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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

娼婦と情景

作者: 饒平名

 わたしが唐牛で覚えている母親というものは、背であった。鏡に向かい粉をはたきながら、布団の中で眠れずにぐずるわたしに子守唄を歌っていた姿のこと、それが母という女に関してのおぼろげな記憶であった。母親は、太陽が顔を西の向こうに隠してしまい始めた頃、夕方と夜との境界があいまいになりゆくころに起き、夕方さえも尻尾を巻いて逃げてしまった後の真っ暗闇の中、空に銀色や金色の星々やら月やらがパレイドを繰り広げ始めた頃に、わたしを布団に入るように促していた。そのころにはもう、母親がわたしに向けるのは口先ばかりの子守唄だけで、まなこは自らの顔面、鏡にうつる白い顔に夢中であった。赤い口紅を引く前に、母親は布団で母親の後ろ姿を見るわたしの額にやさしく口づけをおとしては、またわたしから目を逸らして赤い口紅を塗るのである。母親の子守唄は、わたしが夢の中に入ってしまうころまでずっとずっと、続いていた。やさしい歌を聞きながら、わたしは布団の中に頭まですっぽり入れて、眠ったふりをした。わたしが布団の中で起きているとも知らずに、母親は「おやすみなさい、善い子」とわたしに言って、きっとわたしの頭のあるあたりをひと撫でした感触を、布団ごしに感じたあと、ほんの少しだけ布団から顔をだした。玄関のほうへと向かう母の後ろ姿、背中を見せた母は家に戻るまで、わたしのほうを振り返ることはない。わたしの母親が、夜の街へと消えてゆくときのドアが閉まるときの音はいつもさみしいのである。


 わたしの知る母親の姿は、慣れたくも無かったさみしい背中だけになってしまった。夜の街に出かけたきり二度と家に戻ることのない母親の背、あの日来ていた洋服がどんな色をしていたとか、どんな声で歌を歌っていたとか、それらを含めた母親という母親の姿が、わたしの中で実体を失いはじめたのか──知らぬ間に消えてゆく母親のすがたが、わたしの中の元の母親の姿に戻ることはなかった。わたしが年を取るにつれ、母親のぴんと伸びた背の色も、はたいていた粉の色も、塗っていた口紅の色も、わたしの中にあった母親という母親の姿は、おぼろげになり、わたしが見たものなのか、それともわたしの記憶の中で都合の良いものへとつくりかえられてしまったのかの境目すら見失いつつあった。若しかしたら──もしかしたら、もう一度、母親に会うことが出来ればきっと思い出すことが出来るのかも知れぬが、実体の見失ってしまったものを探すということは、ひどく骨が折れることである。「なあに、その歌」わたしの横で、わたしの口ずさむ音を聞いた女がそう、言った。あの日母親が出て行ったときに着ていた、派手な色をしたスカートを身に着けている女であった。「……わからない」「へんなの。でも、歌を知っていてもタイトルが分からない歌って、あるよね」女の、赤い口紅で彩られた唇がわたしに向かって開かれた。唇の向こう、女の白い歯が見え隠れしている。「知っているの?」この歌のことを知っているのかと、そう問うた。女は「いいえ。初めて聞いたもの」と、女は困ったように笑っていた。「あなたがこの歌について知れたのならば、おしえてちょうだい」「どうかな」「あら、次お店に来るときでも良いのよ」


 母親がどのような声で、わたしにあの子守唄をうたっていたのかすら思い出せなくなってしまったのは、わたしへの罰なのだろうか。もうわたしが、善い子ではなくなってしまったからこのような罰を受けているのだろうか。わたしは大げさに首を振って、頭の中を支配しようとする杞憂を振り払った。善い子にしていたときから、母親の姿はすっかりわたしの中から勝手に消えていってしまったのだから、わたしが母親のことを探さなかったことこそが罰であるに違い無かった。母親の歌っていた子守唄がどのような声音で、どんな気持ちが込められていたのかを知る術を、わたしは持たぬ。

 

 わたしの目の前には女が転がっている。女の着ている派手なスカートは、目も当てられないほどに無残な姿であった。わたしの目の前でただ、みっともなく腹を開いて転がる女の姿、まだ女が、まだわたしの目の前で赤い唇を開いていた時は何となくであるが、母親に似ているのだとそう勝手に思っていた。だから、わたしは答え合わせをしたのだ。あの女は、わたしの母親が歌った子守唄のことを知らぬと言ったのであるが、もしかしたら──そのもしかしたらに賭けて、その賭けに勝ったのであるが、結局は負けているのである。女は正しく、母親ではなかったのであるが、たしかに、母親と同じではあった。肉が硬くなる前にと腹を裂いたときに出てきた女の子宮は、わたしの母親にも正しくある部品であった。わたしは、意識のしないうちにあの歌を口ずさんでいた。「おやすみ、──」そう、女の額に口づけを落としはしなかった。わたしが正しく思い出せるのは、母親の歌っていたあの子守唄だけである。その言葉にどのような意味が込められた歌であるかなど調べる気も起きなかったが、少なくとも、わたしが女の腹を割き子宮が収まっていることに対して母親を見つけたような気になって安堵するこの瞬間に歌うようなものでもなければ、母の面影を探し肉体を刃物で抉られた女に対してささげる歌でもないことだけは確かだろう。口紅が中途半端に取れたところだけが青白くなっているのが薄気味悪い。あの唇からは母親の歌がこぼれることはこれまでになく、これから零れる機会も永劫に失われてしまった。その機会を摘み取ったのは、紛れも無くわたしであった。もうこと切れている女の肉体をひっくり返してみたところで、わたしの記憶の中にあるおぼろげな母親の背とは似ても似つかない。女と母親の共通点はただ、目の前に広がる女だったものの腹にも子宮がひとつだけあったことくらいか。「どこへ行ってしまったの」と、そう顔も思い出せぬ母親に向かって問うたところで返事はどこからも降っては来なかった。母親の消えてしまった夜の街を、今日もわたしは歩いている。母親の声を、歌を、背中の形を、すっかり思い出せなくなってしまうまでに母親を探すことはできるのだろうか。わたしが母親を見つけることができるまでに、母親の姿かたちが消えてしまうことが、なによりも恐ろしくて仕方が無い。わたしがもう母親の歌った子守唄も、母の背中のことも思い出せなくなってしまうまえに、はやく母親の背を見つけなければ。

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