛇の姿なのであればあまり気分のいいものではないと言ったソーンの言葉もわからなくはない。しかしやはりイリスにとっては別に気分が悪いといったこともなく、寧ろあの小さな小さな黒い蛇のことを可愛いとさえ思った。
直前までソーンと話していたからかもしれない。あんなに可愛らしく話すのであれば見た目が黒い蛇でも白いウサギでも大きなドラゴンでも、イリスにとって可愛いということには変わりないのだ。
しかしこの国では一般的に黒という色は『死』など不吉を意味することが多い。死や絶望、孤独や恐怖といったネガティブな印象があるため、この国では黒髪や黒目も忌避されている。ソーンがもしあの黒い蛇だったとして、確かにイリスの胸元の死の呪いと関係があると言われても違和感はない。寧ろ納得さえする。
イリスはベッドから立ち上がって手近なカーテンを開けた。古びた窓枠とは違いピカピカに磨かれた窓には曇りも埃も一切ない。僅かに反射して見えた自分の姿に、イリスは僅かに瞠目した。
「そう……この周りの縄のような模様は蛇なのかもしれないわね」
中の紋様をぐるりと囲むように描かれた縄のような模様は確かに蛇のように見えた。蛇が自身の尾を咥えているように見えなくもない。もしこれが本当に蛇だとしたら、ソーンはやはりこの死の呪いと関係していることになる。
寝ている間に起きたことを一刻も早く従者であるリムに話したくて、間仕切りの向こうに呼びかけたが返事はない。恐る恐る覗いてみるとそこは既にもぬけの殻でイリスは慌ててベッドの脇に掛けていた外套を手に、部屋の扉を開けた。
「おはようございます、イリス様」
「おはよう、リム」
部屋を開けた先にいたのはリムだけであった。話を聞けばどうやらダーゴンは外に薪割りに、護衛は周囲の警戒と共に馬の世話をしているようだ。彼は狭いキッチンで何やら作業をした後、ティーカップとソーサーのセットをテーブルの上に置いた。ソーサーの上にはティースプーンが置かれている。リムはティーカップに少し濃いめに抽出した紅茶を注ぎ、その横にミルクポットを置いて一礼した。
「ふふ、いい香りね。これは屋敷から?」
「はい。外泊も念頭に入れてとの事だったので幾つか茶葉を持参いたしました。ダーゴン様よりミルクと蜂蜜を頂きましたので、ブレックファーストティーをお淹れしました」
まさかリムが茶葉やティーセットを持参していたとは知らず驚いていると、彼はくすくすと笑いながら、ティーセットやミルクポットもダーゴンから借りたのだと言った。この家にも昔客人が来ていたとのことで、その時に揃えた物が残っていただけなのだと言っていたようだが、それにしてはよく手入れされているなとイリスは思う。
ミルクポットからミルクを注ぎ入れ、小さなガラスのポットのような容器から蜂蜜をティーカップの中に少量注ぎ入れてくるとかき混ぜる。ある程度混ざったことを確認してティーカップに指を掛け、口に含んだ。紅茶の良い香りが鼻腔を擽り、口いっぱいに広がる芳醇な香りにほうと息を吐く。
「ではリム、これからのことを話し合いましょうか」
ミルクティーを飲み終え、片付けをしているリムの背中にイリスはそう声を投げかけた。リムは洗い終えたカップ達を綺麗に拭き上げて元の位置に戻し、イリスの横に移動する。そして何処からともなく取り出した国の地図をイリスの目の前に広げた。
「ありがとう。まずダーゴン様からのお返事を伺い次第、私達は王都の中心部にある別邸へと向かうわ。確か今日はサンブルート公爵家で開かれるお茶会に参加する予定だったわよね?」
「はい、その通りでございます」
「なら丁度いいわ。お茶会は情報収集にはもってこいだもの。色んな方から情報を集めましょう。そうね……道は」
「この道を通り、分岐を左側に走るのが良いかと」
「そうね、そうしましょう」
広げた地図の路をなぞるリムの指先を見ながらイリスはこくりと頷く。別邸にも幾らかドレスを置いているので、お茶会には問題なく出席できそうである。
昨日のことを知っている令嬢、令息も多いだろうが、今は気まずいという気持ちよりも情報を集めることを優先しなければと地図の上に置いた手に力を込めると、イリスの手よりも一回り大きい手がそっと重ねられた。緊張からか冷たくなっている手を温めるようにリムはその手に僅かに力を入れる。するとイリスの口から安堵したような吐息が溢れた。
貴族というものは噂話が大好きである。娯楽の少ないこの国では噂話が娯楽として成り立っているため、昨日のパーティーでの出来事は全ての貴族に渡っていることを覚悟した上でいかなければならない。そのことをずっとイリスの従者を務めてきたリムはよくわかっていた。本当は彼女がそんな噂話に心を痛めつけられていたことも、よく知っている。
今従者として何ができるのか、これから主人であるイリスのために何をすべきなのか。
きっとリムは優しいからそう考えているに違いない。リムがイリスのことをよく理解しているのと同じように、またイリスも長く従者を務めているリムのことをよくわかっていた。僅かに険しい表情を浮かべる彼をちらりと見て、イリスは薄く笑みを浮かべた。
「リム、ありがとう」




