江古田、そして芦野
生徒に歴史観を押し付けようとする江古田。生徒を皆の前で吊るし上げる体育教師、芦野。
翔と岳はそれぞれのやり方で、抗うことをやめなかった。
翔と岳が異形の坂本龍馬を作り上げた翌朝。江古田が教材準備室へ入る。
「龍馬さん。今日もどうか、この俺に力を貸して下さい。よろしくお願いします!」
江古田の中ではこれが教員準備室に入る際の「通常」の挨拶であり、この後はポスターを広げ、坂本龍馬に向かって礼拝する予定であった。
いつものようにポスターを広げた次の瞬間。
3年の廊下を異形の龍馬を抱えたまま江古田が激昂しながら練り歩く。各教室の入り口に立ち
「これをやったのは誰だ!誰なんだ!」
と教室中に睨み回す。
岳が眠っていると3年4組にも江古田は現れた。
「おい!おまえらの中でこんな悪戯をした奴はいるか!?いるなら今すぐ名乗り出ろ!」
広げられたポスターを見てあちらこちらから失笑が起きる。岳は思わず噴出してしまった。
「何がおかしい!?何がおかしいんだ!坂本龍馬だぞ!?おまえら!龍馬だぞ!」
江古田の言葉に誰も反応を示さない。すると、前日の出来事を思い出し、岳を遠目で睨んだ。
「おい猪名川。おまえじゃないか?これをやったのは!」
江古田がポスターを突き出すと異形の龍馬がゆらゆらと揺れた。それを見て、またもや噴出しそうになる。
「いや。別に興味ないんで何も」
「興味がないとは何だ!歴史を侮辱するのか!おまえに何の歴史があるんだ!言えるのか!」
その言葉は岳の琴線に僅かに触れた。岳は静かに、吐き捨てるように呟いた。
「聞けるんだったら話してやるよ」
「な、なんだよ。もういい。もういい!」
そう言うと江古田は3年5組へ向かった。岳は宙を眺めたまま過去を反芻し、また眠った。
「おまえらだろ!これをやったのは!名乗り出ろ!」
そう叫びながら江古田は龍馬のポスターを広げた。あちこちから失笑が起き、佑太達のグループからは爆笑
が巻き起こった。翔は持ち前のポーカーフェイスで涼しげな顔をしている。
「おまえら、名乗り出るまで俺は動かないぞ!」
そう言うと江古田は教室中端から端まで睨み回す。ある男子生徒が言った。
「先生。俺達の中にいるって何で分かるんですかー?」
「他のクラスからは名乗り出なかった。だからここしかないだろ」
江古田の一方的な決め付けに、教室は一気にしらけた雰囲気に包まれた。
翔がひとりごとのように呟く。
「そんなもん、持って来る方が悪いだろ」
「何だと!おい!高崎。そんなもんとは何だ。おまえの仕業か!?」
「いえ。そんな暇じゃないんで」
「じゃあ誰なんだよ!」
そう叫んだが、教室に居た誰もがしらけた視線を江古田に向けるばかりであった。やや遅れてやって来た純が江古田の背後から教室へ入る。急に背後から純が飛び出てきたので、江古田は驚いた拍子にポスターを滑り落としてしまい、異形の龍馬が「一反木綿」のようにひらひらと滑空した。
それを見た純が声を出し、笑った。
「な、何がおかしい!何がおかしいんだ!」
「だって!これ、ははっ!」
「ったく!絶対名乗り出ろよ!いいな!」
そう叫び、江古田は教室を後にした。江古田は学年主任である上川に相談した。
「龍馬を侮辱してます。こんなの。酷いと思いませんか?」
「うーん。侮辱されてるのは龍馬じゃなく、先生ですね」
そう言うと「やれやれ」とでも言いたげに上川は笑った。
「お、俺がですか。まぁ、それは仕方ないとしても、これは……」
「先生。あまり余計な物を持ち込まない。彼等の目に付いたらそりゃ、そうなりますよ。龍馬だろうが、徳川だろうが、マルコ・ポーロだろうが、彼等は何だっていいんだ」
「しかし……」
「余計な物は持ち込まない。授業と関係ないなら尚更。以上」
江古田は不満げな表情で授業へと向かった。
その日の昼休み。外へ出た岳は真っ先に職員室駐車場へ向かった。江古田の車を探す。
高梨から「アニメのフィギュアが載ってるからすぐ分かる」と教わった通り、その車は格技場の前に停められていた。後部座席にアニメの少女のフィギュアが数点、置かれていた。
「歴史を侮辱するのか!おまえに何の歴史があるんだ!」
その言葉を反芻する。岳の中から、再び怒りが込み上げて来る。
「俺の歴史は、俺が、作るんだっ!」
そう言うと、岳は江古田の車の側面を思い切り蹴った。見事な凹みが出来たのを岳は確認すると、満足気な表情を浮かべ教室へと戻った。
受験を控えた三年生の中には厭世的になる生徒も少なからず居た。勉強しなさい。少しでも良い高校を選びなさい。学年順位は何位だったのか。北辰テストの結果は何位だったのか。
周りの大人達の目の色が変わるのが、はっきりと分かった。
教師は彼等の捌け口になり易かった。
各自が高校を目指しながら最後の部活動に熱を入れ、塾に入る者も続出した。
公立中学である男衾中学校の面々は、自分が学校を選び入学試験を受ける「高校」というものは酷く遠くのものにしか思えなかった。しかし、中学三年になり時間が経つにつれ、それは「現実」のものとして彼等の日常に迫っていた。
ストレスを溜め込む機会が増える日々。自分の実力を見せ付けられる結果。そして足音を響かせながらやって来る「高校入試」。忙しなくなる学校生活の中で、彼等の過敏な神経はとある教師に向けられた。
「本当はね、皆はね、良い子なんだけどね。たまにこうやってね、遅刻をしたり、お喋りをするのはね、やっぱりね、よくないよね」
体育教師の芦野という男性教師の口癖だ。細い目付きがいやらしく、生徒達から嫌われていた。本当は「良い子」と言えるほど、芦野は一体生徒の何を知っているのだろうか?そう思う生徒は少なくなかった上、芦野はある生徒を標的にすると、稚拙な手段で晒しあげるという手段を使ったりもした。
翔は中学三年の健康診断で潜血が発見され、慢性腎炎と診断された。食事制限や運動制限をしなければならず、部活は野球部で運動が好きだった為、体育は仕方なく見学する事しか出来なかった。
ある日、翔はいつものように体育の授業を見学していた。「俺も、もし走れたら」そう思いながら彼等と共に飛んだり跳ねたり、走ったりする自分の姿を思い描いていた。
クラスメイトが時折、翔に声を掛けることがあった。
「翔!今からスーパーダッシュすっから見てろ!」
ふざけて走る男子生徒の後姿を見て、翔は笑う。とあるクラスメイトがその次に翔に声を掛け、それが当時流行していたゲームの話だった為、話が思わず長引いてしまった。
すると、突然笛が鳴らされた。グラウンドで運動をしていた生徒達の足が止まる。
芦野が翔を指差しながら近づいて来る。
「おーい!みんなー!見てくれー!今、良い子の皆が汗を掻いて一生懸命運動をしていたのに、ここでずーっと、ずーっと、お喋りをしている「悪い子」がいた!見学をしている癖に、だ!先生は見逃さなかった!」
余りに稚拙なやり方に、翔は何かを言い返す気力もなく、芦野を見つめている。そんな翔を凝視しながら、芦野は繰り返す。
「先生は、見逃さない!こういう悪い子を、先生は許さない!」
「はぁ……?」
「先生は、許さない!」
「じゃあ走らせるんですか?俺、腎炎なんすけど」
「俺はそんな事、求めない!ただ、許せない!」
「そうですか」
芦野はただ、翔を見つめたまま全員が見てる前で「許さない」と連呼した。だからといって芦野が翔に罰を下すのかといえばそうではなく、もっと姑息な手段で翔に罰を与えたのだった。




