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怖くて悲しいお話たち  作者: 天野秀作
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嗅 覚 ――ナナちゃん奇譚①――

「怖くて悲しいお話たち」は様々な怪異や、それにかかわる人間模様を切り取って書いたオムニバスの短編集ですが、これから登場するナナちゃんのお話は、シリーズとでも呼べるぐらいけっこう数があります。

まず初めに、私とナナちゃんとの出会いを書いてみたいと思います。

 私には一人、大変信頼している異性の友人がいる。名前を七菜、通称ナナちゃんと呼んでいる。年齢は私よりも20才も若いが、人間的にも素晴らしく、そしてもちろんすごい美人だ。私も一男性なので、彼女に性的な魅力を感じないわけではない。しかし私には25年以上も連れ添った女性がいるし、ナナちゃんとは、お互い、男女の垣根を超えた人間的な間柄だと感じている。と言うのも、前世とか、もっと昔に、おそらく私とナナちゃんはお互いの人生に於いて、とても不思議な縁で結ばれている気がしてならない。よく世間で耳にする「ソウルメイト」のような存在ではないかと思っている。

そんなナナちゃんとの出会いを書いてみたいと思う。


   嗅 覚  

 私は昔から、とても鼻が利く。これは単純に匂いに敏感だと言うことではなく、もっと高次元的に感じる感覚のことで、例えるなら、ある種の強い感情や、あるいは、愛情、恨みなどの人が人に対して向ける強い思念など。つまり単なる物理的な匂いではない物を私の鼻は、匂いとして感じ取るようだ。

 

 もう20年以上も前の話になる。それは8月の暑い夜のこと。滅多に飲みになど行かない下戸の私が、連れ合いに無理やり引っ張って行かれた、大阪市北区堂山町のとあるバーでの話。

 店に入って、即、私の鼻は反応した。

 客の煙草かとも思ったが、明らかに何か焦げるような、例えるなら、つけっぱなしで燃料のなくなった石油ストーブみたいな臭いだった。

「あの、ちょっと何か焦げ臭くないですか?」

 私はすぐにマスターに尋ねると、マスターは慌てて火の気のありそうな場所を確認した。ゴミ箱に捨てた吸い殻なども見たが、煙が出ていることもなかった。

 その時は明らかに何かが燃えたにおいがしていた。そのにおいの元が1つ空けた左隣のカウンター席の女性からだと気付くのに時間はかからなかった。

 若い女性の場末のバーでの一人飲み。どこか少し影のある感じがする。しかし連れ合いと同伴で行った飲み屋でおかしな関係に発展するわけもなく。ただちょっと街中ですれ違っただけのどこにでもいる女性の一人だと思った。マスターと何やら親密に話す彼女はどうやらこの店の常連客らしい。

 そのうち私がちらちら見ていることに気付いたらしく、すっと席を立ち、こちらへやって来た。

「こんばんは。見ない顔やね。このお店初めて?」

「ええ。こいつに無理やり連れて来られたんですよ」

「まあ、仲の良いこと」

 連れ合いはまんざらでもなさそうな表情だ。

「さっきからあたしの方ばかり見て、彼女さんに怒られますよ」

「いや、申し訳ない。ただ、ちょっと」

「何?」

「においがするんや」

「におい? どんな? あたし何もつけてないで」

「うん、何と言うか、焦げ臭い、冬にストーブの灯油が無くなった時みたいな……」

 その途端、彼女の表情が変わった。

「ちょっとあんた、若い女性に失礼やで。なんてこと言うんや。ごめんなこの人ちょっと変わってるねん。そんな臭いなんかせえへんよ。気にせんとってな」

 間髪入れずに、右隣の連れ合いが話の腰を折る。

「ああ、そうやな。申し訳ない。若い女性に対して言うことやないな。ごめんごめん」

「ね、もしかして、あなた、何か見える人?」

 女性は別段怒るでもなく、至って真顔で私に聞く。

「いや……」

 そう言いながらもう一度彼女の方を見る。驚いたことにさっきまで誰もいなかった彼女の隣に黒縁眼鏡をかけた、さえない中年男が立っている。彼女は私の視線を追い、何かに気付いたのか、「ごめん、ちょっと奥のボックス席にいっしょに来て。話しょう」と私たちに言い、振り向いてカウンターの中のマスターに生中3つボックス席に持って来るように頼んだ。私は飲めないのに、と、ここへ来てつまらない心配をしていた。


「何か見えた? なあ見えたんやろ?」

「ああ、黒縁眼鏡のオヤジ。臭いはそいつからかな」

 彼女はすべてを理解したように、ふんふんと頷き、長い身の上話を始めた。黒縁眼鏡のおっさんは彼女の横に立ってじっと見降ろしている。臭いはさらに強く、私は思わず鼻に手をやる。

 彼女は数年前に短大を卒業して、ある大手企業に就職した。男は彼女の居る部署で最も上の上司である営業部長だった。齢は彼女よりも二回り以上も上だった。

 そのオヤジがあろうことか、若い彼女に恋をした。それも遊びなんかではなく、本心からの恋だった。もちろんオヤジには妻も娘もいる。

 今まで仕事ばかりの人生で妻とも見合い結婚、そして子供が生まれ、毎日が会社と家の往復で単調な作業の繰り返し。娘は自分にはまったく懐かない。妻は自分を生活費としか見ない。徐々に自分の存在意義を見失って行った時、彼女と出会った。

 きっと男にとってその出会いは衝撃的だったのだろう。おそらく男は、今までの人生で心から誰かを愛したことなどなかったのかもしれない。

 今のようにセクハラ云々を声高に言われなかった時代。彼女は入りたての新入社員だったし、部長直々に誘われれば、断り切れずに、何度か食事や飲みに行った。そして恋に盲目なオヤジは完全に狂ってしまった。

「妻と別れるから俺といっしょになってほしい」

 最初はただの口説き文句だと思っていた。しかし、何度も何度も真剣に言うものだから、いつしか彼女は怖くなった。

 目の前のテーブルに黄金色のジョッキが置かれた。良く冷えているようだ。しかし話に夢中になって、私たちは乾杯どころではなかった。彼女が耐えきれずに口を付ける。そしてテーブルに置き、話は再開された。水滴の浮いたジョッキを私はだまって見つめていた。

 その後、さらに男の思いは過熱して執拗にラブコールを続ける。それでも彼女はずっと断り続けていた。やがて彼女の実家にまで何度も電話が掛かって来るようになった。もはやストーカーだ。

 ある日、彼女はどうにもできなくなって同居の父に相談した。父はえらい剣幕で会社に訴えると言う。当たり前だろう。今ならそんなことはないのだろうが、当時はまだまだ女性の地位は低かった。公になると彼女はせっかく入った大手企業をやめざるを得なくなるかもしれない。しかし娘を思う父にはその男は忌々しい敵でしかない。

 もはやこれまでと、彼女の父は男を訴えた。そして男は会社をクビになってしまった。しかしそんなことぐらいで気の狂った男の情愛は収まらない。

 ある夜、男は頑然たる決意を持って彼女の家を訪ねた。彼女の父にしてみればふざけた話だ。失礼極まりない。当然の門前払い。しかしそんなことは百も承知だった。狂った男には通用しない。

「帰れ」「帰らない。彼女を出すまでは絶対に引かない」の押し問答。大声で夜中に騒ぎ立てるものだから、近隣の住人たちが何事かと様子を見に玄関から顔を出し始めた。

 それでも男は立ち去ろうとせず、声を荒げるばかりだった。とうとう我慢できずに彼女が顔を出した。すると男は待っていましたとばかりに「俺といっしょに行こう」と言った。

 しかし彼女は「もう、やめて!」と首を横に振る。

 そして男の独りよがりな愛は狂気に変わった。

 男は乗って来た車のトランクから前もって準備していた灯油18リットル入りのポリタンクを取り出し、二人の見ている玄関先、家の前の道路でどぼどぼと頭からかぶって、ポケットからライターを取り出した。

 そしてもう一度「ずっと俺といっしょに」と彼女に向かって悲痛な声で叫ぶ。彼女は大声で「やめて!」と叫んだだけで、決して同意はしなかった。

 この時点で、彼女も父親もまさか本当に火を点けるとは思っていなかった。彼女はただ男が怖かった。 男は淋しそうに微笑んで胸に火を点けた。

 あっという間に全身火だるまになり、それでも彼女の名を大声で呼びながら、まるで踊るように苦しみもがいてその場に倒れた。火はすぐに父の消火器で消し止められ、救急に搬送されたが、結局次の朝、男は逝った。遺体の損傷は激しく、顔も識別するのが困難だったそうだ。

 しかし死ぬ寸前まで意識ははっきりしていたらしく、「七菜! 七菜!」と、ずっと彼女の名前を呼び続けていたらしい。

 そして事件の翌日、彼女の下に死んだ男から遺書らしき手紙が届いた。

 それを読むまで、男の焼身自殺は、おそらく彼女への強い愛情表現、強い自己アピールの表れだと思っていた。だが違った。そこには驚愕のことが書かれていた。

 最初から死ぬ気だった。理解してもらえないことはわかっていた。そして、彼女には指一本触れることなく、自分一人が死ぬつもりだった。

 なぜなら、彼女の目の前でこの身を焼けば、彼女の思い出の中で自分は一生、生きられると思った。そのためには、肉体を滅ぼす必要があった。つまり男にとっての死は、願いを成就するための手段に過ぎなかった。薬で言うなら、きつい副作用みたいなものだった。

 それは男にとっては遺書ではない。彼女へのお礼状だった。そして「今からあなたの思い出の一部として私は生きますよ、どうぞ永遠によろしく」と言う恐ろしい宣言書だったのだ。 

 つまり、男の願いは叶ったわけだ。黒縁眼鏡の奥で、男の目がにやりと笑う。


 私は後日、彼女を連れて、真田山の鎌八幡へ縁断ちに行った。これが私とナナちゃんの出会いであった。このことがあって、彼女とは親しくなった。今現在も良い関係は続いている。

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