張り手
ついに始まった小木による鉄拳制裁。田代はプライドの牙城が崩れる音を聞きながら、自らの過ちを反省する事になる。そして、岳は…
良和が蛍光灯の紐を引っ張ると、不機嫌そうな田代の顔が照らし出された。
ただでさえ印象の悪い角ばった眼が、鋭く小木達を睨みつけている。
田代が胸ポケットから新しい煙草を取り出そうと手を伸ばした瞬間、小木が叫んだ。
「臭ぇから吸うなって言ってんだろ!」
叫び声と同時に、田代は小木にロッキングチェアもろとも真後ろから蹴り飛ばされた。
田代は何が起きたか分からない、といった表情のまま平静を装うため、落とした煙草を床に這いつくばって探し始める。
しかし、その脇腹を小木が間髪入れずに蹴り上げた。
「ぐんぎぃ!」
と、言葉にならない短い悲鳴を上げると、田代は横腹を抑えながら小さく蹲る。
何故蹴られたのか、理解が出来なかった。
頭を冷静にさせようと思う間もなく蹴り飛ばされた為、防御する為に身体が勝手に丸まっていくのを感じた。
怒りよりも恐怖が次々と湧き上がる。次第に、手が震え出す。
小木に抵抗したところで勝目はない。岳と良和もきっと押さえにかかるだろう。とにかく、ここを逃げ出さなければならない。いや、逃げたら「ダサい」と思われる可能性もある。
いや、腹を蹴られたからではなく、急な腹痛の為に帰った、と後で言い訳しよう。
そう思い立ち、田代は猫が獲物を狙い定めて飛び出す時のような姿勢で離脱体勢に入る。
低い姿勢から足元に力を込めようとした矢先。田代の背中に、小木は両手で拾い上げたロッキングチェアを容赦なく叩きつけた。
背骨を通り越し、首に痛みが走る。
田代の背中で跳ね上がったロッキングチェアはリビングに置かれたテーブルにぶつかり、部屋の片隅まで勢い良く転がって制止した。
この部屋全てが、既に小木の空間だった。田代の逃げ場は何処にも無かった。
逃げられない事を理解し、痛みに耐えかねた田代がついに声を上げた。
「お、俺が何したって言うんだよ!?」
「うるせぇ!臭ぇ口で喋んな!」
田代の言うことに聞く耳を一切持たない小木が、その頭頂部を力任せに拳で殴りつけた。
鋭く鈍い痛みの為、田代の顔は大きく歪む。
「い、いってぇ……」
「怖いか?おぉ?オメーよりな、もっと怖い思いした人がいるんだよ」
「誰だよ!俺は何もしてねぇよ!」
二人を見つめる岳が、腕組みをしたまま静かに言った。
「おまえ、純君に何したん……?」
「何したって……何も……してねぇよ……面倒は見てやってるけどよ……」
「おまえ、寝てる純君の布団の中に毎晩潜りに行ってたんだろ?夜中に人ん家、入ってさ」
岳の突然の指摘に田代は動揺した。全てバレていたのだ。
あの大人しい純が岳達に告げ口するはずがない、いや、誰にも言えないだろうと高を括っていた。
それ故に何度も何度も、純の温もり欲しさに純の寝ている部屋へと足を運んだ。
純は抱かれた瞬間に自分を拒否したものの、ほぼ毎日、布団への侵入を許していたではないか。
何故だ?少しは心地良かったはずじゃなかったのか?
痛みと羞恥心が田代の感情の逃げ場を次々と奪って行く。涙が滲み、視界が歪む。
しかし、高くそびえるプライドの城は崩れてはいなかった。
田代は決して動揺を悟られまいと、岳に赤い目を向けながら言った。
「それが……どうしたんだよ!?」
「おまえがどうかしてんだよ。おまえ馬鹿だろ?不法侵入だぞ。家も近いのに。純君の父さん母さんにバラしたらオマエん家とも揉めるぞ。大問題だろ」
「お……親は関係ねぇ!」
「関係あんだろ。純君、怖くて怖くて何も言えなかったってよ。眼の隈作ってたぜ。何で純君の布団の中に潜ったん?ホモなん?」
「うるせぇ……知らねぇよ……」
「あっそう。知らないか。そう」
岳は小木に目で合図を送ると、煙草を吸う為に外へ出た。
これ以上何を聞いても、何を話しても時間の無駄だと判断したのだった。
全て、小木の拳に任せるしかなかった。
山に近い空は柔らかな橙色、その上には黄色がかった空が広がっている。
アパートの周りには畑と雑木林、家が数軒建っているだけだった。
春を過ぎた暖かな空気の中に、畑の土の匂いが混じる。
岳が心地良さそうに深呼吸する間、背後からは何かを叩いたり落としたりする音と、短い悲鳴が延々と鳴り響いていた。
しかし、外は何処で何が起きようと、静かなままだった。
煙が浮かび、山の方向へ向かって消えて行く。反対側の空を眺める。
遥か先の空の下で過ごす友利を岳は想う。
その空の色は、何色かも想像出来ない。
ドアノブを回し再び部屋へ戻ると、田代は壁際に立たされていた。
その姿は「直立不動」という言葉が当てはまった。
良和は胡座をかいて田代を見上げている。
小木が田代の首を絞め上げながら
「謝れよ!」
と叫ぶ。
岳は二人のやり取りを見物客のように良和の隣に腰を下ろし、見上げ始めた。
田代が目元を腫らした顔で泣き叫ぶ。
「ごめんなさい!」
「嘘つけこの野郎!」
小木が田代の腹を殴る。田代が謝る。声が小さい、と殴る。田代が謝る。気持ちが足りねぇ、と殴る。田代が謝る。嘘つけ、と殴る。それが何度も繰り返される。
岳と良和はその様子をどこかさめざめとした気持ちで眺めていた。
田代に対し、二人は既に情の欠片すら失くしていたのだった。
謝る田代、殴る小木というやり取りを、「見飽きた映画みたいだ」と岳は感じていた。
興奮した小木は台所へ向かうと、引き出しを開けて何かを漁り始めた。
その隙に逃げればいいものを、田代は従順に立ったまま、岳と良和を眺める。
田代が無言で横にかぶりを振る。それを見ながら岳と良和は薄笑いを浮かべながら、同じように横にかぶりを振った。
岳が後ろを振り返り小木をぼんやり眺めていると、小木が嬉々とした様子で取り出した物は果物ナイフだった。
直立不動の田代の顔の前に、小木はナイフをちらつかせた。
「テメェ!純君に謝る気持ちあんなら指詰めろよ!テメェの汚ねぇ指持ってってやっからよ!」
こめかみに血管を浮かばせながら怒鳴る小木の気迫に、田代が鼻水を垂らしながら泣き叫ぶ。
「嫌です!」
「ナメてんのかコラァ!指詰めろよ!早くしろテメェ!」
「いやぁぁあああああ!」
そう叫び、田代は膝を抜かした様子で自らの左指を右手で覆いながら、その場にへたり込んだ。
男ってのはよぉ、常に無頼じゃなきゃいけねぇ。俺は誰にも頼らねぇ。
俺は何が起きてもビビる事はないぜ。
背中で語れる男に俺はなるからよ。
がっちゃん、ロック貫こうぜ。
田代の力強い「男の美学」は、その叫び声と共に岳達の目の前でついに崩れ去った。
今目の前に居るのは純の家へ不法侵入していた事を暴かれ、恥を掻かされ、殴られ、蹴られ、そしてプライドを完膚無きまでに破壊され、自らの命を守る事だけしか許されない小さな化け物と化した田代だった。
「ゆ、指はやめてぇー!指は、いやぁー!」
「うるせぇ!指持って行くんだからよ!さっさと指出せコラァ!」
「やぁー!やめてぇぇええ!」
声を裏返らせへたり込む田代の指を掴み、果物ナイフを突きつけようとする小木。
良和と岳は真面目な顔でその光景を眺めていたが、田代の狼狽ぶりに互いに笑いを堪えるのが精一杯だった。目を合わせたら噴出してしまいそうだった。
学校でも、家でも、寝ている時でさえも、純は何も言えずに苦しんでいた。
もしも、田代を抜きにして自分達の前でも言いたい事さえ言えなかったとしたら、純にとって一体何処が純の居場所になるのだろうか。
どこに居ても、誰と居ても、安心も出来なければ怖くて本音を話す事も出来ない。
それが純にとって、実はどれほど孤独で辛い事か。
昼休みにイヤホンをして一人俯く純の姿を、田代はきっと何も知らないのだろう。聞かされてもいないだろう。
何も知らない人間は純のそんな姿を見て「きっと好きでやっているのだろう」と、思うのだろう。
いや、違う。
そう思った矢先、岳の中で突然何かが弾ける音がした。
瞬間的に爆発した感情は、岳を咄嗟に立ち上がらせた。
岳は小木を下げさせ、へたり込む田代を見下ろすと顎で合図した。
「立てよ」
指を抑えながら、田代が弱々しく立ち上がる。
その泣き腫らした目が「助けてくれ」とでも言いたげに岳を見る。
岳の頭の中で「懇願」という文字が浮かび上がり、即座に「拒否」という文字が浮かび上がる。
死にかけた小動物のように小刻みに揺れ動く田代の眼を見詰めながら、岳が言う。
「歯、食いしばれ」
岳から田代へ渡されたのは、希望や救いの言葉では無かった。
一縷の望みを砕いた岳の言葉に、田代が息を呑んだ次の瞬間だった。
歯に力を込め終わらないうちに、全身の力を込めた岳の張り手が田代の頬を叩きつけた。
火花が散ったような音が部屋に鳴り響き、田代が頬を抑えながら再びへたり込んだ。
「あぁぁぁぁぁ!」
と激しく泣き崩れる田代を、岳は静かな怒りを持って眺めていた。
「もう純君家に行くなよ。あと、ここにも来んな。くっだらねぇ」
吐き捨てるようにそう告げると、岳は煙草を手に外へ出た。
煙草に火を点け
「張り手って意外と痛くないんだよな」
と、田代を握り拳で殴らなかった自分の行動を疑問に思い、岳は首を傾げた。
先程までの黄色がかった空は鮮やかな紫色へと変わり果てていた。
そして、空気の中の土の匂いは、いつの間にか消えていた。
遠くの空は、どこまでも黒かった。




