水を濁すのは
岳は「着替えるのが面倒臭い」という理由でプールの授業を見学していた。
プールの授業が行われるようになってから、ふと思っていた疑問を岳は体育女子教師の松久にぶつけた。
「先生さぁ。何で男子を見るのが女の先生で女子を見るのが男の芦野なの?おかしくね?」
「おかしくねって、おまえ見学だろ!全く」
「あぁいうのってセクハラとか言われるんじゃねぇの?」
「芦野先生には芦野先生の考えがあるんだろ。私も時々あの先生の事が分からなくなる時、あるけどな」
「俺はずっとわかんねーよ。なんか、気持ち悪いし」
岳が視線を向けると芦野が女子生徒の手を掴んでバタ足をさせている最中だった。女子生徒は泳ぎがあまり上手くはないのだろう。必死になってバタ足をしている。
「もっと、そう。足をあまり開かない。そう、開かない」
「足を…はい!」
「もっと力を抜いて。ちょっと、一旦やめよう」
「はい…」
芦野が目を細め、笑顔を作り女生徒と向き合う。
「君はそんなに息をあらげて、足を広げて…。ねぇ?」
「あぁ…。はい…。すいません…」
「なんで足が広がっちゃうのかな?」
「自然と…すいません…」
「ははは!自然と君は足を広げちゃうんだね。男の前でね…」
「え?もう一度…いいですか?」
「いやいや、自然と足が広がるのは緊張してるからだね。まずは、水に慣れるといいんだね」
「は…はい」
その日の午後。純達がプールでふざけているのを翔は楽しげに眺めていた。芦野が翔に近付き、声を掛けた。
「君、まだ見学してるんだね」
「はぁ?医者から止められてますから」
「うん。そうか。おしゃべりする相手がいないから退屈なんだねぇ。ねぇ?」
「いや、別に。見学も慣れてますから」
「一人でいるのは寂しいんだね。本当は、そう思ってるんだね」
翔は芦野が何か企んでいるように思えた。怪訝な顔を隠さずに芦野へ向ける。
「見学が寂しいと先生が思うなら勉強させて下さいよ。時間も有効に使えるし」
「僕はそんな勝手な事、認められないんだね。皆が体育を頑張ってる時に一人で勉強をするなんていうのはね、悪い子の考えなんだね」
「何が言いたいんですか?」
「事情はあるけど君の成績表、体育に関しては覚悟しておいて欲しいんだね。見学も多いし、やっぱり考え方が悪い子のままだからね。そんな子には良い評価あげられないんだね。おしゃべりは体育じゃない。それじゃ」
「ちょ、え?」
翔は理不尽過ぎる芦野の言い分をすぐに理解出来ずに居た。そして、ようやく理解し飲み込めた頃には莫大な怒りのエネルギーが身体を満たして行くのを感じていた。
芦野は相変わらずプールサイドに立っては女子生徒達に性的な目を向け続けた。廊下で女生徒と擦れ違った際にはブラウスの上からブラジャーの線を指でなぞり
「今日は、水色なんだね。夏だからかな?おしゃれさんなんだね」
と声を掛ける事まであった
そして、事件が起きた。
プールの授業途中で二年の女子生徒が水着姿のまま職員室に泣きながら飛び込んできた。
受験対応で授業を自習にしていた大河原が駆け寄る。スペイン校長も交え、事情を聞き出す。
「芦野先生が…あたしのあそこジッと見ながら…たわしを持って「何かに似てるね。何だと思う?知ってるよね?もうこうなってるのかな?」って…。怖くなって…それで…」
大河原とスペイン校長はただ事ではないと、顔を見合わせた。
芦野はすぐに呼び出された。
その後は女生徒とその両親に直接芦野が謝罪したという噂話がすぐに流れ始めた。
「もう迷惑は掛けない」と宣誓したとも言われていた。
芦野は「セクハラ教師」の烙印を全校生徒達に押された。これが翔にとっては絶好の復讐の機会となった。
懲りることなく女生徒の水着姿を芦野が眺めていると、何処からともなく絶叫が聞こえて来た。
「芦野ぉぉぉぉおおおお!!」
その声に驚いた芦野は後ろを振り返るが、誰も居ない。その次の授業の後も、その後も、芦野を呼ぶ絶叫は繰り返された。
授業中に叫ばれる時さえあるその声の主は自習時間の多い三年生のものに違いなかった。
日に日にその声の頻度も人数も増えていった。いつ何時、それが例え授業中であっても聞こえてくる「芦野!」という叫びに、芦野は多大なストレスを感じ始めていた。
翔が始めた復讐は芦野の名を離れた場所から絶叫するというものだった。
自習時間にベランダから翔は叫ぶ。
「次は音楽の授業だからな。良い発声練習になるぜ」
翔はそう言うと満足そうな笑みを浮かべ、次第に賛同する者が現れた。芦野へ向かい露骨に叫ぶ者も現れた。
校内のあちこちから飛び出す「芦野!」の声は鳴り止む様子を見せず、芦野を追い詰めていった。
セクハラ問題が持ち上がっていた為、芦野を庇い、生徒を諭す教師も皆無であった。
芦野がプールサイドを掃除していると純達がプール場に向かって歩いてくるのが見えた。芦野は目を合わさぬようにデッキブラシに視線を落とす。
「なぁ。良い子だったらセクハラしてもいいんだろ?」
「あったりまえじゃん!セクハラしてもここならクビになんねーんだから」
「触りたい放題だな!」
フェンス越しに彼らが芦野の真横を通り過ぎる。夏の暑さと緊張が芦野の身体を鈍く、重たくさせた。翔が芦野の真横を通りながら、聞こえるように言う。
「触りたい放題だけど、一人でいるのは寂しいんだね」
その言葉を受け、一瞬にして全身の力が抜けるのを芦野は感じたが、それを堪えるようにデッキブラシの柄に全ての力を込めた。
芦野が出来ることはただ一つ。彼らの卒業を待ち望むという哀れなその一点に尽きた。
こうして彼らの熱は加速し、生徒で濁った水をカルキが浄化する夏も加速していった。
その年、正攻法が通じない生徒達に手を焼いた学校側は「生活支援員」という肩書きの女性を学校に置くようになっていた。
神戸児童連続殺傷事件などもあり、生徒のPTSDへの対策なども叫ばれていた時代だった。
放課後、いつものように5組の教室で純達が下らない話や悪ふざけをしていると、とある中年女性が突然現れた。
仲村と名乗るその女性は静かな笑顔を浮かべている。
「皆は話し合いが出来る子だって知ってる。だから皆、ここに座って。お願い」
佑太が指差し、叫ぶ。
「ババア!テメー知ってるぞ!学校の手先だろ!」
「違うのよ。お話を聞いて欲しいだけなの」
彼らは各々が悪巧みを考えながら椅子を並べ、話を聞くことにした。岳が率先して質問した。
「先生?か何か分からないけど、俺らをどうにかするのは無理ですよ。頭おかしいのしか居ないんだから」
すると仲村は一冊の絵本を取り出した。岳の質問には答えず、静かなトーンで突然朗読を始めた。
「よだかの星。よだかは…」
すると、彼らは一斉に立ち上がった。純は足を組み座ったままその様子を楽しそうに眺めている。
まず、大声を上げたのは佑太だった。続けて岳が怒りをぶつけた。
「そんなんいらねーからAV持って来いよ!つまんねー!」
「ふざけんなよ!俺達は老人ホームの老人じゃねーんだ!騙されねーぞ!」
それでも尚、仲村は朗読を続けた。
「よだかは、実にみにくい鳥です。顔は、ところどころ、味噌みそをつけたようにまだらで…」
すると猿渡が叫んだ。佑太と岳も怒りが収まらぬ、と言った様子で叫び続けている。
「み、みにくいだって!これは批判だ!生徒批判だ!日本国ケンポー!十二条!自由権の侵害だ!国家侵略者は出ていけ!」
「絵本よりエロ本!酒持って来いよ!そしたら語らってやる!」
「俺達に説教垂れんなら金でも持って来いっつーの!」
それでも仲村は彼らの叫びに耐えながら朗読し続けた。しかし、良和がついに止めを刺した。
朗読を続ける仲村の耳元で呪いのように叫び続けた。
「たとえば、ひばりも、あまり美しい鳥ではありませんが…」
「死!闇!絶望!美の終わりは無残な暗黒の遺体!」
「よだかよりは、ずっと上だと思っていましたので…」
「上も下も金で買える!鳴らない電話!エヴァンゲリオン!架せられた十字架!永遠の闇!」
「ゆ…夕方など、よだかにあうと…」
「闇!蝕!蝕により現れる悪魔!魂も食われる!死!闇!絶望!」
「もういやぁ!」
仲村はそう叫ぶと教室を飛び出して行った。純は「絵本は無いわ」と笑いながら呟き、彼らは笑い声を上げながら、再び下らない話しに花を咲かせ続けた。
来年にはきっと、同じ花は咲かないであろうと思いながら。




