餌食
気を利かせたつもりの芦野の冗談は、大河原に全く通用しなかった。大河原は眉ひとつ動かすことなく、そのまま芦野へ詰め寄った。
「あまり大きな声で話せば問題になるかもしれないので」
大河原に詰め寄られ、香水の混じった香りを意識的に嗅ぐ。思わず芦野は顔を綻ばせる。そして、自然とその胸元に眼が行く。大河原が自分に一体何の話しがあるのか検討もつかなかったが、無意識に甘い期待を抱いた。にやけ顔が止まらない。台詞めいた口調で言う。
「英語担当のレディーが、僕に何のお話しです?」
「生徒へのセクハラ行為。私は看過出来ません」
「はて?僕が生徒にセクハラ?一体何のことだか……」
「あの生徒、元は私のクラスの子です。腰やお尻を触られて、怖くなったと……そう相談を受けました」
それまで見開かれていた芦野の眼は急激に細くなり、小さな舌打を漏らした。
「相談を受けた。それは大河原先生が頼られている証拠です。素晴らしいです」
「論点をずらさないで下さい。そういう意図があったんですか?」
「そういう?何を下らない事を……」
「下らないとはなんですか?それが生徒を預かる立場にある大人の言うことですか?」
「はぁ……思春期の女子だね……。勘違いも甚だしい。あくまでも体育の授業ですよ?生徒への肉体の接触は避けられません。僕の指導方を話した所で、英語担当の大河原先生にそれ、理解出来ます?」
「これは人としての……」
「大河原先生、生徒の性的な訴えを一々真に受けるなんて……。ねぇ……?」
「何です?」
「たまってんじゃないすか?」
その次の瞬間、大きな張り手の音が職員室に鳴り響いた。大河原が思わず辺りを振り返ったが、幸いにも他の教師の姿は無かった。
「芦野先生……あの……すいません。つい……」
「いえ。僕もね、あまりにも先生の気合いが凄かったから、ちょっとリラックスしてもらおうかと……ね?」
「この話はここだけに留めておきますから。失礼します」
「あの……先生?」
大河原はいつか2年4組を出て行った時と同様に、全身の力をこめて職員室のドアを勢い良く閉めて出て行った。
芦野は追い掛ける訳でもなく、叩かれた頬を撫でながら一人悦に入っていた。
純達は遊ぶ際、電話を掛け合ってわざわざ集まるという事は滅多にしなかった。携帯電話が普及していなかったという理由もあったが、放課後、そのままの流れで誰かしらと合流して遊びに行くか、良和の家へ行けば誰かしらに会えた。
その日も放課後、岳を廊下で見つけた純と佑太は合流して遊んで帰ろうとしていた。
裏門を抜け、格技場の前を通る。
青々しく輝く木々の下で、純の表情は次第に曇って行く。岳が気付き、純に声を掛けた。
「俺が言う事じゃないけど、行かなくていいん?」
岳の目線の先には剣道場の前で部活の準備を始める生徒達が居た。
「あぁ。もういいんさ。あと少しだし」
その答えを聞き、岳は何も答えず小さく笑う。代わりに佑太が純に聞く。
「なぁ、純。剣道やめたん?」
「やめたって訳じゃないんだけどさ。まぁ、うん……」
「一度で良いからよぉ、俺……応援行きたかったなぁ」
「まぁ……俺達が引っ張り込んじまったからな。悪いとは思ってるよ」
そう言うと岳は笑った。それはつまり「部活へ行こうと思えば行けたはずなのに、行かなかったおまえも悪い」という岳の皮肉でもあった。
「なんかさ、勝ちとか負けとか意味あんのかなぁって思ってさ。勝ってどうなるんかなぁとか思ってたら、何かやる気なくしちゃってさ。まぁ、全然勝った事ないんだけどさ」
「純!そこは勝ってから思おうぜ!?」
「純君の言う事は俺は分かるな。だから勝ち負けの世界が嫌だし。勝って自慢げな顔してるのってさ、外から見ててケツの穴見せてるのと同じくらい恥ずかしいぜ」
「そうなんだよね。勝つのも負けるのも、なんか違うかなぁってかさ。俺には向いてないんだなぁ」
そう言うと純は自嘲気味に笑ったが、佑太が純の背中を叩いた。
「それまでに何をやったかじゃん!結果だけじゃねぇって!どれだけ頑張ったかが重要なんじゃねーの?」
「頑張った、かぁ……。そうね。頑張った……何かあったかな、今まで」
自分が今まで「頑張った」と誇れるもの。それを手にし、人に見せる事の出来る中学三年生の方が少ないのは当たり前だった。彼等には経験が足りなかった。
しかし、漠然とした未来へ向けての武器として、誰もがそれを欲しがった。
誰もが皆、それをいつか手に出来ると信じていた。
純が考え始めると岳も同じように考え始め、佑太は旋律の怪しい鼻歌を歌い始めた。風のない五月の夕方は、どこまでも穏やかだった。
後からやって来た良和が合流する。穏やかな空気は一気に色気のある空気に包まれた。
外国モノの裏ビデオが手に入り、それがとても笑える内容なのだという。佑太がすぐに食いついた。
「ヨッシー!それまだ持ってるん!?」
「ある!皆で観よう!セックスが始まると部屋の外の赤ランプが点灯するん!そうするとさ、セックスを黒人が覗きに来るん!」
「赤ランプ!?どんなシチュエーションだよ!あぁー!早く観てみてぇ!」
佑太がそう叫び、そのシチュエーションが余程ツボだったのか、純が手を叩きながら笑う。その時、宙をぼんやり眺めていた岳が急に声を上げた。
「あぁ!俺、この前エヴァの録画、全話一日で見終わった!それが頑張った事だ」
「まだ考えてたん!?」
眼を丸くした佑太が呆れたように大声を出し、良和が「頑張った事?」と佑太に聞く。佑太が「説明すんの面倒くせぇ」とさじを投げると、岳が突然大きな声を出した。
「頑張って、頑張って、頑張ると!疲れるよ!」
彼等は「そりゃそうだよ」と笑う。良和の家へ辿り着く頃には既に忘れてしまうような、下らない冗談を彼等は言い合い、そしてまた笑う。何度笑いはしても、決して一度たりとも泣く事は無かった。
漠然とした未来を跳ね除けるように、ただ毎日笑っていたかった。
良和の家へ着くと裏モノのアダルトビデオを見ながら他愛ない話しで盛り上がった。赤ランプが点灯するシーンで彼等は最大の盛り上がりを見せ、後は下降線を描いていく。
「構ってくれ」と言わんばかりに部屋に乱入して来たパグの頭部に、岳は転がっていたCDを手に取り、軽くぶつけて遊んでいる。
良和と佑太はゲームを始め、純が壊れたギターを爪弾いていると「そういえば」と言った。誰もが耳だけを純に向けた。
「体育の芦野いんじゃん?あいつさ、なんかエロい眼で女子の事見てないかい?セクハラとか言われてたらしくってさ」
「それ!知ってる!」
佑太が純の言葉に咄嗟に反応すると、良和が「生徒にセクハラ!?羨ましい!!」と地団太を踏む。その音に驚いたパグが良和を凝視し始める。
「この前さ、佑太が俺にボールパスして俺がミスったじゃない?その時にたまたま芦野見たらさ、やらしい眼で女子を見てたんだよね」
「純、見てたん!?あん時、女子のスタートの姿勢の矯正だかで芦野、ケツ触ってたらしいじゃん」
「ケツかよ!下行けよ、下。ロマンの「マン」」
「がっちゃん!なんでそんなすぐAVの影響受けるん!?」
「ちげーよ!」
純はギターをソファの裏へ投げるように置くと大きく伸びをする。
「俺らは男だからそういうの関係無いけどさ、女子は大変だね」
「わっかんねーよ?両刀かもしれねーぜ?」
岳がそう言うと良和がパグを抱きかかえ、叫ぶ。
「ワォ!ホワッツマイケル!」
「ジャクソンと掛けた?てか、それ犬だろ」
岳の言葉に彼等は失笑したが、突然のセクハラ教師の出現は暇を持て余した彼等にとっては格好の遊び相手であり、餌食だった。




