幕間:リム・ラコイは憤る
本編の前日譚です。
リム・ラコイは憤っていた。
主人であるイリス・シュトーレン侯爵令嬢が受けた仕打ちは勿論、これまで主人を蔑ろにしてきた事に対してもである。特にあの男――ローラス・ベイルという主人の元婚約者であるこの国の第二王子に酷く憤りを感じていた。
元来リムは物腰も柔らかく、気性も荒い方ではない。主人であるイリスもあまり感情を表に出さない性質であるからか、従者である彼もまた同じように感情を表に出すことは殆どない。怒りなどもっての外である。
しかしそんなリムがローラス王子に対しては、常に内に膨大な量の怒りを抱えていた。そしてそれは全て主人であるイリスの事を想ってのことであった。そこに主人と従者の関係を越える想いはないが、主従に於いては右に出るものはいない程二人の関係は強固なものである。
王城にて開かれるパーティを明日に控えたこの日、リムはシュトーレン侯爵家を纏める執事からイリス宛の手紙を受け取った。押された封蝋には王家の紋章が描かれている。差出人はあのいけすかない婚約者――つまりローラス王子だ。イリスに見せるまでもなく今ここで破り捨てて燃やしてやりたい衝動に駆られたが、深呼吸をする事でどうにか抑え込む。
どれだけいけ好かなくて嫌いで腹の立つ男からの手紙であっても、主人宛の手紙をなんの了承もなく破り捨ててしまうのは犯罪である。そのため血涙を流しながらでもこの衝動を止めねばならない。
「イリス様、お手紙が届いております」
「誰から?」
「……ローラス・ベイル王子でございます」
長い沈黙の後、そう、という無感情な二文字だけがイリスの口から発せられたのだが、その二文字に込められた想いをリムは正確に受け取った。寧ろ同じ思いを抱えるリムだからこそ受け取れたというべきかもしれない。
イリスは重い溜息を吐いた後、リムが差し出したペーパーナイフを受け取り、手紙を開封した。自室の肌触りのいいゆったりとした真紅のソファに腰掛けながら、開封した手紙に目を通していくイリス。しかし読み進めれば読み進めるほどに彼女の美しい眉間にはおよそ似つかわしくない縦線が刻まれていく。
全てを読み終えた時、彼女はぐったりとソファの背もたれに凭れ掛かり、力なく天井を仰ぎ見た。
「……どう、なさいましたか?」
出来る限り感情を抑え込みながら平坦な声色を意識して聞いた。イリスはそんなリムに軽く視線だけを寄越し、手に持っていた手紙をひらひらと揺すりながら彼の手に渡した。
渡された手紙を恐る恐る開き、目を通してみる。
……正直に言おう。一文目から破り捨てたい気持ちになる程だった。ああーっと、力加減を間違えてしまったようです!と惚けながら手紙の両端を持って強く左右に引っ張ってやりたいくらいには腑が煮え繰り返るような中身だった。
「……なんですか、これ」
「本当にね。……破り捨てなかった事を褒めて欲しいくらいだわ」
「……心中、お察しします」
いつもの気品溢れる誰もが羨む令嬢の姿はそこにはない。あるのはただただ怒りを通り越して無の境地へと誘われた、可哀想な少女の姿。
「……あの馬鹿王子、本当に意味をわかっているのかしら」
その呟きには何も言い返さない。それはリムが、侯爵令嬢であり第二王子の婚約者であるイリスだからこそ言える言葉だと理解しているからである。ただ内心では首がもげるのではないかというくらいに首肯している。
「私は……私はねリム、別に王子の妻の地位なんかこれっぽっちも興味がないの。今すぐにでもその手紙に書かれている内容の通りにしてやりたいとも思ってる。正直両手を上げて最高だと大声を上げながら喜びたいとさえ思っている。……けれどそれじゃあ駄目なのよね。侯爵家が王族との繋がりを持てることがどれほど重要か考えたら、私にはどうする事も出来ないのよ」
イリスはぼんやりと天井を見上げながら、ぽつりぽつりと心から溢れた言葉を紡いでいく。侯爵家という立場だから、王族に逆らうことなんて出来ないから、色々と理由はある。どれ程嫌悪している人物であっても相手は王族、無碍には出来ない。
幼い頃からイリスは優秀で、天才だと言われてきた。それは一重に努力の賜物であり、そして貪欲な知識欲からくるものであった。現在の王妃殿下と御学友だったイリスの母は、何処からかその噂を聞きつけた現王からイリスを王族に迎え入れたいとの打診をされた際、ひどく驚き、そして迷ったという。
まだ第一王子ならば良かったのかもしれない。優秀で努力家で性格も良く、剣技も優れた第一王子ならば、彼女も迷わなかったかもしれない。しかし相手として提示されたのはイリスが『馬鹿王子』と言った第二王子である。優秀な第一王子と常に比較されながら育ち、性格が捻じ曲がった努力もしない王子に誰が優秀で可愛い娘を嫁がせたいと思うのだろうか。
それでも今イリスが第二王子と婚約しているのは、彼女達が侯爵という爵位であるからだ。強行されてしまえばなす術はない。この世界では爵位が全てだ。
「でも……それでも、少しは喜んでもいいのかしら?」
イリスの金色の瞳がリムの方を向く。年齢よりも幾分か幼く見える表情と発せられた言葉に、リムは思わず目を瞬かせた。
普通であれば肯定する事も否定する事も憚られる質問だが、なにせリムも内心では憤っている。それに今は二人きりだ。今ここでリムがなんと答えようと、イリスはリムを咎めはしないだろう。
リムはふうと一つ息を吐き、その整った顔をふわりと綻ばせた。
「イリス様はこれまでよく耐えてこられました。この内容が本当なのかどうかはわかりませんが、今はイリス様のお心のままに思われても罰は当たらないと私は思います」
リムの言葉に、イリスは瞠目した。
金色の瞳が水の膜で覆われたようにきらりと光り、そして僅かに揺れた後、彼女はゆっくりと瞼を下ろして眉尻を下げながら微笑んだ。
「うん……うん、ありがとう」
そうリムに礼を言いつつ、嬉しそうにはにかんでいる。いつもは大人っぽく振る舞っている彼女の年相応の姿に、リムの胸は温かくなった。
「私……本当にこれで婚約破棄されるなら、こんなに嬉しいことはないわ。家族が悲しむから、家族の為にってずっと頑張ってきたの。……不敬だってことはわかっているけれど、それでも……それでも嬉しいのよ、リム」
「はい」
「私はやっと自由になれるのね……夢も、叶えられるかもしれない……明日のパーティのことを考えると憂鬱だったけれど、今はとても楽しみよ」
「……はい、そうですね」
眦から溢れた涙がきらりと光る。
きっとそれは今まで溜め込んでいた感情が、耐えきれずにぽろりと溢れてしまったものなのだろう。リムにはとても綺麗なもののように思えた。
「リム、今日私が言ったことは内緒よ?」
「はい、わかっています」
「本当よ?」
「はい、わかっていますよ。イリス様」
こんな風に笑う彼女を見たのはいつぶりだろうかとリムは思う。いつの間にか感情を消す事を常としてしまった彼女が、こんな風にまた年相応に笑える日が来るなんて思いもしなかった。その点に関してだけは褒めてやらん事もないとリムは思うのだ。
正式な婚約破棄には手続きが必要だ。
しかしこの手紙があるならばもしかするとスムーズに事が進むかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、イリスとリムは束の間の幸せを噛み締めていた。
しかしその翌日の王城でのパーティであんなことが起こるなんて思いもしなかったのである。




