命を前に
純の命が途切れたその日。
彼らに取って、初めて向かい合う友人の死はあまりにも大き過ぎた。
朝方。岳の部屋の壁を外から叩く音が二回、部屋に響いた。
誰かが外から悪戯をしているのかと思い、岳は寝ぼけ眼のまま怒鳴ってやろうと部屋の窓を勢い良く開け放った。
白み始めた空の真下。道路には誰も居なかった。
涼しげな風を一瞬感じ、岳は横になると再び目を閉じた。
朝になり切った頃に蝉の声で目を覚ますと、岳は枕元の携帯電話に目をやった。おびただしい程の着信件数、そして一件のメール。
ある予感を抱きながら、茜からのメールを開く。短い文字でそれは伝えられていた。
今日の朝4時20分
純君が亡くなりました
起き抜けの耳を騒がせていた蝉の声は突然途切れ、白い光は次々に岳の額に汗を浮ばせた。
6月29日の朝方、純は死んだ。岳は混乱し始めた頭で、誰にまず連絡を取るべきかを考えた。純が亡くなった時間帯に純の兄から着信があった事に気付くと、寝過ぎていた自分をまずは後悔する。翔、佑太、良和、と馴染みの顔ぶれからの着信が立て続けに入っていた。
誰かに知らせなければ。まず思い立って浮んだ顔は、もういないはずの純だった。
まるで日常を確かめるように、茜はいつも通りに出勤した。ミニクーパーから眺める景色は朝の早い時間にも関わらず、勢いのある光がプリズムとなって街に散乱していた。しかし、茜の目には全てがモノクロのように映っていた。
純が亡くなった事を真っ先に知らされた茜は、朝礼中についに堪えきれずに大粒の涙を流し始めた。すぐに同僚や上司達が茜を取り囲む。先輩職員の阿達は大きな身体を揺らしながら、茜の肩を抱いた。
「茜ちゃん、大丈夫?何かあったの?」
「私…………すいません…………」
「うん…………落ち着いて話してみて?」
「私の大事な人が…………今朝亡くなりました…………」
茜の言葉に誰もが閉口した。22歳になったばかりの茜にとって仕事柄他人の死は多く経験していても、身近な人間の死は経験に余り無いという事は誰もが理解出来た。
阿達は茜の背中を擦りながら、上司に掛け合う。茜が純の通夜や葬儀に参列出来るように職員達は協力し合い、調整してくれた。
「皆さん…………本当にすいません…………」
茜が頭を下げると職員達は微笑みながらかぶりを振った。阿達は茜に言う。
「その人…………茜ちゃんの好きな人なんでしょ?」
「…………はい…………そうです」
「なら、最後までちゃんと見送って来てあげてね。茜ちゃんが後悔しない為に…………」
「ありがとうございます」
弱さを隠せずに曝け出し、自分一人さえ守れない情けない姿にこの人はこんなにも優しくしてくれる。自分の為を思ってくれている。そう思うと茜は再び涙を流し始め、深々と頭を下げた。
純の知らせを受けて、しばらくの間翔は部屋で泣き続けていた。岳に連絡を取ったものの、応答はなく折り返しも無かった。もしかしたら寝ているのかもしれない。こんな時に。そう思うと怒りが一瞬込み上げたものの、純が事故に遭ってからの岳の姿を思い浮かべるとすぐに怒りは収まった。
何事も無いかのように振舞いながら、目の下の隈が日に日に濃くなるのを知っていた。搬入された商品を売り場に並べながら、その目が赤く濡れていた。バックヤードで泣いていたのだと、すぐに分かった。
机の上で溜息をつくと、翔は武人に連絡を取った。
「あ、もしもし?俺だけど」
「おお、翔か」
「純君がさ…………亡くなったよ」
翔にそう伝えられた武人は、しばらくの間黙り込んでしまう。武人の部屋で純と翔と三人でゲームをしていたのを思い出す。無造作に置かれたゲームのコントローラー。ただでさえゲームに関しての技量が高いのに、裏技めいた事をする純を翔と非難し合った夜は、まだすぐそこにあったままだった。
「純君!ずりーよ!」
「ははは。こういう機体なんだから使えるもん使わないとさ」
「手加減ってものを知らないん!?」
「いや、ゲームは常に全力でしょ。ほら、喋ってる間にやられてるよ」
「マジかよ!コイツ鬼畜だな!」
「ははは!あー、気持ち良い」
純の声だけが次々に蘇り、開け放たれた窓から次々に逃げて行く。しかし、夏の空に向かって飛んで行くその声の行き先は、武人には当分見当がつきそうになかった。
ハンドルを握る佑太は砂地の上を走っている。かわせみ荘の目の前にある荒川の流れを眺めている。
誰かが残していった焚き火の跡を目にし、純の事を強く連想する。小石を一つ手に取り、放り投げる。岸の手前で音も無く小さな水飛沫が上がる。
「純、あそこまで届く?」
「えー?向こうっ側までかい?」
「勝負しようぜ?」
「あぁ、いいよ」
佑太の投げた石は今と同じように岸の手前で小さな飛沫を上げた。中々投げ始める様子のない純を振り返ると必死に手にあったサイズの石を探していた。
「純!おせーよ!」
「いやいや…………最初が肝心なんさ。あー、これもちっと…………違うな」
「本当、おまえは何するんでも遅いんだからよぉ」
「いいじゃん。慎重派って奴だよ」
「はぁ?良く言うぜ」
いつも行動の遅い純を叱責していた。こんな事ばかり早くてどうすんだよ、純。おまえが俺を置いて行くなんてありえねぇだろ。振り返って、戻って来てくれよ。
佑太は知らないうちに涙を流していた。
「佑太、見ててよ」
ある夏の日。純はそう言うと槍投げのような体勢で助走をつけて石を放った。大きな弧を描いた石は見事に対岸の岩に弾かれた。誰も届かなかった場所に、純の石だけが届いた。
純の家の前にある自動販売機の横で項垂れる翔を目にすると、岳はすぐに声を掛けた。
「遅れて悪りぃ」
顔を上げた翔の彫刻なような面影は、暑さとは裏腹に蒼白く冷め切っていた。
「いや、一人じゃちょっと…………勇気なくてさ」
「俺もだよ。行ってみる?」
立ち上った翔は岳と並んで純の部屋を見上げると、ぽつりと呟いた。
「死んだなぁ…………」
「あぁ、死んだな」
それから少しの間、二人は肩を寄せ合うようにして笑い合った。可笑しさから来る笑いではなく、それは諦めのような笑いだった。
純の家へ上がり、居間で布団の上に横たわる純と会う。
鼻には脱脂綿が詰められていて、それが見た目では分からない純の命の終わりを伝えていた。
病院の時とは違い、その指は冷たく、固く閉ざされていた。
「腐敗防止でさ、ドライアイス当ててるんだよな。なんかさ、まいっちゃうよな…………」
純の父が力無い声で二人の背後から話し掛ける。
脱脂綿。腐敗。ドライアイス。熱を失くした身体。
先に震え出した翔の指が、純の額を撫でた。
「純君、帰って来れて良かったなぁ…………病院はもう飽きただろ?可愛い看護婦もいねぇしさ…………ゲームも無いしさ…………でも、もう帰って来たんだぜ?良かったな…………」
大粒の涙を純の上に落としながら、翔は嗚咽を漏らし始めた。
擦り切らした悲しみが痛みを生んで、心が腫れた。
岳は必死に泣くのを堪えながら、純の脇に置かれていたアルバムを捲った。
まだ幼少期の兄弟の姿が最初に目に入る。兄と並んでオモチャのショベルカーで遊ぶ純。兄は大きな目をパッチリと開け、微笑んでいる。純はその横で、何処か不貞腐れたような表情を浮かべている。
きっと、ショベルカーで遊びたかったのだろう。
何かを欲しそうにする素振りもなく
「俺には何もないんさ」
と、長年乾いた笑い声を漏らしていた。ギターを手にした純はやっと欲しかったオモチャを手に入れたような笑みを浮かべていた。
やっと見つけた欲しかったもの。自由でいる為の生き方。快復し始めた体調。それらを手にした矢先、純は事故に遭った。
写真の中で屈託のない笑顔を浮かべる小さな頃の純を眺めているうちに、岳は突然声を上げて泣き始めた。
自分がしっかりしなければいけない。無意識にそう思っていた心が自分自身を解き放つと、感情は純への想いに向けて一斉に走り出した。
もう、涙を止めようとは思わなかった。
横たわる純に声すら掛けられず、ただ泣き続けた。




