勾 玉 ①
勾 玉 ①
学生時代、私は水産学を学んでいた。そして大学4年になり、研究生として、とある離島の有用魚種の繁殖育成事業を主とする研究施設に入所した。
陸上施設での仕事はもちろん、沖の育成生け簀の管理や汲み上げ海水のポンプなどの設置、管理等で、潜水作業は必須だった。
世間一般的に「お盆は海に入るな」とよく言われることだったし、もちろん船を出すこと自体も禁忌。しかし生き物相手の仕事なので盆も正月も関係なく、海に入らないわけにはいかない。
そこでお盆になると地元の人たちは、作業の安全祈願と鎮魂のため、祈りを捧げて、船の上から一升瓶を逆さにして海に撒く。
私と同じぐらいの若者も、年配者たちも、皆、神妙な面持ちで、どぼどぼと酒を海に撒いた。都会育ちの私にはそれがずいぶん不思議なものに見えた。
この地に生まれ、この地で暮らしている人々の中に、人知を超えた存在に対する畏敬の念、あるいは信仰心が、何の疑問を持つこともなく、ごく普通に培われている。
それが自然であること。もっと言うなら、俗世間に染まった私たちが、やれ霊感があるとか、見えないとか見えたとか、騒ぎ立てて言うことが、この地では、皆当たり前に捉えられているという事実。これには驚かされた。おそらくこの国の昔は、どこへ行っても皆そうだったに違いない。
私はそこで、ミツと言う17才の女子高生と出会った。彼女はいつも白い夏服を着ていた。私の目にはどこにでもいるごく普通の女子高生に映った。
実は彼女の家は、大昔から代々、島で祭祀を担って来た祭事師だった。日本各地で、祈り女だとか、巫女、ユタ、などといろいろな呼び方をされているが、いわゆる神に使える霊験あらたかな家の娘だった。そして祖母、母とミツの3人の女性の中で、ミツは並外れた能力を持った少女だった。
島へ渡る船で、私は初めて彼女に出会った。
そして偶然隣の席に座った時、ミツは私の顔をじっと見て言った。
「アマノさん、ですよね?」
「はい、そうですが……」
「あたし、ずっとあなたに会いたかったの」
「君は誰? なんで僕のこと知ってるの?」
「知ってたよ。名前も顔も、ここへ来ることも。アマノさんが子供の頃から不思議なこといっぱい体験したきたことも、それを嫌がっていたこともね」
まるで狐に摘ままれたようだ。
そんな私の驚きなど意に介することもなく、ミツは、にっこり笑った。
「いきなりで悪いんだけど、あなたにね、一つお願いがあるの」
「お願い?」
「探してほしいものがあるの」
――お客様にお知らせします。当船はまもなく〇△港に到着いたします……。
船内アナウンスが聞こえる。
「あのね、おばあちゃんからもらった大事な勾玉を失くしてしまったの。いつかあなたはそれを見つけるから、私に返して。お願いね」
「え? ちょっと……」
それだけ言うとミツはさっさと私を置いて下船してしまった。
その時はミツがそんな家の娘だと知らず、おかしなことを言う少女だと思ったが、会っていきなり名前を呼ばれたことや、自分以外知るはずもない過去のことなど次から次へと言い当てられてかなり動揺していた。
数か月後、ちょうどお盆の時期だった。
陸上施設に水を汲み上げるポンプが故障して水が上がらなくなった。不具合の発生箇所は沖にある吸水口らしい。何かが詰まったかもしれない。このままでは施設の魚が全滅してしまう。
急遽私と先輩の二人は、お盆にもかかわらず潜ることになった。
吸い口は水深約30mの海底に設置されている。ただ、私も先輩もどちらもがまだ若く、遠く離れた都会育ちだった。
何も考えることもなく、お盆の海に祈りを捧げることも、もちろん酒など撒くはずもなく、青い海に船外機で乗り出した。いつものように。
勾 玉
青空よりももっと蒼い海が目の前に広がっていた。
数日前に台風が、遥か南の海上を通り過ぎていた。まだ少し余波の残る中、私と先輩を乗せた小さいボートが沖合約300mを目指して海面を割り進む。何もしゃべらず、ただうねりに合わせて高低を繰り返す船外機のエンジン音だけが響いていた。やがて目の前の波間に赤いブイが見え隠れし出した。
「よし、そのブイ拾って、船に結んでくれ」と舵を握る先輩が言う。
このブイの下、水深30mの海底にポンプの吸い口がある。ブイは目印だった。私はそれを拾い上げて、船にもやいつけた。こうすれば錨の代わりにもなるし、ポンプまでロープを伝って上下すれば潮流に流されることもない。ただ私は潜水作業にはあまり慣れていなかったので、そのロープの重要性を心得ていなかった。
水深30mと言えば、およそ十階建のビルの高さに相当する。いくらきれいな海とは言え、水面から海底は見えなかった。
私と先輩の二人は、青白くぼやけた海底に向かって、ロープ伝いに一気に潜り始めた。
水深15mを越えたころ、ようやく海底がぼんやりとその姿を見せ始めた。
その辺りの潮の流れはとても速かった。
水面から真下の海底までの水深は、単純に30mだが、ロープが潮に流されていたために、実際には、ブイと吸い口、つまり海底と海面の位置はかなり斜めにずれていた。
慣れない私は、海の中にも川のように水が流れていることをまだわかっていなかった。
やがて二人は、あたり一面を細かい砂に覆われた海底に降り立った。日の光もここまではあまり届かず、何もかもが青く、そして静かだった。
ただ、二人の吐き出す泡の音だけがゴボゴボと聞こえていた。
吸い口の周囲は所々黒っぽい芝のような短い海草の生えた砂地が広がっていた。透視度は、せいぜい20mぐらい。その向うはぼんやりとした青いカーテンにまぎれて見えなかった。深い海で作業のできる時間は短い。ここではせいぜい持って30分というところだ。
とその時、一匹の魚が配水管の下から飛び出した。体長20cm以上はあろうかと思われるミノカサゴという魚だった。それは赤白のストライプの入った立派な胸ヒレをまるで鳳凰が羽を広げるように大きく開いてこちらを威嚇している。
こいつの背ビレと腹ビレには強烈な毒を持った棘がある。刺されたら大事だ。だがその姿は、別名、海の貴婦人と呼ばれるように優雅な気品に溢れていた。
と、その時、威嚇する彼女のいるすぐ下に生えている短い海草の合間で何かがきらりと光った。
私は手を伸ばしてそれを拾おうとするが、彼女はまるでそれを守っているようにそこから離れようとはしなかった。へたに手を出せば鋭い毒針の餌食だ。
そこで私は足ヒレをミノカサゴの方に向け二、三回水を蹴ってみる。驚いたミノカサゴは元居た配水管の下に逃げ込んだ。守り主の不在となったその場所に近付き、私は手を伸ばしてそれを拾い上げた。
ガラス片か何かかと思って目を近付けて見てみる。親指ほどのつるつるしたソラマメ状の石だ。水深30m。こんなところで薄い太陽光を反射したとは考え難い。私は首をかしげながら、その石を浮力調整ジャケットのポケットに押し込み、慌てて吸い口のへと急いだ。
吸い口は見事に砂の中にそのほとんどが埋もれていた。台風の影響はこんな海底にまで及ぶ。これはけっこう時間がかかるだろう。
作業が始まってしばらく経った。二人同時に潜り始めても、いつも私のタンクの減りは早かったが、この時は特にその差が顕著に表れた。
ふと見ると、空気の残量がすでにゲージの赤い域に入っている。実際には、針が赤い域に入ったからと言ってすぐに止まることはない。しかし、水面すら見えない青一色の深い海の底で、空気がなくなるかもしれないという不安感がさらに私の心理状態に追い討ちをかけて、吸う空気の出さえ重くなったような気がした。
私は慌てて作業の手を止めて、先輩の方に近寄り、ゲージを先輩に見せる。しかし作業は難航しており、まだもう少しかかりそうだった。先輩のタンクにはいつものようにまだ少し余裕があった。
先輩は、私の方を指差し、その指をすぐ上に向けた。「俺はまだもう少しここで頑張るからお前は先に上れ」ということらしい。
本来なら、未熟な私を一人で浮上させることは、大変不安な選択だったに違いない。しかしできれば先輩一人になっても今日中に復旧しなければならなかった。
私は頷いて立ち上がり、ゆっくり真上を見上げた。自分の吐きだした息が無数の泡となって絡み合い、競い合いながら上へ上へと向かっているのが見えた。しかし、遥か上方の水面は見えなかった。ただ白く柔らかな光が登って行く泡の先に広がっていた。
この泡たちを追えば良いのだと思った。だが自分の吐き出した一番小さな泡よりもゆっくり浮上しなければ、血液に溶けた空気が気泡化し、血管が詰まる減圧症と言う恐ろしい潜水病に罹る。
ゆっくりと浮上すれば大丈夫だ。行ける。そう思った私は、きっと冷静な判断すらできなかったのだろう。潜水初心者にも近い私が、水深30mから一気に浮上することがどれほど難しいことなのかわかってはいなかった。何のためのロープだ。私は海面の船まで張られたロープの存在を忘れ、真上だけを見つめていた。
肺を空気で満たすと、体はふわりと持ち上がり、ゆっくり両足は海底を離れた。
無数の気泡が絡み合いながら垂直に上昇していた。幻想的な光景だった。実際に深い海の底にいることさえ忘れさせる。私はただ白い光に向かって泡を追いかけて行きたかった。
一刻も早く人間の生きることが許された世界に戻りたかった。
浮上途中で何度も急浮上しそうになるが、肺の中の空気を吐き切り、それでも浮上が止まらない時は、一度下を向いて潜行と浮上を繰り返しながら何とか浮力を打ち消そうと頑張った。浮力は上昇すればするほど大きくなる。
下を見下ろした時、先ほどまでいた場所も先輩の姿も、もう青の中にぼやけてはっきり見えなかった。その反対に自分の目指す水面は明るい光が差し込み、細かな波頭が幾重にもきらきらと輝いて見えた。
あと少し、あと少しであの銀色に輝く光の中に戻ることができる。そう思った次の瞬間だった。浮上時に聞く、きゅーっと言う内圧の抜ける音の何倍もの大きな音を左耳に感じ、そして今まで経験したことのない激しい眩暈が私を襲った。
後半へ続く




