視線
春の陽射しに夏が混じり始めた季節。
青空の下、体育教師の芦野は女子生徒達に短距離走の基本を教えていた。
「陸上部の良い子の皆はね、もう知ってるだろうけどね、短距離走でよく見られるスタート。これをクラウチングスタートというんだね」
芦野は一人の陸上部の女子生徒を指名し、皆の前で手本を示すよう指示した。指名された女子がスタート位置に着く。
女子生徒の斜め後ろに芦野は立ち、掛け声を掛ける。
「いちについて、よーい」
女子生徒がいざスタートを切ろうと足に力を込めた途端。
「ストップ。そのままの姿勢で」
芦野がストップを掛けた。女子生徒の隣ににじり寄ると、その視線を尻に集中させ、腰を掴み姿勢の矯正を行った。
腰を矯正する手元は何故か、突き出された尻を撫でる様な仕草を繰り返している。
「もっと、お尻をね、グイッと突き上げた方が良いね。もっと、もっと。うん。そう。突き出すように」
その指導に女子生徒は戸惑いの表情を浮かべ、他の女子生徒達は思わず顔を見合わせる。
芦野の視線は指導というより、いかにも卑猥な熱を帯びているように見えた。
「芦野さぁ。あれってセクハラじゃない?」「ちょっと……怖いんだけど……」「マジで気持ち悪い……」
心の内で誰もが抱いた疑問を、生徒達は次第に言葉に漏らし始める。すると、芦野は陸上部女子生徒の腰から手を離した。バランスを崩した女子生徒が横に転びそうになる。それほどに、力がこもっていた。
腰に両手をあてながら、芦野は生徒達を舐めるように見回す。
「皆。ちょっと、いいかな?スタートに必要なことだから先生は、今やったんだね。セクハラなんて間違った言葉が今、聞こえてきたぞ?誰かな?誰なんだろうね?君達の未成熟の身体に触れて指導する事のどこがセクハラなのかな?ね、答えなさいよ」
生徒達は俯いたまま、芦野の問い掛けに誰一人として答えようとはしなかった。数秒後、芦野が何かに納得したように頷き、満面の笑みでこう告げた。
「うん。じゃあ皆。グラウンド5週だね。はい、始めて」
不満げな表情で皆が立ち上がり、非常に遅い足取りでグラウンドを回り始めると、サッカーに興じていた男子達がグラウンドを周回する女子達を眺め始めた。
野球部の安田が純にのんびりした口調で声を掛けた。
「女子達、走らされてるね。何かやったんかな?」
「あぁ。何だろね?怒られたんかさ?」
ボールを先回りして待ち構えていた横森が、ボールの奪い合いを眺めながらやや早口で言う。
「化粧か何かじゃね?うるせぇ芦野に言われたんじゃねーの!?」
「だからって走らせるとかさ、何か軍隊みたいだ。古臭っ」
純がそう呟くと、目の前にボールが飛んで来ている事に気付き、思わず避けてしまう。
「純!何やってんだよ!」
「ごちそうさま!」
横森が笑いながらボールを颯爽と奪っていくと、佑太が純の頭を追い抜き様に叩いた。
その日見学していた良和は、サッカーそっちのけで女子生徒の揺れる胸に目を奪われている。その視線の先は近頃急激に大人びてきたあるクラスメイトの女子を捉えていた。
「翔。俺は悔しいん!悔しくて仕方ないん!なんで!なんで……!ちきしょう!」
隣で顔を真っ赤にして憤怒する良和を見ようともせず、サッカーの輪を見つめながら翔が答える。
「何が?」
「俺の目がカメラだったらさ、走る女子を録画して、いつでも何度でも好きな時に女子の身体が見れるん!しかも成長して行く姿とかさ、丸々分かるん!なのに付いてないん!なんで俺の目はカメラがついてねん!?」
「そりゃ、おまえ。普通の人間だからな……。ついてたら改造人間だよ」
「俺は改造されてもいい!……カメラの技術が早く発達すればいいんに……」
「おまえの為に技術は発達しねーよ」
純は再びボールから離れた場所に位置し、安田と「キングオブファイターズ」というゲームの話で盛り上がっていた。技のコマンドを思い出そうと視線を安田から外す。
すると、巻き上がる砂埃の向こう。女子達の周回を見詰める芦野の顔が、妙ににやけているように見えた。
それは大人特有の、いやらしい笑みだった。
岳は修学旅行に向けての班決めで、文化活動部部長の鳥元と同じ班になった。自由行動をどうするかルートを決める事になり、岳は「パンクのCDを買いに行く」とだけ鳥元に宣言した。
「パンクって、ワーワーいう奴?」
「そう。東より西の方が盛り上がっててさ。お願い。見逃して」
「今更がっちゃんに制限かけるのは無理だよ。部活だって自由奔放じゃん」
「ありがとう。じゃあ、そうさせてもらうわ」
「猪名川、何しに行くか決めたか?」
担任の伊達がトレードマークであるポロシャツの襟を立てながら、岳の席を覗く。
「先生。俺、パンクのCD買いに行くわ」
「おまえなぁ……。京都の都を楽しもうって心がないのか?」
「先生、都が音楽を生むんすよ」
「好きにしろ!問題は起こすなよ」
「はい」
中学三年になった岳は、残りの中学生活をどこまでも自由に過ごそうと考えていた。新しいクラスメイト達と積極的に関わろうとはせず、純や良和達と過ごす時間を何よりも優先した。
クラスが別になった茜とは殆ど顔を合わせる機会も無かったが、朝礼の行われる体育館や放課後に姿を見掛ける度に気には留めていた。しかし、それは既に恋とは少し違った気持ちへと変化していた。
岳はそれがどういった感情なのか、言葉に現すことが出来ずに日々を過ごしていた。
放課後。剣道場に大きく響く声の主は最後の大会へ向け稽古を重ねる三年生達だった。
男子剣道部部長の長瀬が吼える。
「一年!素振りしっかり!バテて竹刀がフラれてんぞ!おまえ、踏み込み甘い!」
「はい!」
女子剣道部長になった茜の眼にも気合が漲っている。
矢所がその気迫に怖じ気そうになるが、静かに声を掛けた。
「茜、最近「部長」って感じになってきたよね。気合感じるわ」
「当たり前でしょ。中学、夏で最後なんだよ?このメンバーでここまでやって来れた事、無駄にしたくないしね」
「そ、そうだよね!じゃあ、純君は……」
「来ない人の事を考えてる余裕ないの。後悔したくないから、出来る事やるしかないでしょ」
「だよねー!そうだよ!そうそう。今の私なら純君に勝てるかな!?」
「負けたら軽蔑しちゃう」
「言えてる言えてる!」
「あんたが言っちゃ駄目でしょ」
「あ、そうだよね……」
その時間、佑太の自転車に二人乗りしていた純は、アイスを食べながら春に咲いた名前を知らない花々を眺めていた。
「あー、花が綺麗」
「純!乙女チックじゃーん!」
「そう?そういうの感じる余裕って大事じゃない?」
「良くわかんねーけど純がそう思うならそうなんじゃん!?」
「描いたり歌作る人ってさ、花の見え方とか違うんかさ?ねぇ、がっちゃんって何で美術部じゃないんかな?」
「えぇ!?わかんねーけど、きっと奴は楽しい事が好きなんだよ。縛られたくないんじゃん!?」
「そういう事か。だからいつも気紛れなんかさ?」
「何も考えてねぇだけかもよ?」
「ははは。それはあるかもね」
「奴は自由そのものだからさぁ!」
そう叫んだ佑太は上り坂に差し掛かった途端にバランスを崩し、純と共に転倒した。
笑いながら佑太が自転車を引き起こすと、純は落としたアイスを悔しげに眺めていた。
芦野が帰宅しようと帰り支度をしていると、三年の担任を外れた大河原から声を掛けられた。
「芦野先生、少しお時間よろしいでしょうか?」
「デートの誘いなら、僕は断らない性質タチです」
芦野はそう笑ったが、大河原の眼は静かな怒りに満ちていた。




