最後の嬌声
いつもと同じ夜。少しだけ違うのは、純がもう落ち込んで自分の世界にこもらなくなった事。延々に続きそうな宴に、分かりやすいピリオドなどは用意されていなかった。
末野アパートでは相変わらず夜通しの騒ぎが繰り広げられていた。
ミチに佑太が将来の事を言い聞かせている。
「俺はさ、ぜってー大きい男になっから。おまえが年上とか関係ねぇ。俺はおまえの全てを包めるような男になるぜ!」
背後を通り過ぎる岳が「包めてるのはチンポだけ!」と叫んだが、ミチは微笑みながら佑太の手を握った。
「ありがとね。いっぱい考えてくれてるんだねぇ。私は嬉しいよ…こんなに人に想われるなんてさ。いい日だなぁ」
佑太の吐く煙草の煙を千代が両手で掻き消しながら拗ねたような口調で言う。
「もう!帰るの面倒だから泊まってく。良和君、スウェットとかないの?貸して」
「あるよ。ちょっと大きいかもしんないけど」
「もうとにかく眠くて眠くてさぁ…疲れてんのかなぁ。あ、着替え覗いたら本当殺すからね」
「大丈夫、とは言い切れない」
「本当お願い。絶対に、見ないで。ねぇ、茜もいいでしょ?泊まろうよ」
「えー!?別にいいけどさぁ…寝てる時絶対離れないでよ?良和に変な事されるから。良和、絶対変な事するでしょ?」
台所でゆで卵を潰しながら、良和は血走った目を見開く。
「しない方がどうかしてるん!するに決まってる!」
関口がテーブルの上に散乱した缶を集めながら、ふと思い立って眉間に皺を寄せた。
「そういや…私前に泊まってった時さ…良和君、私のお尻ガン見してなかった?」
「えぇ!?嘘でしょ!?そうなの!?」
千代と茜が台所を振り返る。良和は眉ひとつ動かさずに間延びした声で告げた。
「そーだよぉー」
「やぁだー!」と千代が絶叫すると関口が「脱がされてはないけどね」と微かに良和を庇う。しかし、茜は「その方が性質が悪い」と釘を刺した。
和室では美里と矢所、点字ブロックのドミリーズが漫画を読む純と翔の横で自分達の現状を嘆いていた。
美里がチューハイの缶を握り潰し、茜と千代を眺める。
「なんかキラキラしてるっつーかぁ、いいよねぇ。私なんか酒とめかぶがあればそれだけでいいけどさぁ、でもキラキラしてるっていいよねぇ…彼氏いないのはあの子達と同じはずなんだけどなぁ…」
「じゃあ彼氏いる私って実は一番凄いって事じゃない!?ねぇ!?」
四角い顔の点字ブロックが声のトーンを上げてそう言うと、純が堪らず噴き出した。何をどう比べれば茜や千代や関口よりも点字ブロックが上になるのだろうか?きっと、相撲ならば上になるだろう。
点字ブロックの彼氏に財布を盗まれた矢所が顔を赤らめて言う。
「正直、それって勘違い系って奴?じゃない?彼氏いても中身が変だったら損しかしないっしょ」
「でも…うーたんはとっても優しいんだよ?この前もディズニーのDVD買ってきてくれたし…」
「へぇ。あんたの金で?」
「ううん。違うの。私のカードで」
「はっ!くっだらなっ!」
「何で!?だって私が好きなDVD、うーたん分かってたんだよ!?凄くない!?」
「別に。ムカつくからその名前出さないで欲しいんだけど」
堪りかねた様子の翔が漫画本を胡坐を掻いた膝の上に置き、点字ブロックを眺めながら言う。
「残念だけど…俺は矢所さんに賛成だねぇ」
「何で!?えっ?何で!?」
「趣味が分かるなんてそんなん当然なんだよ。付き合ってんならなおさら。逆に知らなかったら何でしらねーの?ってなるじゃん。付き合うまでの間に何してたん?って話だよ」
純が横で「俺らだってヨッシーの吐き気のする趣味知ってるけどな。糞の出るAVとか」と言って再び噴出す。しかし、点字ブロックは怯まない。
「でも、だって、その時ってうーたんの気持ちが嬉しかったんだもん!」
「人前で彼氏の事、うーたんだがブータンだかしんねーけど、渾名で呼ぶなんてどうかしてるぜ。」
「ブーじゃないもん!うーたんは痩せてる!」
「うるせぇ馬鹿、聞けよ。俺はそいつの事しらねーし。あんたは彼氏の事を「所有物」としてしか見ていないんだよ」
「ショユーブツ?それって悪いことなの?」
「極悪だね。大体、彼女の友達の財布盗むとか頭イカれてんだろ。イカれてるのに、あんたがそれに気付けないのは自分で自分の立場を分かってねぇからだよ。パパッと会って、パパッと付き合った仲なんだろ。どうせ」
翔の容赦ない追い討ちに純と矢所が腹を抱えて笑っている。矢所が「会って三日だっけ?」と言う。点字ブロックは「二日だよ!運命だもん!」と手入れされていなさそうなボリュームのある真っ黒な髪の毛を左右に振り乱す。
「わかんない!わかんない!話が難しくてついてけない!哲学!?みたい!」
美里が口を半開きにし、半ば感心したような口ぶりで言った。
「すげー…私より馬鹿がいた…てかまだ付き合ってたんだ…マジ馬鹿だ…」
茜が笑いながらその輪に加わった。
「ねぇねぇ、ヤドピーさぁ、友達の彼氏に財布盗まれたんでしょ?」
「茜、聞いてよ!この子の彼氏に私財布盗まれたんだよ!?」
点字ブロックは両手で自らの髪の毛を掴んで目を白黒させている。茜はその姿に同じ女として嫌悪感を覚えた。
「えぇっ!?この子の彼…?ていうかさ、その彼氏とまだ付き合ってるとかないよね?」
すると、点字ブロックは微笑んでみせた。
「ううん。別れるとか運命だからあり得ないもん」
「うわー、引くわぁ。その彼氏、言っとくけどレベルでいったらマイナスだよ?」
「違うの!うーたんは神様だもん!きっと、財布間違っちゃったんだよ!盗んだんじゃないもん!」
その途端、矢所が目を見開いて絶叫した。
「はぁ!?テメェこの前謝ってたじゃねーかよ!マジ最悪なんですけど!」
純が「だからそこに友情なんか無いって言ったんにさ」と笑っている。
茜が「それはもう恋愛じゃなくて宗教だよ」と言うと、美里が「だよねぇ?」と点字ブロックを睨んだ。
翔と純は溜息をつき、立ち上がってゲームをする為に洋間に足を運んだ。ドミリーズに疲れたのだ。
翔が何気なく洋間を開けると、ちょうど着替えを済ませたばかりの千代が声を荒げた。
「ちょっとぉ!ノックしてよ!何してんの!?頭おかしいの!?」
「お…わ…悪ぃ…」
千代がスウェット姿になっていたのですぐにここで着替えていたのだと二人は理解した。純が「すまんね」と軽く謝り、翔が続ける。
「着替えてるの知らなくてさ…」
「なら仕方ないけど…ビックリしたぁ。嫁に行けなくなる思いを私はこんな所ではしたくないからね。危なかったぁ…」
すると、翔がわざと千代に聞こえるように純に耳打ちする。
「おい、あと少しだったのにな。惜しかったな。」
「惜しかったじゃないでしょ!わざとだったら最低だかんね!」
「いやー、さっきまで汚いの相手してたもんで。最低でも最高になりたかったぜ。な?純君」
「あぁ。全くもって同意だね」
「純君まで何言ってんの!?純君、たまにおかしくなるからなぁ」
「たまにじゃねーよ。いつもだろ。な?純君」
「そうだね。」
「本当馬鹿!乗っかる純君も悪いよ」
「あぁ?何だって乗っかるよなぁ?上手い話も、女も、な?純君」
「いや、ちょっとそれは、どうだろ」
「おい!乗れよ!」
純は「いやぁ」と笑いながら鼻の下を指で掻く。
重ねた唇の柔らかな感触を思い描くと、再び求めたくなってしまう。言葉で伝えてしまったら、きっと茜との関係は次こそ本当に壊れてしまうのかもしれない。
暗黙の一線を踏み越えたものの、そこから先へ歩まなかった事への安堵と、歩めなかった事への歯痒さを純は感じていた。
新宿でホストになった稲村が掲載されている雑誌を手に、茜は遠慮の無い笑い声を関口と共に上げていた。
裸にジャケットを羽織った稲村の写真には「風弥」の源氏名と共にキャッチコピーが添えられていた。
「何で裸にジャケットなの!?しかも黒いし!「新宿に、俺の風を巻き起こす」だって!だっさぁ!」
「稲村君、こんな風になったんだねぇ…ふざけてるのかと思うくらい焼いたね」
「本当!色が白くて金髪ってのが「やんちゃぶってる」感じで良かったのになぁ。これじゃ松崎しげる二世だよ」
「もっと黒くなったらそれこそ稲村君の良く言ってた「ゴキブリ」だよね」
新宿でホストになる。その夢に向かって駆け出した稲村を、純は微かに羨ましいとも感じていた。誇れるものの一つさえ、未だ見つけられない自分を時折恥じる事がある。
ここに居る誰もが、何かしらの肩書きや属性、夢を持っていた。何もない自分を日々振り返り、探してすらいない事を思うと胸が沈み掛ける。
そんな様子を察してか、千代と入れ替わりに洋間に入った翔が純に話掛けた。
「全然関係ない話ししていいかな?」
「あぁ、何だろ?」
「男衾診療所って小さな病院あんだけどさ、知ってる?」
「赤浜だっけか?見た事あるけど行った事はないな」
「あそこの先生ってお婆ちゃんなんだけどさ、風邪引いて診てもらうと絶対浣腸されんだよ」
「浣腸!?何で?」
「便で健康状態を判断するらしくてさ。便所に「流さないで下さい」って書いてあるんだよ」
純はその様子を想像すると、すぐに声を立てて笑った。
「ははは!普通逆じゃない!?」
「先生が「流さないでぇ!」って言いながら待合室横切ってくんだよ。大人になったらさすがに浣腸はされないだろうとか思ったら普通にされたし」
「スカトロマニアの先生なんかさ?」
「わっかんねぇ。けど、骨折して行っても「じゃあとりあえずお尻出して下さい」とか言われるかもしんねーよな」
「ははは!浣腸関係ねぇし!」
浣腸先生の鬼気迫る表情を想像している内に、沈み掛けていた胸が自然と楽になっている事に気が付いた。
ゲームを中断し、岳が居ない事に気付いた純は何気なく外へ出る。階段の下で煙草を吸っている姿が見え、声を掛けた。
「がっちゃん、入らないんかい?」
「騒ぎ疲れた。ちょっと離れて休まないと死にそうで」
「はは。隙あらば佑太やヨッシーに絡まれてるもんな」
そう言いながら純は階段を下りる。五月の暖かな夜は窓辺から漏れる彼らの声に掻き混ぜられている。
純も煙草に火を点け、岳の横に立つ。
何種類か自分に合う煙草を探した結果、純は赤いマルボロを吸う岳に薦められた緑のマルボロに落ち着いた。
メンソールが喉から肺に向かって心地良く流れて行く。
「純君、勧めといて何だけど…煙草吸って大丈夫なん?」
「たまーにクラッとするかな」
「マジで?危ねぇなぁ」
「いや、そんなに本数吸わないんだけどさ。止められなくなっちゃって」
「はははっ。立派な中毒だわ」
「そうなんだろうなぁ。さっきさ…」
「うん?」
左手の親指と人差し指で煙草を弄びながら、純は照れ臭そうにはにかんだ。
「色々考えてたら前みたいに落ち込み掛けたんさ。俺って本当何もねぇなぁと思ってさ」
「何が?」
「夢とか、肩書きとかさ。俺はこれだって言うもの」
「いやいや、おまえB-BOYじゃん」
「まぁ、そうなんだけどさ。でもさ、翔君の話し聞いてたら全部どうでも良くなって楽になったんさ」
「へぇ…何の話し?」
「男衾診療所の浣腸先生の話し」
「はっはは!あれね!それはマジだよ。うちの妹が小さい頃あそこに便秘で駆け込んでさ、浣腸されて出したら先生がポラロイドカメラもって便所に入ってったけな。「学会に発表する!」って」
「ははは!どんだけデカイ糞したんかさ!っていうかうんこを学会で発表とか、すげーな!」
「クソだけに本当クソみてーな話しだよな。でも全部マジだかんな」
「ははは!くっだらねぇ!」
大声でそう言って純は笑い、しばらくの間一人で笑い続けていた。岳は高校時代の純を思い返し、昔から笑い上戸だった事を思い出す。
米田と純と三人で本屋へ行き、岳が純に「VOW」という街で見つけたおかしな看板などを紹介する本を薦めた。
最初のうちこそ必死に堪えていたのだろう。しかし、堪え切れなくなると本屋の隅々まで響き渡る声で純が突然笑い出した。
米田と岳は離れていたがその声の主が純だとすぐに気付き、二人は顔を赤らめた。
「純君は昔っから良く笑うよな」
「いやぁ。ツボが浅いんだろうね。すぐ笑っちゃうんさ」
「深く悩めるほどに実は脳みそが深く出来てないんかもな。だから悩むととことん疲れるんじゃない?クソの話でもして笑ってるのがちょうど良いんだよ」
「ははは!人事だと思ってひでぇ言い方するなぁ。でも、きっとそれってさ…正解かもしんない。翔君に感謝だわ」
「ここに居れば誰かしら助けてくれるよ。皆いい奴じゃないけど嫌な奴はいないからね」
「本当、それは思うな。ここに来るとさ、夜がずーっと続いてくれたらいいのになぁってたまに思うんさ」
「色んな事が忘れられるから?」
「いや、前はそうだったけど…今は楽しくてさ」
「そっか。俺は勘弁だけどな」
「えっ?何で?」
「佑太とかヨッシーにずっと絡まれててみ?物真似して!とか相談乗って!とか急に振られるし…疲れるで」
「ははは。がっちゃん乗っかりすぎなんじゃない?」
「おまえ傍観者だろ!ふざけんなよ」
「だってそういうのは俺には出来ないからさ」
「知ってるよ。戻るか」
「あぁ、そうしよっか」
扉を開け、再び嬌声の中へと飛び込む。夜を追い払う彼らの笑い声は空が白むまで鳴り止まなかった。
それがいつまでも続くよう、終わる事のないよう。まるで祈りのように。




