In the eye ~未来への報酬~
某ネット小説コンテストで見事に落選したストーリーです。
なんと読者は5名!(うち3名が読了してくれました)
稚拙でお恥ずかしい作品ですが、せっかく書いたなら一人でも多くの人の目に触れていただきたいなと思いこちらにも投稿いたしました!ぜひお楽しみください!
「ねえ秋帆、こっちを見て」
両親ともに医師という裕福な家庭の一人娘として育った四家秋帆だが、一番の大切な思い出は母の春奈が慰めてくれる時だった。遊んでいて怪我をした時。友達と喧嘩をした時。弟のようにかわいがっていた犬が死んでしまった時。秋帆が傷つくことがあると、その都度春奈は慰めてくれた。
秋帆が春奈の目を見ると、「大丈夫、大丈夫」と言って微笑みかけてくれる。
すると、不思議なほどにそれまで胸の内に抱えていた嫌な気持ちや辛い気持ちがすうっと楽になっていった。
それが母親という存在の持つ偉大な力だけではなく、春奈の眼が持つ特別な力だと知ったのは、中学校の卒業式を間近に控えた時のことだった。悪性の白血病で余命僅かとなった母から、申し出があった。
「ねえ。お母さんの眼、もらってくれない?」
最初は何のことか分からなかった。眼をもらうなんて母親は何を言っているんだろうかと思った。医者だから眼球移植のことを言っているのかな、などと考えたが、そんなわけがなかった。
春奈は、ゆっくりと説明をした。
春奈の眼には相手を癒す特別な能力が備わっていること、春奈の眼は代々医師の家系である祖先から受け継いできたものであること、遺伝では引き継げないが眼の力は血縁者の間でなら受け渡しが可能なこと、とても大切なことなので家族以外の人には眼について絶対に教えないこと、眼を使う際の注意点、などだった。
秋帆はその事実に戸惑ったが、春奈の眼を受け継ぐことをすぐに決めた。母が自分にしてくれたように、その眼の力で人を幸せにしたいと思ったからだ。
少し目を合わせているだけで、眼の能力はいとも簡単に受け継がれた。
その数日後、春奈は息を引き取った。
気持ちの良い春の午後だった。空は夏に向けてその青を日増しに濃くしており、その空から降り注ぐ日差しを受け取るために草木は追いかけるようにその碧を深めていく。日向に出ると少し暑いくらいなのだが、優しく吹き抜ける風が心地良い。
高校からの帰り道、秋帆がいつも通る公園の中を歩いていると、公園の茂みのほうから声が聞こえてきた。
「おいデ。おいデ」
少し気になって覗き込んでみると、男が一人、熱心に猫に向けて手を小刻みに動かしている。
男は若いサラリーマンのような風貌で、猫を怖がらせまいと自身も地面に四つん這いになって目線を猫に合わせている。切れ長の目とシャープな顎のラインを備えた顔はどこか猫っぽい。猫好きは顔も猫に似るのだろうか、などと秋帆は思った。
男の視線の先にいる猫はどうやら飼い猫のようで、首輪をしておりつやつやの毛並みをしている。人間にも慣れているようで、少しすると男のほうへと歩み寄っていった。
「いやあ、可愛いねエ。ここがいいのかイ?」
男は猫なで声でそう言って、近寄ってきた猫の喉の下を撫でてやる。猫は気持ちよさそうに目を細める。
少し撫でて猫の警戒心が緩んだと判断したのか、男は自分の手を猫の顔の上へと移動させた。頭を撫でてやろうと思ったのだろう。しかし、頭上に相手の手が来るというのは動物にとっては脅威を感じるもので、猫は途端に機嫌を損ね、男の手に噛みついた。
「ツ!!」
男が声にならないような悲鳴をあげると、猫は一目散に逃げて行ってしまった。
男は噛まれた手にふーふーと息を吹きかける。その姿がなにやらとても面白く、秋帆はクスクスと笑ってしまった。
「見てたノ?」
男は恥ずかしそうに秋帆を見る。
「あ、勝手に見てごめんなさい。その、ちょっと声が聞こえたもので気になって」
秋帆がそう言うと、男は立ち上がった。思ったよりも背は高くない。秋帆よりは大きいが、痩躯なせいか一般的な男性よりは少し小さめに見える。
「いや~、お恥ずかしイ。大の大人が猫相手に必死になっているところを見られるなんテ」
そう言って頭をかきながら照れ笑いをすると目が糸のように細くなって一層猫っぽくなった。
「いえいえ、素敵だと思いますよ。動物好きな男性って」
秋帆はそう言ってやはりクスクスと笑う。
「いや~、それにしたって無様な姿を見せちゃっタ。もう少しうまくやれていたらもっと絵になったんだけどネ」
男の喋り方に少し違和感があることに秋帆が気づく。具体的に言うと、語尾が少しズれている。昔の漫画に出てくる中国人の日本語のようだ。
「えっと、もしかして外国人の方、ですか?」
秋帆は尋ねた。
「お、よく気づいたネ。出身は中国で、名前は陳・龍って言うノ。チェンはこざとへんに東と書いて日本語では『ちん』と呼ぶかな。ロンは難しい漢字の『りゅう』」
「あ、チェンさんですね。私は四家秋帆って言います」
相手から名乗ったとはいえ、秋帆は自分でも不思議なほど自然に自己紹介をしていた。チェンのニコニコした笑顔が親しみやすいせいだろう。
「あ、傷口」
秋帆がぽつりと呟く。よく見ると、チェンの噛まれた傷跡から血が滲んでいる。思ったよりも思い切り噛まれたらしい。
「ああ、こレ。失敗しちゃっタ」
そう言ってチェンは舌を出す。
「化膿したりしたら大変です。感染症の可能性だってありますし」
秋帆は自分のバッグの中から小型の救急セットを取り出した。それを見てチェンは驚く。
「すごいネ。いつも持ち歩いているノ?」
「家が医院をやっているんです。私も将来は医者になろうと思っていて。もちろん今は本格的な治療はできないけれど、こうやってちょっとした時に役に立ったらいいなあ、と思って鞄に入れているんです」
チェンが素直に手を出したので、傷口に消毒液を塗る。
「イテテテ」
「痛みますか?」
「うん、ちょっとネ。でも、ありがとう」
秋帆は少し迷う。実は母から譲り受けた眼の力を一度も使ったことがないので、使ってみたい気持ちがあった。だが、母からは他人に眼のことを教えてはいけないと言われていたので、少しためらいがある。それでも、このくらいならバレはしないよね、それに人のために使うんだもん、と自分を納得させてしまう。
「チェンさん、ちょっと私の眼を見てもらえますか?」
チェンが不思議そうに視線を上げる。
「どうしたノ?」
と言ってチェンが秋帆の眼を見つめ返した時に、あることに気づいた。
「あれ?チェンさん、カラーコンタクトとかしています?」
チェンの瞳の色は少し青みがかった灰色をしている。
「ああ、こレ。僕の先祖は中国系だけど、ロシアだか中央アジアだかの血も少し入っているらしいノ。詳しくは知らないけド。だから眼の色は、生まれつキ」
「そうですか。よかった」
そのことを確認すると、秋帆が自身の眼の力を使った。
チェンは自分の手の痛みがすうっとひいていき、不思議な心地よさに包まれるのを感じた。
「はい、おしまいです」
そう言ってにっこりと微笑む。
チェンが少し驚いたように呆然としている。その様子を見て秋帆は自分が軽率に眼の力を使ったことを後悔した。もしかしたら不思議な力を使ったと気づかれたかもしれない。
「おまじないです。母から教わった、痛みが軽くなるおまじない」
そう言って胡麻化すと、これ以上話すのはまずいと思い、用事を思い出したフリをした。
「いっけない。忘れてた。今日はすぐ帰るってお父さんに言ってあるんだった。チェンさん、それじゃあね」
急いで荷物をしまい、駆けていく。
「あ、ちょっと待っテ!」
そうチェンに呼び止められたが、ごめんなさいと言ってそのまま走り去った。
東京都と神奈川県の境に建つ、一目は廃ビルにすら見える寂れたビル。そこの三階には『陣内法律事務所』があった。
「確かなのか?その話」
応接用のテーブルの向かい側に座った一橋が不機嫌そうに確認する。身長は190cmを超え、顔つきもいわゆるコワモテの部類だ。年齢はチェンと同じ20代後半なのだが、どう見てもそれよりは老けて見える。そんな男が不機嫌そうに尋ねるのでその威圧感は凄まじいが、チェンは慣れているので特に意に介さない。
「絶対にとは言えないヨ。一度会っただけなんだシ」
そう言っていつものようにカラカラと笑う。事務所内に所狭しと積み重ねられたジャンルや言語を問わない書籍の束が、チェンがどんな人物かを物語っている。
「相変わらず適当な野郎だ。お前が呼んだんだろうが」
テーブルの上に出されたコーヒーを一橋が啜る。
「どうかナ?蒸らす時間をちょっと長くしてみたんだけド」
そう言って自分も一口飲む。
「うん、やっぱり正解だったネ。鼻の奥に広がる香りが以前よりも深いヨ」
チェンは自信満々にマグカップをテーブルに置くが、一橋は飲み終わった姿勢のまま固まって動かない。
「なあ、お前どっか他所でコーヒーを飲んだことはないのか?」
カップを持つ手は僅かに震えている。
「よくあるヨ。コーヒー好きで自分で入れるようになったからネ。でも数年前からは自分で淹れたコーヒーくらいしか飲まなくなったヨ。やっぱり自分で淹れたコーヒーが一番おいしいかラ」
一橋の額から良くない汗が滴る。
「淹れ方を変えたからと少しだけ期待した俺が馬鹿だった」
「なんて言っタ?声が小さくて聞こえなかったヨ。顔色もちょっと悪いみたいだし、体調でも悪いノ?」
チェンはそう言ってまたカラカラと笑いながら二口三口とコーヒーを美味しそうに飲む。
「まあ、何はともあれ、秋帆ちゃんが『魔眼』の持ち主の可能性はかなり高いと思うナ」
チェンが本題へと戻ったのを聞き、一橋は額の汗をぬぐって気を取り直す。
「にわかには信じがたいな。普通の女の子なんだろう?」
チェンはチッチッチッと指を振った。
「普通の女の子じゃないヨ。なかなかお目にかかれないレベルの美少女だヨ。白い肌に、ショートボブがよく似合ウ」
「論点はそこじゃねえんだよ」
まったく、と言って一橋は背もたれに深く座り直す。
「医者の娘だって言うんだろ?一般人じゃねえか」
「一般人が魔眼を持ってちゃいけないノ?」
「そうじゃねえよ。そうホイホイ魔眼の能力を使う人間が、今まで普通の人生を生きてこられているのがおかしいって言ってんだよ」
「んー、まあ、そう言われてみればそうなんだけド」
チェンは少し首を傾げる。
「お前の気のせいなんじゃねえのか?間近で美少女なんて見ちまったもんだから目の保養で痛みが吹っ飛んじまったのを、魔眼の能力と勘違いしたんじゃねえのか?」
「じゃあ、『私の眼を見てもらえますか』なんて初めて会った男に言ウ?」
チェンのその言葉に、一橋は黙り込む。そしていろいろと可能性を考えたが、やがて諦めたように言った。
「ここでウダウダ考えてもしゃあねえな。可能性がある以上、調べてみるか」
「そうヨ。案ずるより産むが易しってこト」
一橋がソファから立ち上がる。コーヒーはほとんど残ったままだ。
「今日中にその女の子の身元は探せるだろ。明日また来る。できるだけ早く行動に移りたいからな」
「えー、僕が調べるノ?それも今日中ニ?」
チェンが口を尖らせる。
「そういうのはお前の得意分野だろうが。四家というメジャーじゃない苗字で医院を開業していて娘がいる、これで探せないほうがおかしい。一般人でもできそうだ」
「う~ん、弁護士の個人情報請求っていうのはこういう調査では使えないヨ。むしろ『何でも屋』を名乗っているイッチャンのほうがするべきなんじゃない?」
イッチャン。チェンが一橋を呼ぶときの仇名だが、一橋はそれが気に入らない。先ほどよりもより一層不機嫌そうな顔をして嫌味を言う。
「司法試験受かっただけで弁護士会に登録もせず、表立って法律事務所の看板さえ掲げられねえ奴は弁護士って言わねえんだよ」
一橋の正論にチェンは何も言い返すことができない。ただ、黙っているだけなのは悔しいので、今度は話のポイントを一橋の仕事へと移す。
「ねえ、やっぱり『何でも屋』はやめたほうがいいよ。業務内容が広すぎるとお客さんからしてみると却って依頼しにくいものヨ。それに、『何でも屋』って響きが完全に危ない業界のそれだシ」
今度はチェンの正論に一橋が抗弁できなくなる。
「うるせえ。とにかく、明日の昼までだぞ」
そう言って一橋は事務所を後にした。
数日前に少し可笑しな猫好きを見かけた公園。あれ以来チェンがいないかと少しビクビクしながら秋帆は公園を通過した。だが、チェンの姿は見かけることはない。
この日も秋帆は公園の中の様子を伺いながら歩く。すると、ベンチに横になっている背の高い男性に気づいた。黒いシャツにジーンズ。恰好こそラフだが、きちんと手入れをされた服装は浮浪者には見えない。最初は暖かくなってきたので居眠りでもしているのだろうかと思ったが、少しするとそうではないことに気づく。苦しそうなうめき声をあげている。
数日前のことがあったので少し警戒心があったが、どうにも見過ごすことができず、秋帆は思い切って声をかけた。
「あの、大丈夫ですか?」
男はその声に苦しそうに顔を上げる。
「歩いていたら急に胸が苦しくなって……。でも、大丈夫です。少し休んで良くなるはずですから」
そう言うと歯を食いしばり、もう一度ベンチへと顔を突っ伏す。
秋帆は迷った。先日チェンに眼の力を使って疑いをかけられたばかりだ。
「救急車は、呼びましたか?」
男は顔を伏せながら左右に首を振る。
「訳あって保険証もお金もないんです……。救急車はやめてください。大丈夫ですから」
しばらく秋帆は迷っていたが、またしても仕方ないよねと自分に言い聞かせて眼を使う決心をした。周囲に他に人がいないことを確認すると、男に呼びかける。
「すいません、ちょっと顔を上げてもらえますか?」
男は不思議そうに苦痛に歪んだ顔を上げた。
「私の眼を見てください」
男と目を合わせて、秋帆は眼の力を使おうとする。その瞬間、男の様子が変わった。
「決まりだな」
苦悶の表情が消えた。秋帆はすぐに気づく。この人は何らかの理由で自分の眼の力を知っていて、それが本当であることを確かめようとしたのだと。
母親の、絶対に他人に教えてはいけないよ、という言葉が頭の中で再生される。どうしよう、という思いが浮かび、思わず声をあげそうになる。だが、秋帆の口からはなぜか何も言葉が出なかった。言葉を奪いとられてしまったようだ。
次の瞬間、男に左腕を掴まれた。
「逃げるな」
目の前の男の迫力に目が逸らせない。だが、パニックになりかけている秋帆の背後から別の男の声が聞こえた。
「秋帆ちゃん、ごめんネ」
聞き覚えのある語尾だった。
「チェ、チェンさん?」
今度は声が出た。
先ほどまで誰もいなかったはずの背後に、チェンが立っていた。どうやら近くの物陰に隠れていたらしい。
「はあー、やっぱり女の子には怖いよねエ。イッチャンのおっかない顔ハ」
ここまで走ってきたらしく、少し息が切れていた。一橋は秋帆の腕を離した。
「悪かったな、怖い顔で」
「ちょっと試すようなことしちゃってごめんなさイ。でも、放ってはおけなかったノ。一度会っただけの人間を信用しろと言っても難しいかもしれないけど、これだけは言わせテ。眼のことについては、絶対に他の人に言ったりしないかラ」
秋帆はまだ状況を飲み込めずにいる。
「このおっきくて厳つい男は一橋って言って、僕の相棒みたいな存在なノ。ちょっと眼のことについて話しておきたいことがあるから、ついてきてくれル?」
「相棒ではねえぞ」
「だから、みたいな、って言ったじゃなイ」
「それも不服だ」
「いいかラ。今重要なのはそこじゃないでショ」
そう言って今度は秋帆に両手を合わせ、頭を下げる。
「ねえ秋帆ちゃんお願イ。ちょっとだけ別の場所でお話させてくれないかナ。絶対に危ないことはしないかラ」
チェンのコミカルな言動に、秋帆は不思議なほど落ち着きを取り戻してきた。眼について知っているというのは不思議だが、悪い人ではなさそうに見える。もし本当に何か悪いことを狙っているのなら、誘拐のようなもっと力づくな手段にでるはずだ。それに、今からうまく逃げられたところで、噂を広げられる恐れがある。
結局秋帆が頷いて承諾の意思を見せると、チェンの表情が明るくなった。
「よかったア。信用してもらえテ」
信用したわけではないのだが、否定しても仕方がない。その言葉を聞くと、一橋はすっと立ち上がって歩き出す。
「あ、ちょっと待ってヨ。ごめんね秋帆ちゃん、不愛想な人間デ」
そう言って秋帆の手をひいて一橋の後を歩き始めた。秋帆は、いきなり手を握られたにも関わらず不快な感じはしなかった。それほどチェンの一連の動作は自然だったからだ。
「でもイッチャンって思ったよりも演技上手いネ」
「うるせえな」
チェンと一橋はあまり中身のない内容の会話をペラペラとする。
公園の近くに、一台の車が止めてあった。黒のスカイライン。
チェンが後部座席の扉を開け、秋帆に乗るように促す。これも極めて自然に。
「そうそう、悪いんだけど、スマホの電源は落としておいてくれル?万が一にも聞かれたら困る話だからネ」
少しドキリとする発言だったが、二人もスマホの電源を切っているのを見て、大人しく秋帆もスマホの電源を切った。秋帆とチェンが後部座席に乗り、一橋は運転席に座る。エンジンをかけると、一橋が声をかけてきた。
「しかしまあ、よく魔眼の持ち主が普通に暮らしているな」
言い方はぶっきらぼうだが、秋帆が落ち着いたせいだろうか、先ほどまでのような恐怖感は感じない。
「えっと、マガン、ですか?」
聞きなれない言葉に秋帆は反応する。
「あんたの眼のことだよ。悪魔の眼と書いて魔眼、だ」
悪魔の眼、そんな風に思ったことのない秋帆は少し困惑する。隣にいるチェンはその困惑をすぐに察した。
「名前については気にしないデ。僕らがそう呼んでいるだけだかラ」
秋帆はすぐに一つのことに気がつき、その問いを口にする。
「そういう呼び名があるということは、私のほかにも人を癒す眼を持った人を知っているんですか?」
チェンと一橋の空気が少しひりつく。バックミラー越しに一橋からチェンへと視線を送る。チェンは少し口に手をあてて考えたが、しょうがないか、といった感じで秋帆のほうを見た。
「半分正解で、半分間違イ。確かに僕らは魔眼の持ち主を他に知っていル。でも、魔眼の力は人それぞれ違っていて、秋帆ちゃんと同じ力は他の人は持っていなイ」
「どのくらいいるんですか?その眼を持つ人たちって」
新しい事実を聞いた興奮で、秋帆の口調は普段よりもはやくなっている。
「分からなイ。非常に少ないというのは確かだネ。僕らの知っている限りでは今現在生きている人間で魔眼の持ち主は秋帆ちゃんが3人目だヨ」
「もしかして、他の2人というのは?」
少し慎重に尋ねた秋帆の問いに、チェンが笑う。
「なんだか思っていたよりずっと鋭いから秋帆ちゃん相手だと話が楽ヨ」
そこまで言うと、一瞬だけチェンのまとってくる雰囲気が急に冷たくなった。猫のようだと思っていた笑みも、その瞬間だけは蛇のようになる。
「残りの2人というのは、僕ら2人のことヨ」
そう言い終えると、チェンの空気はすぐにいつもの柔らかいものに変わり、カラカラとした笑顔に戻る。
「おい、ちょっと喋りすぎじゃねえか?」
一橋がそうチェンに言った。
「ううン。知っておいてもらったほうがいいネ。そのほうが僕らの伝えたいことを分かってもらえるはずヨ」
一橋は少し考えて、息を吐く。
「まあいい。お前に任せる」
「秋帆ちゃんの能力は他人を癒す、って言ったよネ?『console』ってところカ。ちょっと詳しく聞いてもいイ?」
秋帆はチェンから目をそらして考える。この2人はすでに自分の眼について知ってしまっている。だが、だからと言って詳しく話してしまっていいものか。春奈の、他人には決して教えないこと、という言葉が再び聞こえてくる。
「ああ、そっカ。いきなり、あなたの眼のことを教えて、なんて不躾だったネ。相手のことを聞く前に自分たちのことを話しておかないとネ」
そう言うと、チェンは自分の眼を指さす。
「僕の魔眼の能力は、『overwrite』って言うノ。相手の記憶を上書きする能力だヨ」
秋帆は驚いた。
「え、すごい能力ですね。上書きってことは、相手の記憶を消して、自分の都合の良いものに書き換えることができるっていうことですか?」
チェンは少し自慢げだったが、小さくため息をつく。
「すごいでショ、って言いたいところだけど、非常に厄介なのヨ。発動条件があってネ。必ず相手に記憶を上書きすることについて質問をしないといけなイ。あなたの記憶をいじっていいですか、とかそんな感じニ。しかも、相手の意思が記憶を書き換えられるのは嫌だって拒否したら、『overwrite』は発動できないノ。不便でショ?」
そう言うと、今度は自分の眼を指さしていた指先を運転席に向ける。
「イッチャンの能力は『ban』って言って、相手の意思決定を阻害する能力だヨ。前もって相手にこういうことをしようと思わないように、って命令をすれば、相手はその行動をしようという意思決定ができず、その結果その行動ができなイ。ただし、あくまで意思決定を阻害するだけだから、もうすでに決めてしまった相手の意思は変えられなイ。端的に言うと、能力を使うには必ず相手の意思に先んじる必要があるヨ」
あまりに突然入ってくる自分の常識から外れた能力の説明に、秋帆は本当だろうかと疑う。だが、一橋の『ban』は心当たりのある能力だった。
「あの、もしかしてさっき公園で」
「ああ、最初に目が合った時にあんたに『ban』を使った。声を出す、っていう意思を封じるように。あの場で叫ばれたりしたら面倒だったんでな」
話に信ぴょう性が増した。
「まあイッチャンの能力のほうが便利だよネ。発動条件も緩いし、一度発動しちゃえば相手の眼が離れても数秒間は効果が続くシ」
眼について自分はまだまだ知らないことがたくさんあるのだということを秋帆は実感する。
「着いたぞ」
一橋が声をかける。窓ガラスの外を見ると、古ぼけたビルの前に車がついていた。ビルの側のパーキングで車を降りると、チェン、秋帆、一橋の順でビルの中へと入る。ビルの階段は狭く、人が二人並んで歩くのは窮屈なほどだった。
「ここ、ですか?」
人気のないビルに少し不安になった秋帆の呟きに、チェンが笑う。
「胡散臭い場所でごめんネ。でも家賃が安いしガラガラだから他のテナントとの揉め事もないし、けっこうオフィスとしては悪くないのヨ」
「あ、いえ。そんな」
階段を上る。陽の長いこの時期はまだ外は明るいのに、階段は暗くて狭い。壁紙もところどころ剥がれている。
3階に上るとチェンは左手に進路を取り、廊下を奥へと進んでいく。一番奥のガラス戸に、小さく『陣内法律事務所』と書かれた表札がかかっていた。
「ここが僕のオフィスでス」
「『陣内』ですか?」
「日本国籍を取るときに名前を『じんない』にしたの。戸籍上は陳に内と書いて『じんない』って読むんだけど、あんまりにも間違われるんでオフィスの名前は普通の『陣内』にしたってわけ」
そう言うチェンに、一橋が注釈をつけてくれた。
「こいつの身の上話は信用しなくていいぞ。俺が知る限り聞かれるたびに違うことを答えているからな」
「ハハハ。僕みたいな人間は出自なんて適当なほうがいいのサ」
チェンはそう言ってカラカラと笑いながらガラス戸を引き、秋帆に中へ入るように促す。中には応接用と見られるソファとテーブルがあったが、真っ先に目を引いたのはやはり大量に積み上げられていた書籍だった。
「こんなに一杯本が……すごいですね」
「女の子を招待するような状況ではないネ。お恥ずかしイ。まま、座って座っテ」
そう言うとチェンは給湯室らしき場所へ向かい、お茶とコーヒーどちらがいいかと尋ねてきた。一橋が間髪入れずにお茶と答えたので、秋帆もお茶でお願いしますと言う。
「はい、どうゾ」
そう言ってチェンは湯飲みに入れたお茶を2つ差し出す。一口飲んでみると、わずかな渋味と濃厚でいて爽やかな芳香が喉の奥に広がった。
「おいしい……」
「こいつお茶はうまいんだよ」
「そりゃあ中国人だからネ。本当はコーヒーのほうが自信があるんだけド」
そのやり取りに一橋が凄まじい顔をした。
それからチェンは立ち上がり、なにやらおかしな機械を手にもって部屋の中をウロウロと歩き回る。
「何をしているんですか?」
「ン?盗聴器検査だヨ。これから絶対に他人には聞かれたくない話をするから、一応ネ」
その言葉に、お茶で和んだ心が少し引き締まる。
チェンは一通り部屋の中をチェックし終わると、再び秋帆に向かい合うようにソファに座る。
「じゃあ、改めて魔眼の話に戻るけど、秋帆ちゃんの眼について詳しく教えてくれル?人を癒す眼っていうことは分かったけど、そのほかにも何かあるでショ?」
先ほど2人の魔眼について聞いていた秋帆は、もう自身の魔眼についての説明を拒むことはなかった。だが、実は自身の眼について知っていることは、自分の眼が相手の体や心の痛みを和らげるということだけだ。
「ごめんなさい。実は詳しいことは分からないんです。私が知っているのは眼を使った時の効果だけで、チェンさんや一橋さんのように詳しい条件とかそういうのは」
「今までいつでも使おうと思えば使えたノ?」
「ええ、まあ、今までは」
「そりゃあ便利な魔眼だヨ。僕のとは大違いダ」
「とは言っても、今までで使ったのはチェンさんに使ったあの時だけなので、本当は条件があるのかもしれないですけど」
秋帆のその言葉に、チェンと一橋が不思議がる。
「あの時だけ?生まれてから今までデ?」
その言葉を秋帆は手を振って否定する。
「いえいえ、そうじゃないんです。私の場合はこの眼をもらったのはほんの少し前のことなので」
チェンと一橋は驚いた顔で秋帆の顔を覗き込んだ。
「眼をもらっただと?そんなことができるのか?」
一橋の語気が強くなる。
「ええ。え、お二人は眼をどなたかから受け継いだわけではないんですか?」
チェンが口に手を当てた。
「いやあ、聞いたことがないヨ。僕らは生まれながらに魔眼を持っていタ」
その事実は逆に秋帆にとって驚きだった。
「じゃあ、眼をもらったのは誰かラ?」
「母です。今年の3月に亡くなったんです。その数日前に、私に眼のことを話して、もらう気はあるかって聞かれたんです。それで」
チェンと一橋は先ほどよりも大きな驚きを見せた。チェンはその細い目を限界まで丸くし、一橋は口をあんぐりと開ける。
「信じられなイ」
そう呟いてから少しして、チェンは自分の言うべき言葉を間違えたことに気づき、慌てて訂正する。
「あ、いや、ごめんなさいネ。お母さんのこと聞いちゃっテ」
「いえ、いいんです。でも、信じられないって?」
チェンは何と言うべきか少し迷っている。答えたのは、一橋のほうだった。
「忌み物である魔眼を受け継ぐなんて、与えるほうももらうほうもどうにかしているってことだ」
忌み物、という言葉を発するのにぴったりな、吐き捨てるような言い方だった。
「忌み物、ですか」
秋帆は戸惑った。母から、その先祖から代々受け継いだ眼。それを忌み物と呼ばれたことは大きな驚きと少しの悲しみを秋帆に与える。
「そう、忌み物だ。魔眼を手にした人間は普通の生活が送れなくなる。魔眼の力が知られれば、それを利用しようとする最低な連中に追いかけ回されることになるからな。裏の世界では魔眼の存在は一種の都市伝説になっているから、知られれば途端に世界中のくそったれに狙われる生活が始まる。そうなれば当然、周囲も巻き込まざるをえない」
秋帆は母がなぜ眼を極力使わないように言ったのかが分かった。そして、自分が軽率に眼の力を使ってしまったことを後悔する。
「だから、もう眼の力を使うのはやめるこったな。これまで上手く隠せてきたということは、あんたのお袋さんは眼の力を使わずに隠し通してきたんだろう。それを見習って、眼のことなど関係ない普通の日常に戻ればいい。あんたはまだ日常に戻れる。こんな自分も他人も不幸にするようなモンと付き合う必要はない」
口は悪いが、秋帆のことを思っての言葉だということは分かる。だが、秋帆は納得しきれなかった。
「分かりました。確かに、軽率に眼を使ってしまったことは反省しています。でも、この瞳の能力が必ず不幸をもたらすとは、私は思いません」
「何?」
一橋が眉を顰める。チェンも一橋と同様の感想を持ったようだ。
「私の母は、嫌なことがあった私を慰めてくれる時に、この眼の力を使ったんです。最初は痛いとか、辛いとか、悲しいとか、そういう感情が心の中にあふれているのに、母が慰めてくれるとそれが小さくなっていって、すっかり消えてしまうんです。残るのは、あたたかな母のぬくもりだけ」
秋帆はかつての母との思い出を思い起こしながら語る。大切な大切な、思い出。
「だから、眼を持っているからって、眼を使ったからって、必ず不幸になるとか周りの人を不幸にするとか、それは決まっているわけではないと思います。きっと、自分も他の人も幸せになれるような、そんな使い方があるんじゃないでしょうか」
秋帆の声は少し震えていた。
だが、秋帆の心情になどお構いなく一橋は突き放した。
「リスクが高すぎる。あんたと母親のケースは運が良かったが、身内からでも情報が広まる可能性はあるんだぞ」
その言葉を聞いても、秋帆の表情は変わらなかった。下を向いて、きゅっと唇を噛みしめている。チェンが困ったように笑って秋帆に呼びかける。
「僕らも今はこうやって普通に過ごしているように思えるけど、それなりに苦労をしてきたノ。だから、秋帆ちゃんにも同じようになってほしくないなって思ってル。イッチャンは口は悪いけれど、同じ魔眼を持つ先輩としてのアドバイスだから、聞いてやってくれなイ?」
なおも秋帆は下を向いて考える。その考えは揺るぎそうにない。その姿を見て、チェンはため息を一つつき、妥協策を提案する。
「じゃあ、一つ約束をしテ」
秋帆が顔を上げた。
「秋帆ちゃんも、その眼を気軽に使うのはまずいってことは分かったよね」
秋帆が頷く。
「それでも、どうしても使わないといけないと思った時や、誰かにその眼のことを疑われた時は、すぐに僕らに相談しテ。これ、ここの連絡先だかラ」
そう言ってチェンは自分の名刺を差し出す。『陣内法律事務所 所長 陣内 龍介』という名前と、住所に電話番号。
「わかりました」
秋帆もその案に納得したようだった。
「じゃあ、これで眼についての話はおしまイ。スマホの電源、入れていいヨ」
そう言われてスマホの電源を入れると、時刻が表示される。公園で会った時から、一時間以上が流れていた。
「あ、もうこんな時間。すいませんチェンさん一橋さん、私もう帰らないと。うち、お父さんと私だけだから、夕ご飯の支度しないといけないんです」
「ああ、ごめんネ。イッチャン、送ってあげテ」
「いえ、いいんです。帰り方は分かりますから。ちょっと寄りたい場所もあるし」
そう告げて残りのお茶を飲むと、バタバタと事務所から出ていった。
ガラス戸が締まったのを見て、一橋がふーっと息を吐く。
「甘すぎやしねえか?」
「そウ?」
「あの調子じゃあまたどっかで危なくなるぞ」
「その時はまたイッチャンに協力してもらうヨ」
そう言っていつものようにカラカラと笑った後に、少し寂し気な表情になる。
「『console』、カ。正直、羨ましいヨ。徹頭徹尾自分以外誰かのための能力じゃなイ。僕らの能力は自分のために使う能力だからネ。僕らも秋帆ちゃんみたいな能力だったら、同じように考えることができたのかナ」
一橋はただじっと秋帆の飲み終えた湯呑みを眺めていた。
両親とも医者だったために、中学生に入ったころから家の食事の準備は度々秋帆が担当するようになっていた。春奈がいなくなった今では、秋帆が家で父の岳彦の帰りを夕食を作って待つということがほとんどになった。
「ただいま」
玄関から岳彦の声が聞こえる。
「おかえりなさい」
病院勤務だったころに比べると、自分の医院を開業してからは夜勤がなくなったこともあり家族の時間が増えた。以前はそのことをもっと喜んでいた秋帆だが、今は春奈がいないことによる心の中の空間のほうが気になってしまう。
「おー、今日はカレーか」
カレーは岳彦の好物だ。
秋帆は二つの皿にカレーを盛りつけ、テーブルに並べる。
「たくさん食べて。少なめに作ったつもりなんだけど、二人にはやっぱりちょっと多かったみたい」
秋帆はそう言って笑う。取り繕うのがうまくなるのと、寂しさを忘れるの、どちらが先になるだろうかと、ふと思う。
食事をしながら今日あったことなどを話すのがいつもの夕食だったが、二人になってからは会話の間に入ってくる沈黙が変に気まずくて、テレビをつけて食事をするようになった。岳彦はそのことについて特に触れず、黙って受け入れた。
そして今日は、特に会話が少ない。テレビで陽気にやり取りをする芸人と司会者の声がリビングからやけに浮いていた。
秋帆は今日あったことを岳彦に相談しようか悩む。自分と同じ眼を持つ二人組。魔眼という名称とその取扱いについて。岳彦は秋帆が生まれる前から春奈が特殊な眼を持っていることを知っていた。秋帆が春奈の眼を受け継ぐことになる時も相談をした。
岳彦は普通のサラリーマンの家庭の出身だ。医師という職業に誇りを持ち、同じ医師である春奈がその瞳を患者のために使うということにも理解を示していたが、娘の秋帆が春奈の眼を継ぐことには内心反対していた。親心というものだろう、できることなら危険など冒さずに平凡に幸せを手に入れてほしいという気持ちがあったのだ。それでも、自分も医師になって母の眼と意志を受け継いでいきたいと娘に言われると、岳彦は反対できなかった。
口数が少ない分、いつもより早めに食事が終わる。だが、秋帆の皿はまだ半分ほどしか減っていなかった。
「何か、あったか?」
岳彦が聞く。秋帆は、ちょっとね、と言って胡麻化そうとしたがが、自分でも不自然だと思ったのだろう、すぐに困ったように笑う。
「隠し事するの、下手だね、私。こんなんで大丈夫なのかな?」
その言葉を聞いて、岳彦はなんとなく眼のことだと察しがついたようだった。
「眼のことでなにか、あったのか」
秋帆はスプーンを置いて考え込む。話したくはない。話すつもりはない。今日会って分かった。二人は自分と同じように、いや自分以上に自身の眼のことを他人に知られたくないと思っている。だが、目の前の父の姿に、少しだけその決意が揺らいでしまう。
母がいなくなって悲しいのは自分よりも父のほうかもしれない。だが、父はほとんどそういった様子を見せたことがない。そんな父なのに、今はいつになく自信なさげで頼りない。やっぱり自分じゃ母のように娘から信頼してもらえないんじゃないか、などと考えているのだとしたら、あまりにも申し訳ない気分になる。
「大丈夫だよ。お母さんとだってずっと秘密を守ってきたんだ。口は固い自信がある。だから、教えてほしい。その眼のことじゃないならいいんだ。でも、眼のことについては、お父さんにまで秘密はやめてほしい」
言うつもりはなかった。言うつもりはなかったのに、いつの間にか呟いてしまっていた。
「会ったの……」
「会った?誰とだ」
一言口に出してしまうと、もう自分の心の中に留めておくことは難しかった。どうしてこうなのだろう。最近目の前のことばかり優先しているような気がする。自分で自分が嫌になる。
せめて二人に関する情報は口に出すまいと思い、出会った二人がどこのどんな人間で、どんな能力の眼を持っているのかといったことは口にしなかった。最初はそのことを不安そうにしていた岳彦も、二人も平穏を望んでいる人間だから、ということを説明すると、渋々と納得したようだった。
ただ、一つだけ父に確認しておきたいこと、父に肯定してほしいことがあった。あの時は自分が正しいと思ったけれど、否定されて揺らいでいたこと。
「実はね、その人たちは私たちの眼のこと魔眼って呼ぶの。悪魔の眼って書いて魔眼。持ち主にも、周囲の人にも不幸が訪れるから、魔眼。だからその二人は自分たちの魔眼のことを他人に知られないようにしているし、私にも絶対にバレないようにしろって言うの。ねえお父さん。確かに悪戯に使うのは私も反対だけど、私の眼って本当に自分や周囲の人を不幸にしてしまうのかな?」
その言葉に対する岳彦の反応は、秋帆の期待していたとおりのものだった。岳彦は首を振った。
「いいや。確かに使い方を間違えれば人を不幸にするとは思うけれど、必ず不幸になるとは思わないな。刃物やダイナマイトと同じ、大事なのは使い方だ。お母さんは秋帆と同じ眼を持っていたけれど、周囲の人を不幸にさせたりはしなかった。患者さんだってお母さんの治療を受けたら痛みが楽になったって言って喜んでくれたし、何より僕と秋帆はお母さんと一緒にいた幸せだった。そうだろう?」
秋帆はほっとした。自分の考えに岳彦が賛同してくれたことが嬉しかったし、岳彦の言葉は自分の眼についての不安を和らげるのに十分な説得力を持っていた。そう、秋帆は春奈といて幸せだった。そのことは揺るがない事実だ。
「でも、眼のことは他人に知られないようにしたほうがいいっていうのはお父さんもそう思う。お母さんは医者だったから怪しまれることなく使えたけど、今の秋帆が使うと今回のように不思議に思う人がでるだろう。眼の力は、秋帆が医者になって患者さんに治療ができるようになるまでは使わないほうがいいな」
その言葉に秋帆は素直に頷く。岳彦は優しく微笑んだ。娘のことを心から思う、まさに父親の眼だった。
数日後、陣内法律事務所に一つの封書が届いた。中には「魔眼について」 という小さなプリンターの文字だけが書かれたコピー用紙が一枚入っていた。
それを受け、チェンは一橋に連絡をして事務所へと呼び出した。
「心当たりは?」
一橋の問いにチェンは首を左右に振る。
「情報が少なすぎるヨ。これしか書いていないんだもノ。心当たりはあると言えばあるけど、たくさんありすぎて絞り込めないネ」
一橋は送りつけられたコピー用紙をテーブルの上に放り投げると、冷淡な声で呟く。
「ま、タイミング的に一番怪しいのはあいつだな」
その言葉にチェンは眉をしかめ、少し考えた末に残念そうに認めた。
「まあ確かニ。タイミング的には秋帆ちゃんから情報が漏れたっていう可能性が一番高いネ。そうであってほしくはないけれド」
「だから言ったんだ。甘いって」
「まだ決まったわけじゃないでショ」
いつも通りの笑顔ではあるが、チェンも平常心ではない。
「この手紙の差し出し主が誰かっていう問題とは別にしてもな、あの件については『overwrite』を使っておいたほうが確実だったって話だよ」
「知ってるでショ。『overwrite』は一人に一回しか使えなイ。しかも書き換えられるのは僕が知っている範囲の記憶だけだから、秋帆ちゃんの中の自分の魔眼に関する記憶は消せなイ。どうせ自分の魔眼の記憶は消せないんだから、中途半端に『overwrite』使ってしまうと失敗したときに取り返しがつかないヨ」
「そんなのはどうにでもやりようがあるだろうが。俺らの記憶をすっぱり消して魔眼についての恐ろしい記憶でも植え付けて、ひたすらに魔眼については隠して生きようって思わせておくとか」
チェンも内心では『overwrite』を使ったほうが確実だということが分かっていた。だが、自分たちと魔眼に対して逆の考え方を持つ秋帆が母親と同じように魔眼を役立てるかもしれない、という希望がその選択をチェンにさせなかった。もしそうなれば、自分たちの魔眼への考え方も変わるかもしれない、という願望もあった。それを甘いと言われれば、そのとおりなのだけれど。
「ま、今となってはしょうがないでショ。大事なのはこれが送られてきたのをうけてこれからどうするのかヨ」
そう言った瞬間、一橋は口の前に人差し指を立てる。静かに、のポーズだ。
「誰か来るぞ」
耳を澄ますと、少しずつ歩く音と振動が近づいてくるのが聞こえてくる。二人の警戒心が一気に上がった。チェンは急いでテーブルの上のコピー用紙をポケットに入れる。
足音は事務所の前で止まると、事務所のガラス戸がゆっくりと開いた。
「すいません、失礼します」
落ち着いた動作で顔を見せたのは、岳彦だった。
「陣内先生はいらっしゃいますか?」
二人は先ほどまで秋帆の話をしていたため、似た雰囲気を持つこの男が秋帆の肉親であろうことはすぐに察しがついた。一橋はやっぱりな、と心の中で苦々しく思い、チェンは心底残念がって内心でため息をつく。岳彦がここに来たということは、秋帆が岳彦に自分たちのことを話したということだ。そして十中八九、あの封書の先出人は岳彦だ。
「はいはい、私ですが」
チェンすぐに心を切り替えいつもの笑顔で応じる。いつもの語尾を封印し、ビジネス用の自然な日本語に切り替える。
「わたくし、四家岳彦と申します。先日娘の秋帆がお世話になったかと思うのですが」
そう言って岳彦は名刺を差し出した。
「これはどうもどうも。陣内法律事務所所長の陣内龍介と申します。そうですね。娘さんとは数日前に少しだけお話をさせていただきました」
そう言って二人が名刺を交換する間に一橋は自分の座っていたソファから立ち上がり、岳彦にそこに座るようにすすめた。
「どうぞこちらへおかけになってください」
「はい。御親切にありがとうございます」
「私は助手の一橋と申します。助手になって間もないものですからまだ名刺がないのでご挨拶だけで失礼します」
そう嘘をつく。岳彦にも一橋の恰好や佇まいなどからそれが嘘であることは察しがついたが、特に問題にしなかった。お互いの関心ごとは、一橋の肩書きではない。
一応は自分が助手で所長がチェンだという体を守って、一橋が飲み物を準備しに給湯室へ向かった。チェンは岳彦の向かい側に座る。
「わざわざこんなところまでご足労ありがとうございます。本日はどうなされましたか?」
チェンはわざとあいまいな質問をする。初対面の相手には誘導尋問をするよりも、できるだけ多くを語らせることが情報を引き出すのに有効だと知っているからだ。
「この場で眼についてのことを、お話させていただいてもよろしいですか?」
岳彦はいきなり核心に入る。その言葉だけで、岳彦が二人が魔眼の知識を有していると秋帆から聞いたことが確定した。問題は、どこまで聞いたかだ。
「ええ。構いませんよ。ちなみに、どのように娘さんから聞いておられますか?」
岳彦は落ち着いて淡々とした表情のままだ。その様子から、岳彦がただの医者ではなく、相当弁の立つ人物のようだとチェンは推し量る。だが、その点においては負けまいという自信があった。
「実は、お二人については私は娘からほとんど聞いておりません。娘から聞いたのは、自分と同じような特殊な眼を持つ二人組に会って、眼の力を使うのは控えたほうがいいと言われた、ということだけです。その二人も自分たちと同様に眼について他人に知られたくないと思っていたからと言って、それが誰かは教えてくれませんでしたが、私の推測が正しければ、陣内さんと一橋さんがその二人なのではないかと思うのですが」
そう岳彦が答えると、一橋が飲み物を作ってグラスとコースターを差し出した。ミルクを添えただけのただのアイスコーヒーだ。岳彦は礼を言ったが、口をつけようとはしない。まだ警戒しているのだろう。
「それじゃあ関係者ということで、私も失礼してよろしいですか?」
一橋がそう言って岳彦の顔を見る。その質問が岳彦の質問への答えになっていた。チェンも眼について認めることは同じ判断だ。ここで下手に否定してしまえば、岳彦は勘違いだったと言ってそそくさと立ち去ってしまうだろう。それよりは、認めてしまって岳彦の真意を聞いたほうが良い。
「ええ。ぜひ」
そう言って岳彦が一橋の眼を見た瞬間に、一橋は『ban』をかけた。禁止する意思は「嘘をつく」という意思。チェンの弁舌についての自信は、この加勢が見込めるから、という部分が大きい。
「ご推察のとおり、私たち二人は四家さんが仰るとおりの特殊な眼の持ち主です。失礼ですが、娘さんから直接聞かなかったとしたらどのような理由で私たちが魔眼の持ち主だとわかったのでしょうか?」
チェンはゆさぶりに入る。一橋の『ban』が効いている状態なら、何かを取り繕った発言をしようとすれば必ず言葉が出なくなる瞬間が生まれる。
「先日、たまたま私が私用で家に帰った時、つい気になって娘の部屋に入りました。最初はあなた方についての情報を探すつもりはありませんでした。自分たちと同じような眼を持つ人たちと会ったというのは多感な娘に与える影響は大きいだろうと思い、親として少しでも変化の兆しがあれば見逃したくないという思いからです。普段は私が家にいる時間帯は娘も家にいますから、滅多にない機会だと思ったのです」
すらすらと言葉が流れる。
「と言っても、年頃になってからは私が娘の部屋に入ったことはなかったので、中を見ても普段とどう違うのかはよく分かりませんでした。ただ、本棚にあった昔のアルバムが目に止まりました。実は少し前に妻が亡くなったものですから、私も見たくなったのです」
「奥様のこと、娘さんから聞きました。心中お察しいたします」
「すると、中から真新しい名刺が出てきました」
「私の、ですね」
岳彦はこくりと頷いた。
「つい最近高校生になったばかりの娘が名刺をもらうというのは通常ないことです。しかも隠すように本の間にあるということは、私から知られたくないと思っている人物だということです。多分この人だろうな、と思いました」
「一橋がもう一人だと思った理由は?」
「大変失礼なことをしましたが、一通、こちらにおかしな郵便が届いたと思います」
チェンは、ああ、と納得してポケットからコピー用紙を取り出す。
「これのことですか?」
「ええ。お伺いした時に二人ともいらっしゃったほうが良いと思い、少し小細工をしました。これを見れば、不審に思ったもう一人に声をかけてこの用紙を見せるだろうと。そして昨日発送したのでこの時間なら着いているはずだと思って時間を見計らってお伺いしたわけです。大変申し訳ありません」
チェンは岳彦の策にのってまんまと一橋を呼び出したことを少しだけ悔しく思ったが、ここまでの話し方に不自然な点は一切ない。一橋は相変わらずじっと岳彦のことを見ていた。『ban』が発動し続けているということだ。
「なるほど。それで、なぜ我々二人に会おうと思ったんですか?」
「一つは、お礼を申し上げたかったからです。」
「お礼、ですか」
「はい。正直言って娘はまだ子どもです。私も眼のことについては心配していたんです。ちょっとしたことで周囲にばれてしまうんじゃないかと。お二人から眼については秘密にしたほうが良いと言っていただいたおかげで、ずいぶん顔つきが変わりました。自分の眼について、改めて覚悟ができたんでしょう。感謝しています」
いえいえ、と言ってチェンは頭を下げる。一橋は『ban』を継続するために視線は逸らさず両手を目の前で振ることで対応した。
「そしてもう一つは、お願いです。お二人なら十分お分かりかと思いますが、娘の眼のことについては、なんとしても秘密でお願いしたいのです。今まで私の知る限りでは誰にも知られることなくきました。だが、それが知られたとなると、いくら娘が大丈夫だと言っても親としては心配になってしまうのです。馬鹿な親だと思われるかもしれませんが、もしかしたらこの人かもしれないと思うと、いてもたってもいられなくなりこうしてお伺いしたというわけです」
岳彦の言い分のおかしさには二人ともすぐに気づいた。岳彦がここに来て改めて二人に会ってみたところで、秘密の保持が確かになるという保証はまったくない。むしろ、危険性のほうが高いくらいだろう。
だが、その一方で親としての心情についても理解する。娘の眼の秘密を知る人間が家族以外にもできた。そうなれば、理屈としては間違っていても自分でも何かしなければと思ったとしてもおかしくはない。
何より、一橋の『ban』の効いているのだ、本心であることは間違いがなかった。一橋を横目でちらりと見やったが、こくりと頷いた。嘘は言っていない。
「そうですか。大丈夫です、僕らも四家さんの立場だったら同じことをしていたかもしれません。安心してください。僕らも自分たちの眼については世間に知られてほしくないと思っている人間です。娘さんに関する情報は絶対に漏らしませんよ」
チェンがそう言うのを聞いて、岳彦はほっとした表情を見せた。
「ありがとうございます。直接その言葉を聞けて安心しました。もちろん、わたくしどももあなた方お二人のことは決して口外いたしません。お約束します」
そう言って岳彦はぺこりと頭を下げる。話は以上のようだ。
今回岳彦が来た理由をチェンが頭の中で整理する。特に重要な用件はない。安心したかった、という心理的な部分が一番大きいだろう。であれば、二人のことを覚えてもらっても利はない。
チェンの太ももを一橋が軽く叩いた。すでに「嘘を吐く」ことを禁止する『ban』は解いている。今度こそやるぞ、という合図らしい。それをうけて、チェンは仕上げに取り掛かる。
「では、ここにいる三人……いえ、娘さんを含めて四人が秘密を保持する同盟ということになりますね。最後に、その同盟の固い結束を誓い合って終わりにしましょう」
岳彦は納得したように頷いた。同盟を締結するための友好の合図としてチェンが握手を求める手を差し出すと、一瞬躊躇したようだが少し笑って岳彦も手を出した。
「あ、こっちからのほうがいいですかね」
チェンはそう言って先に一橋を握手をするように求める。一橋が手を差し出し、お互いを見ながらしっかりと握手をする。そうしてから次に、チェンがあらためて岳彦と握手をする。
「これで、同盟成立ですね。ですが、その前に……」
そう言ってチェンは岳彦の眼を除きこんだ。岳彦が不思議に思ってチェンの眼を見つめ返す。
「ちょっと、記憶をいじらせてもらいますネ」
チェンは『overwrite』を発動する。いきなりの信じられない申し出に、岳彦の脳は反射的にチェンの申し出を拒否しようとする。だが、一橋が先ほど眼を合わせた時に『ban』を発動していたことで、拒否の意思は禁じられた。それによってチェンは『overwrite』の発動条件を満たす。
時間が止まったかと錯覚するほどの深いしじまが光のごとく通り過ぎていった。二人の仕上げは終わっていた。
「それじゃあ、今回の件に関しては以上ということで」
いつもより一層目を細めた満面の笑顔でチェンが声をかける。その言葉で岳彦はすぐ我に帰った。
「ああ、どうもありがとうございました。それでは私はこれで失礼します」
岳彦はそう言って席を立ち、事務所を後にした。
出入り口の扉が閉まり気配が遠ざかっていったのを確認してチェンがため息をつく。
「ふう、やっぱりあんまりいい気はしないネ。この能力ハ」
「今回はどういう風に記憶を書き換えたんだ?」
「まず秋帆ちゃんから僕らの話を聞いたことや今日ここで話したことは当然忘れてもらったヨ。そして、過去に四家医院で治療を受けた患者が死亡し、その原因が四家医院の治療ミスに遡るとして提訴する考えでいるというストーリーに書き換えたネ。それから訴訟の代理人として僕を立てたけど、今日遺族から死亡した病院の医療ミスが発覚したから四家医院への提訴はしないことになったと連絡があったので、この件についてはお騒がせしたけどこれでお終イ。そんなとコ」
「それ、娘と会話になったら辻褄が合わなくならねえか?」
「母親を失ってまだ日が浅い状態の娘に、そういう自分の仕事の問題を話して余計な心配をさせる親ではないでショ。単純な相手側の勘違いだったということが分かっているから、少し時間が経てば忘れてくれるだろうしネ」
「なるほど」
そう説明すると、岳彦が手をつけなかったアイスコーヒーをチェンが飲む。
「うん、おいしイ」
「冷蔵庫に会ったパックから注いだだけだぞ」
「いいや、イッチャンに注いでもらったから格別ヨ。なんていうノ。思いが詰まった味、とでも言えばいいかナ」
「ああ、そうか。最初からお前が飲むと分かっていれば呪いを込めて注げたのにな」
悪態をついでに、帰るぞ、と言おうとした瞬間に、気配が再び近づいてくるを感じた。
「おい、また来るぞ」
「誰だろ?」
「足音のリズムや音量がさっきと同じだ。戻ってきたんだな。どういうことだ。『overwrite』で余計な記憶を入れちまったんじゃねえだろうな」
「いや、それはないヨ。確かに僕は言ったとおりの上書きをしタ」
気配が近づいてくる。二人の緊張感が高鳴る。
だが、ガラス戸を開いたのは、申し訳なさそうな顔をした岳彦だった。
「すいません、こちらに財布など忘れたりはしていないでしょうか。階段を下りている途中でポケットにないことに気づいたのですが、どこに置いたかわからなくなってしまって。もしかしたらこちらに忘れたものかと思ったのですが」
それを聞いて二人は安心した。『overwrite』を使う際には念入りに記憶を書き換えるので、時々消そうとしたこと以外の記憶も一緒に消してしまうことがある。今回の場合、不運にも自分で置いた財布の場所を忘れさせてしまったのだろう。少し申し訳ないなと思いながらも、自分たちの魔眼が失敗したわけではないことに胸を撫で下ろした。
「ここでは椅子に座っただけなので、あるとしたらこのあたりなのですが」
と岳彦が言うので、一橋は先ほど岳彦が座っていた椅子のあたりを覗き込む。
「なさそうですね」
「申し訳ないのですが、椅子の下も確認していただけますか?」
確かに、事務所で使っているソファの下には小さな物なら入り込んでしまうくらいのスペースはある。万が一と思い、一橋はソファを持ち上げ、チェンが本当にないかを確認するために先ほどまでソファがあった場所を覗き込む。
その瞬間だった。
「―ッ!!!」
バチリという音とともに、持ち上げられていたソファが床に落ちる。一橋は声を発する間もなく倒れこんだ。
チェンが慌てて視線を上げると、火花を散らす黒い物体が襲ってくるのが目に入った。咄嗟に体をかわす。
そのままの勢いで後ずさりそし、岳彦を見る。スタンガン手に持ってこちらをにらんでいる岳彦の姿があった。
「どうしテ?」
状況が飲み込めずにチェンが叫ぶ。岳彦はにやりと笑った。
「約束はしたがね。今日初めて会った相手だ。完全に信用しきれたわけじゃない。君たちには申し訳ないが、娘の秘密のためだ。消えてもらおう」
その回答は、自ずともう一つの事実をチェンにつきつける。
「効いていなイ?」
確かに魔眼の能力は相手の意思に作用するものなので、自分では相手に効いたかどうかの感覚はない。だが、確実に自分は『overwrite』を使ったはずだ。チェンは納得がいかない。一橋が魔眼を発動させなかったとも思えない。
「眼の情報を知る人間は君たちだけではないということだよ」
そう言って岳彦が襲いかかる。スタンガンは体の大きな一橋を一撃で行動不能にしてしまうほどのものだ。市販のものではない。食らえばひとたまりもない。
チェンは後ろ手に掴んだものを手あたり次第岳彦に投げつけながら距離を取る。幸いにして事務所内は本で溢れているので、投げるものが不足することはない。ダメージは与えられないが、飛び道具に岳彦が一瞬怯む。
チェンはそのまま事務所の奥にある自分の部屋へと逃げ込んだ。慎重になっているのだろう、岳彦はすぐには追ってこない。
武器が必要だった。体格などから一橋を優先して行動不能にした岳彦の選択は正しい。チェンは戦闘については素人。何か対抗できるものがなければ、武器を持った人間を相手には闘えない。
包丁のある給湯室に逃げるべきだったかと思うが、今更そんなことは言っていられない。かろうじて手に取ったのは、机の上にあったボールペン。武器としては心もとない。
岳彦が部屋に入ってきた。チェンは様々な策を考える。頭の中を超高速働かせ、あらゆる可能性を探す。ダメでもともとと思いながらも、魔眼を発動できないかと思い眼を睨みつけてみる。岳彦と眼が合ったのは一瞬だった。岳彦は万が一を警戒し、すぐにチェンを直視しないようにする。
一瞬だけ合った岳彦の眼が、少しだけ秋帆の眼と重なる。そのことで、秋帆と出会った時のことを思い出した。そういえばあの時、秋帆はカラーコンタクトをしていないかと聞いてきた。あれは確か、秋帆が『console』を使う前のことだ。
「コンタクトレンズ!」
チェンは解に辿り着いた。
「ご名答」
岳彦は春奈から聞いていたのだ。眼鏡越しでは眼の効果が弱まり、それは色付きのものであればより一層弱くなることを。そして事務所へ来るにあたって眼の情報を知る二人がそのまま魔眼の保持者である可能性が高いと思い、特殊なコンタクトレンズをはめてきた。
「ここまでうまくいくとは思わなかったよ。最初に訪れた時は、君たちは警戒していて僕から目を話すことはなかった。だが、僕と目を合わせて記憶をいじらせてくれと言った後、君たちは明らかに警戒心を緩めた。最初は浅かった呼吸が深くなっていったので分かりやすかったよ。後は少し作戦を練ってから再訪し、隙をつくだけ」
じりじりと確実に岳彦はチェンに迫ってくる。
追い詰められたチェンは意を決し、岳彦へと向かっていく。胴体部分は的が大きいが、手にしたボールペンで即座に相手を行動不能に陥らせる急所をつくのは難しい。懐へと潜る動きを見せながらも、右手に握ったボールペンを岳彦の喉へとめがけて突き刺す。
しかし、岳彦は両手でしっかりとボールペンの攻撃を受け止める。読まれていた。
それでもまだチェンにとってそれは想定の範囲内だった。即座に目標を切り替える。両手で自身の右腕を抑えた分、今度こそ腹部ががら空きになる。次の目標は腹部でもっとも相手を悶絶させられる可能性が高いみぞおち。
チェンの左アッパーが岳彦のみぞおちへと突き刺さる。
「ぐあっ!」
だが、悲鳴を上げたのは岳彦ではなくチェンの左手首だった。人間の腹ではなく、何か固いものを叩いた感触。
「ボディアーマー……カ」
しかし、岳彦も少しよろめいた。
「もう少し厚手のものにしてもよかったかな。シャツの下でも不自然でないようにと思ったが……」
そう言ってから少し呼吸を整え、いよいよ武器のなくなったチェンに電撃を与えようとする。チェンは再度自分にできることを探すが、何も思い浮かばない。
さすがに万策尽きたかと思った瞬間、岳彦の背後に人影が見えた。
「そこまで、だ」
部屋の入り口から小さく声がした。岳彦がその声に驚いて攻撃を中止し振り返る。
「馬鹿な!立てるはずが!」
立っていたのは一橋だった。明らかにダメージを受けているが、しっかりと戦闘の構えをとる。左手を開いて前に突き出し、右手は握って喉元に置くオリジナルの構え。
「思い通りにとまではいかねえがな。スタンガンを持った医者をとっちめる程度ならわけねえ」
そこからは一橋には簡単な闘いだった。わざと相手の射程に入り、攻撃を誘発する。武器を持っている素人は必ずそれで攻撃をしてくる。スタンガンのみに注意を払いバックステップで交わすと、前に突き出した左手を使い、掌底で的確に岳彦の顎を打ち抜いた。
岳彦は糸の切れた人形のようにどさりと崩れ落ちる。
「お父……さん?」
秋帆の声が響いた。
一橋は岳彦が行動できないように手足と口を縛る。
チェンは秋帆を宥め、ソファへと座らせる。なぜ秋帆がここにいるのかは聞かず、丁寧に丁寧に、ことのいきさつを説明した。秋帆はチェンの説明をじっくりと聞いてくれたが、どこまで頭には入っていっているかは疑わしい。
少しすると、一橋がやってきた。
「大人しくしているよ。声を出そうとも藻掻こうともしない」
疲れ果てたようにチェンの隣に腰を掛ける。
「どこまで説明した?」
「ほぼ全部だヨ」
「そうか……」
静寂が訪れる。時計の針の音と少しずつ整っていく一橋の呼吸のおかげで世界が回り続けていることをなんとか実感できる。秋帆は一点を見つめたまま動かない。
どれくらい時間が流れただろう。一分と経っていないような気もしたし、一時間経ったような気もした。最初にその空気を壊すことになったのは一橋だった。
「『console』のおかげだ」
何のことかと思ったが、すぐに理解できた。一橋があのスタンガンを浴びてすぐに動けるようになった理由だ。
「意識はあったし幸い心臓にも影響はなかった。ただ、体が動かなかった。動け動けと思っていたら、以前聞いた足音が近づいてくるのを感じた。入ってきたらすぐに眼を見て、『ban』を発動した。声を出すな、ってな」
「なるほど、それで何の物音もせずにイッチャンが回復していたわけネ」
チェンは秋帆を見る。まだ、一点を見つめたままだった。先ほどのやり取りは聞こえていなそうだが、一つだけ言わなくてはいけないことがある。
「来てくれて、ありがとウ。助かっタ」
そう言ってチェンは頭を下げたが、秋帆はそれが自分に向けられたものだということも気づいていない様子だった。優しかったはずの父親が他人を襲ったという事実のダメージはあまりにも大きい。
チェンは、もう一つ言わなくてはいけないことに気づく。
「ごめんなさイ」
そう言って頭を下げる。一橋も何も言わずに頭を下げる。
どこで違えたのだろう。こうなるはずではなかった。いくらでも回避することはできた。最初にチェンと秋帆が会った時に、チェンが変に怪しまずに気のせいだと思えていたら。ここで魔眼の説明をした時に、一橋の言うとおりに『overwrite』を使っていれば。岳彦が来た時に、魔眼について知らないと言って追い返していたら。だが、そのすべてが後の祭りだ。
「どうして……」
ふり絞るように秋帆は震えた声を発した。
「もしかして、嘘なんじゃないですか?何もかも。そうだ。チェンさんは眼の能力で記憶を書き換えることができるんですよね?どこかで私の記憶を書き換えたんじゃないですか?そうですよ。だって、父が人を殺そうとするなんてありえないですよ。あの優しい父が……」
狼狽しながら早口で一気にまくしたてると、左目から一筋の涙がほほを伝った。自分の言っていることが事実ではないのだと、本当は理解している証だった。
少し冷静になって、俯く。
「父がここに来ているだろうことは、知っていました。家に帰って母との写真が写ったアルバムを開くと、あの日挟んだチェンさんの名刺の向きが逆だったんです。一目で分かりました。ああ、父もこのアルバムを開けたんだなって。自然にページを開けた拍子に名刺が落ちて、向きが分からなくなったんだって。そう考えたら、私にばれる前に父がここへ行くであろうと思って、私も急いでここに来たんです。でも、まさかこんなことになるなんて……」
秋帆の言葉はどんどんぐしゃぐしゃになっていく。
「ちがう。ダメですね。こんな言い訳みたいなこと言って。私が悪いのに。私が人前で眼を使ったりしなければ。私がお二人のことを父に話さなければ。こんなことにならなかったのに。ごめんなさい。最低ですね、私……いや、私たち」
そこまでが限界だった。あとは、嗚咽だけが響いた。チェンと一橋はすぐに気づいた。嗚咽がもう一つ聞こえてくることに。意識を取り戻し、話を聞いていたのだろう。
傾いてきた陽差しが事務所のブラインドから漏れ、部屋にまだら模様のシルエットを映していた。光と闇の対比が、やけに目に眩しい。
「5歳ぐらいから盗みを繰り返していたガキもいる」
一橋が秋帆をじっと見つめながらぽつりと呟いた。秋帆は腫れた目で一橋を見る。
「親はそれをやめさせようともしなかった。万が一捕まっても子どものしたことなら謝って物を返せばほとんどの奴はそれ以上追及してこないからな。ガキは大きくなると盗みだけじゃなく様々な悪事に手を染めた。最初は親の気を引くためだったが、いつの間にか自分のためになっていた」
そこまで言うと眼を瞑り、ソファの背もたれに深く身を投げて話すのをやめた。
その様子を見てチェンが少し微笑むと、秋帆のほうを向いた。
「物心ついた時には家も両親もなかった子どもは、物乞いをして生きタ。でも、それだけでは十分に食べていけないから、やがて親切そうな人を襲って金品を巻き上げるようになっタ。その欲はだんだん大きくなっていって、やがてはさらに暗い社会の闇へと入っていっタ。闇の中では、人の命をもてあそぶような事もたくさんしタ」
秋帆は二人の顔を交互に見る。チェンはニコニコと笑っていて、一橋は目を瞑ったままだ。
「その子どもたちはその後、どうなったんですか?」
「自殺しタ」
チェンはそう言ったが、すぐにぺろっと舌を出す。
「と、言いたいところだけど、のうのうと生きているヨ。過去の自分たちは死んだ、これからは心を入れ替えて別の人生を歩むんだ、なんて都合の良いことを思いながらネ」
いつものようにカラカラと笑う。
秋帆はしばしぽかんと二人を見ていたが、もう後から涙が溢れることはなかった。左手の袖で、涙をぬぐう。
「私も、やり直します。たとえ一人になったとしても、大丈夫です。私には幸せな思い出がありますから。幼いころからの、大事な、家族の思い出」
秋帆はくしゃくしゃの顔で笑った。赤い目をにっこりと細めて。
それを見てチェンの笑顔も変わった。いつもより少し控えめだけど、心からの笑顔。隣にいる一橋も、眼を閉じているが微かに口角が上がっている。
「ねえ、イッチャン。もうちょっと無理してもらっていイ?」
「ああ」
そう言って二人が何かを確認すると、一橋がソファから身を起こす。チェンはゆっくりと大きく伸びをした。
「どっちからだ?」
「ま、お父さんのほうからだろうネ」
そう言うと二人は奥へと向かう。それからいくつか小声で言葉のやり取りをしてから、岳彦の拘束を解き、岳彦と目を合わせた。
そして再び秋帆の元へと戻ってくると、チェンは秋帆に声をかける。
「ねえ、秋帆ちゃん、色々なことがおこって大変だろうけれど、覚えておいテ。秋帆ちゃんは一人じゃないってこト。お父さんがいて、お母さんがいル。お父さんは秋帆ちゃんのことを何より大切にしているし、お母さんはその眼を通して秋帆ちゃんを見守っていてくれていル。それを、覚えておいテ。僕からのお願いは、それだケ」
その言葉を聞いて、秋帆は少しキョトンとしていたが、やがてチェンの言葉の意味を少しだけ理解し、頷く。
「ええ、忘れません。私、絶対に忘れません」
チェンの『overwrite』だけが発動した。
「どうも、お世話になりました」
そう言って秋帆と岳彦が事務所を後にした。足音が遠ざかっていく。
「今度こそ間違いねえだろうな」
「それより、病院に行ったほうがいいんじゃなイ?あれだけ盛大に電気を浴びたんだかラ」
「必要ねえ。それより、本当に大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫ヨ。二人とも眼に仕込みがないことは確認しタ」
「記憶はどんな風に?」
「相変わらず、医療訴訟の代理人である僕のところに来たってストーリーだヨ」
「それじゃあ二人ともここに来たのがおかしくねえか?」
「おかしくないヨ。秋帆ちゃんに関しては僕ら二人についての情報は消してないかラ。消したのは、お父さんが僕らを襲ったという部分だケ」
「はあ?」
一橋が怒った顔でチェンを見る。
「もっと正確に言うと、お父さんが僕らに関わったことでトラブルが起きそうになったから、お父さんの記憶を僕が『overwrite』した、というストーリーにしタ。だから、秋帆ちゃんがお父さんに対して僕らのことを話すことはなイ。もしお父さんから秋帆ちゃんに僕らの話をしたとしても、『overwrite』された記憶だと思って適当に話を合わせてくれるヨ」
一橋はなるほどといった顔をしてみせたが、すぐにもう一つの疑問に気づく。
「確かに問題は起きねえかもしれねえが、俺らの記憶を残しておいた理由になってねえぞ」
チェンは仕方ないなあと言いながらいつも通りニコニコしている。
「理由は二ツ。一つは、秋帆ちゃんがお母さんから魔眼を受け取ったという記憶までは消せない以上、秋帆ちゃんは今後の人生でどうしたって魔眼と付き合っていくことになる。だったら、万が一魔眼を使ったり話題にしてしまったりした場合には僕らのところに相談に来られるようにしたほうが安全だってこト」
そう言って事務所内を歩き、ブラインダーを閉ざして陽の光を遮断した。室内が暗くなったので、蛍光灯をつける。だがそれでも、太陽の光には及ばない。
「もう一つは?」
チェンはその質問には答えず、ブラインダーの一部を開いて外を眺めた。秋帆と岳彦が車に乗り込み、駐車場を出ていくところだった。
「イッチャンも人が良いね。僕らを殺そうとした人を記憶を書き換えるだけで許すなんテ」
一橋は少し極まりが悪そうにする。
「それは俺だけの判断じゃねえだろ。それに、一般人に下手なことしてみろ。面倒になるだけだ」
チェンの視界から二人が乗った車が消えた。外の夕陽はすでに西の山の稜線に消えようとしているところだ。これから街は自身に明かりを灯す。一つ一つの光が、ストーリーを描く。良いストーリーと悪いストーリー、どちらが多いだろうか。
「それにな、あの親父さんが何か悪さをしたか?家にネズミが出たら、病気を運ぶ前に自分や家族のために駆除しようとするだろ。それと同じことだ。何も悪いことはしてねえ」
「フフッ。イッチャンらしいネ」
チェンはいつものように笑顔で取り繕う。だが、その笑顔にいつものような軽さはない。
「でも、ネズミだって生きいル。たまに、ふと思うんじゃないかナ。なんで僕は生きているんだろう、なんでいつも人間に狙われるんだろう、自分だって何か人間の役に立っているんじゃないかな、なんテ」
何かに困ったような、どんな顔をしていいのかわからないような、間違っていると分かっているけれど口から出さずにはいられない時の子どものような、笑顔。
返答がないのでチェンは振り向いて一橋を見たが、目は合わなかった。一橋が見ていたのは、この事務所からはるか離れた、どこか遠く。眉間にしわを寄せ、何かを探すようにじっと目を凝らしている。
チェンは一橋のその様子が何かに似ているなと思う。そうだ、星を探している人の目だ。それも、一等星や二等星ではない。見えるかどうか分からないぐらいの淡い光の星を探している人の目。
やっぱりズルかったかもな、と思った。年下の女の子に任せず、自分で見つけるべきだ。魔眼を持って生まれたことや、自身のこれまでの生き方を呪う暇があるのなら、自分でできることを探すしかない。無責任でも、厚かましくても、そうやって未来を見ていくしか道はない。そして見つけたら、何を言われようが自分を信じて動くしかない。そうしないと、自分も魔眼もいつまでも腐ったままだ。
チェンの笑顔がいつもどおりになったのをどうやって感知したのか、一橋が顔を向けた。
「で、もう一つの理由は?」
「ふふ、なんだったかナ。忘れたヨ。適当な男だからネ」
チェンは散らばった本を拾い、元あったように重ねる。そう、できることから始めればいい。一つずつ、一つずつ。
その年は暑くなるのが異常なほど早かった。瞬く間に梅雨が終わり、まだ世間が夏へと気持ちが切り替わらないうちに陽射しはアスファルトを灼き、陽炎を作り出す。
その灼熱にこの都会のビル群もその化けの皮を剥がすのではないかと思いながら一橋は喫茶店の中から外を眺めていたが、そんなわけはなくただ景色がゆらゆらとゆれるだけだった。
そうしていると、見知った顔が視界に入る。気づかなかったふりをしたが、向こうも気づいてしまったらしく、いつもどおりの軽薄な笑みでこちらに手を振ってきた。
それでも無視を決め込んでいたのだが、あちらから喫茶店に入ってこようとしたので、慌てて自分から店をでる。
チェンが笑いながら挨拶をしてきた。一橋は自分の時間を邪魔された抗議の表れとして無視をするが、案の定チェンはお構いなしである。
「あの件以来、たまに来るんダ」
あの件、というのは察しがついたが、場所がどこのことを指しているかは分からなかった。
頭の中にクエスチョンマークを浮かべたが、構わずチェンはスタスタと歩き出した。自分から絡んでおいてどういうことかと思ったが、気になるのでついていく。
少し歩くと、秋帆と出会った公園に着いた。
「ここのことか」
一橋はその公園のことを忘れていた。存在自体を忘れていたというよりは、意識しなかったので先ほどまで自分がいた場所が公園の近くだと言うことを忘れていた。
「夕方に来るとたまに会うヨ。制服じゃないから気づかなかったけど、学校帰りみたいネ。たぶん私服通学の学校ヨ。ま、会うと言っても、お互いにちょっと会釈をする程度だけれどモ。この間は友達と楽しそうにお喋りしながら歩いてタ」
チェンが木陰になっているベンチを見つけて腰を下ろす。一橋はベンチの反対側に座る。二人組にしては遠いが、他人にしては少し近いような、絶妙の距離。
「珍しく良い報告だな」
「イッチャンも会ってみたラ?平日の夕方にいつも通るヨ」
「冗談じゃねえ。安否確認は一人で十分だ」
そう言ってベンチを立つ。もう少しくらい、と引き留められるかと思ったが、チェンの放った言葉は一言だけだった。
「またネ」
いつもは「ばいばイ」と別れるチェンがそう言ったことに少し違和感を抱く。今チェンが口にした言葉は、別れの挨拶であり、再会の約束でもある。
二人が会うのは、魔眼を使う必要が生じた場合である可能性が高い。だが、チェンの言葉に悲壮感はない。むしろ、再会を楽しみにしているような響きさえあった。
「ああ、またな」
チェンの約束に応える形で言ったその言葉は、自分でも驚くくらい爽やかだった。この暑さのせいで自分の頭が馬鹿になったのもあるだろう、いや、むしろそうだろう、などと頭の中で無理矢理納得する。
本当にその女の子の笑顔が自分たちのおかげで保たれたものなのか、自信はない。もしかしたら、自分たちが余計な手出しをせずに放っておけば、あんなことはなく、平和に女の子は暮らしていたのかもしれない。母親の死からもしっかりと立ち直って、父親と二人で。自分たちが女の子に与えたものは、余計なものだけだったのかもしれない。
だから、報酬は未来に受け取る。報酬はワインのように年月とともに熟成されるはずだ。今はまだ酸味が強すぎる。もっと時間が経てば、味わいが出てくるだろう。なんなら、自分たちが死んだ後でもいい。むしろ、そのほうが良い。その女の子が長生きをして、大切な人に囲まれて、幸せに息を引き取る。その時にもらうのが、一番良い。
今年の夏は熱くなればいい。普段は暗く湿った場所にも、少しだけ太陽の恵みを運んでくれるといい。そう思いながら、一橋は眩しさに目を細めながらも空を見上げた。思わず笑ってしまうほどの青が、広がっていた。
設定はたくさん考えに考えたんですけど、コンテストの3万2千字上限という文字数設定により使わないもののほうが多くなりました。『ban』の発動条件とか、『console』の効果が実は安定していないこととか。
もし続きが読みたいという方がいたらその辺の設定を生かして続編書くかもしれません。
他にも、つまらないでもこうしたらより面白くなるのにとかでもいいですので、ご感想ぜひお聞かせください。