マウント
純が目撃したのは見知らぬ男子生徒の前で怒りの表情を浮かべる知恵の姿だった。その真相は…。
体の芯から冬を感じられるようになった季節になると、純はダッフルコートを、岳はロングコートを着て通学し始めた。
朝の寒さに震えながら校門を抜け、自転車置き場から校舎へ向かう。
後から来た米田が挨拶代わりに純の背中を叩き、岳の髪を背後から触る。
「ふざけんなよ!髪触るのやめろよ!セット崩れんだろ!」
「本気で怒るなよ!朝からおっかねぇなぁ……。じゃれ合いとか普通にするだろ?しない?」
歩きながら髪を直す岳の代わりに純が答える。
「そういうの、がっちゃんは絶対しないんさ。がっちゃんにふざけて雪だるま投げた時あってさ、その時も真顔だったもんね?」
「余計なエネルギー使いたくないんだよ。疲れるから」
米田が首を傾げる。
「岳、やっぱおまえ変だよ。神経質かと思えば先輩に手出すしなぁ」
「まだ何もしてないって!」
「おまえはこれからされるんだよ。そろそろ謎の男が出て来て金取られるぞ」
「そういうんじゃないよ……。あぁ、寒い……」
その時、岳の体が揺れた。誰かが背後から岳の背中を叩いた。
振り返ると知恵だった。
「おはよ。ずっと後ろに居たの、気付かなかった?」
「いや。全然。おはよう」
「注意力が足らないねぇ。今日も頑張ろうね」
「うん。頑張ろう」
そう言って先に行く知恵が一瞬米田を睨んだように見えた。会話を聞かれていたのかもしれない。
純がにやけながら岳を肘でついた。
「がっちゃんタメ口かい?いいね」
「うん。色々話しているうちに自然と」
「なんか甘酸っぱいなぁ。いいなぁ。ちきしょー」
「ははは。悔しがってくれ」
米田が「あのさぁ」と口ごもる。
「どうしたん?」
「俺、あの先輩に嫌われてね?」
「あぁ。気のせいじゃないかもしれない」
「何だよ!早く別れちまえ」
「付き合ってないよ」
「おまえら何がしたいんだよ。見ててモヤモヤすんだよなぁ」
「話したいだけかな。俺は好きだけどさ」
「あー!イライラする」
教室へ辿り着くと人の熱気もあり、寒さが和らいだ。
窓の外の陽射しは暖かそうなのだが、外の空気は完全に凍てついている。遠く見える浅間山は雪を被っている。
「平和だ」
昼休み、純はのんびりした口調でそう呟く。それはイコール「暇だ」という事であった。
夏休みも純と岳はベイシアのフードコートに居座り続け、二人で「暇すぎて暇死する」と文句を言い合っていた。
あまりに暇なので純は教室を出て校内を散歩する。
一階まで下り、自販機で甘い飲み物を買おうとすると、学食までの渡り廊下で大人しそうな男子生徒と知恵が話しているのが目に入る。
腕組をしたままの男子生徒の前に立つ知恵の顔は、怒っているようにも見えた。
純は扉の陰に身を潜めて様子を伺った。すると、男子生徒が突然踵を返しこちらへ向かってくる。
男子生徒と入れ替わるように、純は扉を抜けて自販機の前へ向かった。
知恵と目が合う。知恵は力の無い様子で微笑む。
「どうも。こんちわっす」
「こんにちは。猪名川君、今いないよね?」
「あぁ。音楽室に行ってるみたいです」
「そう。なら、いいんだ」
一瞬辺りを見回し、知恵はいつもの微笑を取り戻す。
「なんかありました?」
「ううん。直接言うからいい」
「そうですか……。分かりました」
「君、彼女いないの?」
「いないっす」
「へぇ。勿体無いね。私の友達が君の事カッコイイって言ってるからさ」
「いやー、まいったな。ありがとうございます」
「オッサンみたいなリアクションするねぇ。お姉さんは朗報を伝えに戻るわ。じゃあね」
「あぁ、はい」
純は知恵の後姿を眺めながら「なるほどな」と呟く。岳が知恵の事を好きな理由が少し分かった気がしていた。
容姿がタイプだという事は気付いていたが、見た目に反して芯の強そうな知恵の振る舞い方に魅力を覚えるのだろうと感じていた。
バナナ牛乳を飲みながら教室に戻ると、岳は既に教室に戻っていた。
「がっちゃん。先輩に会ったよ」
そう声を掛けると岳の表情が一気に明るくなった。
「マジ?何か話した?」
「いや、挨拶だけ。あの人の脚、少しO脚気味だけど良いねぇ」
「線が綺麗なんだよな。まじまじ眺めたいけど、実際会って話す事少ないんだよなぁ……」
「一年と三年じゃあ中々機会ないもんね。デートでも誘えば?」
「付き合えたら……誘う」
「堅いなぁ!あー!やだやだ。考え古いよ」
純は笑いながらも知恵の表情を思い返していた。何かに思い詰めているような、何かに困惑しているような顔だった。
放課後になり米田と内山、そして岳と純は四人で階段を下る。寄居に存在する数少ないカラオケボックスに行く予定だった。
四人が下駄箱へ向かうと生徒の群れの中に立つ知恵が見えた。
岳の姿を見つけるなり、その手を強引に引っ張る。
「猪名川君、暇?」
「うん。暇……」
米田が背後で「薄情者!」と言ったが、岳も知恵もその声に反応しなかった。
三人は文句を言いながら岳を置いてカラオケに向かう。
「知恵ちゃん、どうしたの?」
「ううん。ただ話したくなっただけ。もう生徒会の仕事もないし、放課後時間出来たから」
「そうなん?そっか……」
「うん。時間大丈夫?」
「大丈夫」
二人は壁にもたれ掛かり、横並びで帰りを急ぐ生徒達をぼんやりと眺め始めた。
何人かが壁際に揃って並んでいる二人に視線を移したが、特に気にしなかった。
岳はいつもより口数が少なく、何処か落ち着きのない様子の知恵が気になって仕方なかった。
誰かを探しているようにも見えた。
すると、通り過ぎていったはずの背の低い大人しそうな男子生徒が、二人の前まで戻って来る。
その姿を見るや否や、知恵は酷く冷たい目でその生徒を眺める。
岳は男子生徒よりも知恵の醒め切った視線に目を奪われた。
男子生徒は知恵の前に立つと眉間に皺を寄せた。伸ばしっぱなしの髪の毛。太い眉。どう見ても冴えないグループの人種だった。
知恵が抑揚のない声で言う。
「昼間もそうだったけど、何?もういいよね?」
「この一年がそんなにいいのかよ」
「あんたに関係ないでしょ」
「俺、一年なんかに負けてんの?おまえさぁ」
名前も知らない相手に「おまえ」と呼ばれた岳は一瞬にして怒りが沸点に達した。何も言わずに殴り掛かろうかと思った矢先、知恵が岳を制した。
「猪名川君。ダメ」
「おまえ、猪名川っていうのか。俺はな、ずっと知恵ちゃんが好きだったんだよ」
知恵に制された岳は何とか冷静でいようと務める。握った拳を解くと、急速に身体を巡った血液が一気に胃に集中していくのを感じた。
「好きだから、何なんですか?」
「何なんですか、じゃない。こそこそと知恵ちゃんに近寄りやがって……。俺は見てたんだ」
「ちゃんと見てたの?近寄ったの私からだよ。文句ある?」
知恵の言葉に男子生徒は絶句した。知恵は岳の袖を握り、構わず続ける。
「猪名川君と話したいから、今もこうしてるんだし。もし猪名川君に変な事したらタダじゃ済まさないからね」
「なんでなんだよ。ずっと……好きだったのにさ……」
「知るかよ。昼も言ったけど私はあなたを好きじゃない。気にもしてない」
「くそ……。何だよ。くそ……」
そう言うと男子生徒は下駄箱へ向かい歩き出した。
知恵は姿が消えるのを確認すると岳に頭を下げた。
「本当、ごめん。変な事に巻き込んじゃって」
「いや……。大丈夫。さっきの奴、何なの?」
「私の事好きなんだって。最近猪名川君の事がやたら目に付いたみたいで、アイツなんなんだとか急に煩くて。彼氏でも何でも無いのにさ」
「ふーん……。頭、病気なんじゃねぇの?」
「そうかもね。流行のストーカーって奴?ギャル男みたいなのだったらヤラせなきゃいいだけだけど、あぁいうタイプっていつまでも絡んで来るからさぁ。最初からマウント取ってショック療法した方が良いと思って」
「それは確かに。正解だね」
岳はストーカー男子からマウントを取る為に知恵に掴まったのだろうと思い、床に置いていた鞄を拾い上げた。用事が済んだのだな、と少し寂しい気持ちになっていた。
「ちょっと、帰っちゃうの?」
「え?」
「話そうよ」
「うん」
岳は喜びを取り戻すと、素早く床に鞄を置いた。
「実はちょっとね、怖かった」
そう言って気の抜けたように笑う知恵に、岳は胸を打たれた。
「ごめんね」
「凄い迫力だったよ。人殺しの目みたいだった」
「何それ!失礼だなぁ!」
二人の笑い声がひと気のない下駄箱に響き渡る。
それから二人は放課後になると下駄箱の横で自然と待ち合わせて会うようになった。




