1:予期せぬ事態
「さて、これからどうしようかしら」
薄紫色の細く綺麗な髪と青紫色のドレスの裾を翻しながら赤い絨毯の上を颯爽と歩く彼女の表情は少し固い。背筋はピンと伸び、如何にも育ちが良さそうな彼女はこの物語の主人公、イリス・シュトーレン侯爵令嬢である。
イリスが歩みを進めるたびにひらりと舞うドレスの裾から見える青いヒールは、今日のためにと前々から準備していたイリスのお気に入りだ。本来ならば左右ともに髪色に似た薄紫色の造花が付いていたのだが、今は片方しかない。お気に入りだったのにと思わないでもないが、それでも歩みを止めるわけにはいかなかったし、況してや取りに戻ることなど出来るわけがなかった。
「……時間がないわ。ああもう、あのポンコツ王子に余計な事を吹き込んだのは誰なのかしら!仮にも王子、それも元婚約者にする仕打ちがこれですか?……本当に、あの方は何処までうつけでいらっしゃるのか」
あの馬鹿さ加減には困ったものだと、イリスは眉間の皺をより一層深めた。
あのポンコツ王子こと、このベイル国の第二王子であるローラス・ベイルはイリスの婚約者であった――昨日までは。
昨日突然婚約破棄を告げる書状が届いたのだが、正直な話、イリスはローラスの事がとても嫌いだったのでそれはもう諸手を挙げて喜んだ。やっとあの大嫌いな婚約者と一緒にいなくていい、最高だと叫びたい気分だった。
別にローラスの造形が嫌いだとかそういうものではなかったが、価値観の違いや考え方の違いというかなんというか、率直に言ってしまえば生理的に合わなかったのである。
元々イリスは本が大好きだった。幼い頃から王立図書館に通っては毎日沢山の本を読み、一応王子の未来のお嫁さん候補として所謂妃教育と呼ばれるものも受けていたこともあって頭はとてもいい方である。
しかし対するローラスは本は読まず、勉強もサボってばかりで正直なところ少しおつむが弱い。何度イリスを始めとする周囲の人間達が進言しても毎回不貞腐れて逃げていたので、ローラスの幼少期を知る人間の殆どは彼をあまり好んではいなかった。
そんなローラスとおさらば出来、尚且つ今までは将来は王宮に入るからと諦めざるを得なかった幼い頃からの学者になる夢も実現するかもしれないのだから、これが喜ばずにいられるだろうか。
しかし、浮かれていたのが間違いだった。
「……ああもう、本当に腹立たしい」
本日、王宮にて開かれた伯爵位以上の貴族達が集まるパーティに出席したのだが、これが失敗だった。
自ら婚約破棄をしたなどと言うような恥晒し――ベイル国ではよほどの事情がない限りは婚約破棄自体が恥とされている――ではないはずだ。だから幾らあのバカな王子でも流石に公の場では何もしてこないだろう、などと呑気に思っていた数刻前の自分を殴りたいとイリスは思った。もし過去に行けたなら、数発殴ってでも自分がこのパーティに参加することを止めたと言うのに。
だが悲しいことに時間は戻ることはない。イリスはぎりっと下唇を噛み締めた。
ローラスはあろう事か、イリスとの婚約を破棄したことを堂々と宣言し、あまつさえ自身が雇っていた闇の術者と呼ばれる者達を使ってイリスに呪いを掛けてきたのである。呪いは形となり、ドレスから僅かに覗く胸元には痛々しい何かの刻印のような痣が少しだけ見えていた。
「イリス様」
王宮から出てシュトーレン侯爵家が所有する馬車に乗り込む直前、名前を呼ばれて背後を振り返ると、そこには恭しく礼をしながら立つ自身の従者の姿があった。
「リム、あの馬鹿が雇っていた術師は?」
「それが……取り押さえはしたのですが、三日間の猶予をやると言った後すぐに事切れてしまいました。申し訳ございません」
そう、とイリスは眉間の皺をさらに深くして頷いた。リム――リム・ラコイはイリスが一番信頼している従者であり、彼女の手足そのものである。そんな彼が彼女に嘘をつくはずがない。
「……やってくれるわね」
イリスは足早に馬車の中へと入り、ふかふかのクッションをあつらえたソファーのような赤い肌触りのいい座席に腰を下ろした。それを視認したリムはカチャンという音を立てて扉を閉め、馬車の前方、馬を操る為の御者席に座って手綱を握る。
先程までは感情を隠していたのだろうか、手綱を引くリムの手はかすかに震え、どこか哀しげな表情をしていた。




