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怖くて悲しいお話たち  作者: 天野秀作
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九死に一生

 九死に一生


 以前、離岸流のことを書きました。一般的に言われる離岸流とは、主に台風シーズンに起きる高潮などの引き潮の時に、陸から沖に向かって流れる強い潮の流れのことですが、海が荒れて波が高いと冬場でもそれに似た現象は起こります。私もかつて生死の境をさまよったことがあります。

 

 もうずいぶんと昔、昭和の終わりごろ、私は、ある水族館の飼育員をしておりました。 

 新年の催し物として、干支に関係した生き物を展示するというイベントをどこの水族館でもやっておりますが、その年の干支はうまでした。

 何の捻りもないですが、その水族館では、世界中から大変めずらしいシーホース、つまりタツノオトシゴ類を特別展示していました。

 水温、水質は徹底して管理をしておりましたが、問題はその餌でした。

 まあ贅沢なことに、こいつは生餌、それもそこらの熱帯魚ショップで売っている、缶入りの乾燥卵を孵化させるようなモノではダメで、天然にいるアミエビやコペポーダと呼ばれる海のミジンコみたいなヤツしか口にしません。それしか食べてくれないのです。パンダやコアラの飼育員の苦労がわかりました。


「おーい、ちょっと餌獲って来い」の上司の一言で、若い私は12月の海に潜らされるのです。

「ちっとフード被って我慢せえな」とドライスーツではなくウェットで潜らされるのです。さすが昭和。しかも天然の生き餌ですから、確実に獲れるとは限らず「獲れるまでは帰って来るなよ」とまで言われて、水温が15度もない海に延々潜りました。アミの季節はだいたいが秋ですが、越冬する個体もけっこういて、それが群生していたりします。

 幸いそのポイントもあらかじめわかっていました。ほとんど海岸沿いの岩礁地帯、潮だまりのような場所が多かったです。

 その日は朝から沖に白波が立っていました。西高東低の冬型の、強い風の吹く中での潜水作業でした。水は冷たく、少し動くと背中に冷水がすーっと入って来るとヒャッと縮みあがります。それでも外の凍てつく北風にさらされるよりも、まだ水の中にいた方が少しはマシでした。

 その頃の私は、潜水作業歴たった1年半ほどでまだまだ駆け出しの頃でしたから、海の荒れた時の岩場の危険さを知識としては持っていましたが、実感はありません。

 海岸からほんの少し離れた、穏やかな時には、澱んだ潮溜りになるような大きな岩と岩の海底を私は一生懸命に探しました。水深は5mから深いところでも15mもない浅瀬でした。

 いました。予想通りです。強い波の影響をあまり受けない海底の砂地の上で、無数の個体が波に合わせて揺られていました。 私は持っていた目の細かい網で八の字を描くように掬い取ると、けっこうな数が獲れました。もうこれぐらいでいいだろうと浮上しようとした時です。

 

 強い引き波でした。とてつもない力で、潮は私をさらって行きました。まるで体を巨大な魔人の手に鷲つかみにされたように、あっという間に持って行かれました。

 何かに掴まらないとヤバい。咄嗟に逃げようと、触った岩の壁を掴みながら狭い岩の間に逃げ込んだ時、さらに岩と岩のあいだに引き波が起こり、波と波がぶつかり合って、私は錐もみ状態です。

 まるで洗濯機の中に放り込まれたパンツみたいにぐるぐるぐるぐる回されて、巨大な岩に何度もガンガンぶつけられ、タンクの金属音がゴンゴン聞こえ、水中マスクは吹っ飛ばされ、それでも、かろうじてレギュレターだけは咥えていました。

 しかし、頭をかなりぶつけたかして、意識が朦朧としています。波は引くだけ引いたら落ち着いて、私はゆっくりと海底に沈んで行きました。

 立ち昇る無数の泡がきれいだったことを覚えています。

 

 おそらく現実には、時間にしてほんの何十秒かだったはずです。私の目の前には黒い水が広がっていました。黒い水の表面には、細かい波頭のようなものが無数に見えました。

 ふと見ると、その黒い水の中を一隻の小船が渡っていました。

 あれに乗らないと! 私は必死で船の方へと泳いで向かいました。船の上には大勢の人が私を心配そうに見ています。中には手を差し伸べる人もいました。私が手を伸ばそうとした時です。左足のふくらはぎに痛みが走りました。

 思わず「イタっ」と声を出してしまい、見れば、一匹の大きなこげ茶色のクエが足にパックリと噛みついていました。なんでクエ? と思いましたが、よく見れば、目の下にキズのある見覚えのある大クエです。思い出しました。私が毎日世話をしている大型水槽の底にいるやつでした。私が餌のバケツを持って水槽の淵に立つと、いつもゆっくりと底から上がって来るやつでした。でも残念なことに先日、他のクエと喧嘩して死んでしまったのです。


 と、その時、ハッと気付きました。意識が飛んでいたと言うことに。左足が痛い。どうやら岩肌に思い切りぶつけて、スーツが破れて血が出ています。

 それよりも酷い吐き気に襲われて、私はさっとマウスピースを外したとたん、汚い話ですが、思い切り嘔吐しました。水中で嘔吐すると、水圧で吐しゃ物が戻されると言うことを初めて知りました。

 それでも何とか、命からがら戻ることはできましたが、すぐに救急車で病院送りになりました。嘔吐は頭を打ったことによる脳震盪の嘔吐だったようです。怪我の方は大したこともなく、翌日には仕事に戻るように命じられました。

 

 後から冷静に考えたら、もし、あの時あの船に乗っていたら、もしあのクエが私の左足を噛まなければ、きっと今頃、こちらの世界にいなかったと思います。

 九死に一生を得た話ですが、あれ以来、潜る時は必ず上に見守りを付けてくれるようになりました。当たり前ですね。


                     了 


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