太一
純が洗車をしようと外へ出ると、塀に寄り掛かかるある少年が目に付いた。
少年は名前を太一と名乗った。
夜桜を見に長瀞へ足を運ぶ彼らの中には、奈々の姿があった。
四月の始め。純は洗車をしようと家の駐車場へ出て、蛇口に取り付けられたホースを引き伸ばした。
車体を濡らす為に蛇口を捻り、ホースの先を摘む。暖かな陽射しは水の中に虹を作り、ぼんやりと水の中の小さな虹に見入っていた。
家の前のカーブミラーにふと目を向けると、塀に寄り掛かかる少年の姿に気が付いた。
色が白く、純と同じようなベースボールキャップを被っている。
気には溜めたものの洗車に集中しているうちに少年の存在を忘れたが、時間が経っても少年はそこから微動だにしていなかった。
家が駅から近い為、塀に小便をしたりゴミを置いたりする者が後を絶たず、純は何か悪戯を企んでるのかもしれないと思いながら少年に声を掛けた。
「ねぇ、僕。さっきからそこで何してんの?」
声を掛けられた少年は一瞬驚いたような顔を浮かべたが、すぐにそっぽを向いた。
肌こそは白いものの、切れ長の目に何処か強い意思を感じる。
少年はそっぽを向きながら呟くように言った。
「何してるっていうか…別に」
「いや、俺ん家の塀だしさ。オシッコするのとか勘弁してくれよ」
「オシッコ!?そんなんしねぇし!」
「オシッコ」というキーワードに少年は笑みを浮かべる。
純はその子供らしさに思わず微笑んだ。
「まぁ変な事しなきゃ別にいいけどさ。待ち合わせ?」
「いや…別に」
「そっか。名前は?」
「お、俺?俺は太一」
「いくつ?」
「少4だけど…」
「へぇ。太一か。何か飲むかい?」
純は目の前にある自動販売機に目配せしたが太一はかぶりを振った。
「いいよ、俺、別に"こじき"じゃねぇし」
「ははは、そっか」
「あのさぁ…もう、ヤギは飼ってないの?」
「ははは!ヤギね。今は親戚の家に引っ越したよ」
「いないんだ…」
「まだ覚えてくれてる子供が居るなんて嬉しいね」
純が伸びやかな声でそう言うと太一は帽子を取って頭を掻いた。塀から離れて駅とは反対方向に歩き出す。
「もう行くんかい?」
太一は振り返り、純に訊ねた。
「お兄さん、名前は?」
「俺は純だよ」
「純、さん?じゃ」
短い挨拶をすると太一は走り出した。何処となく寂しげな少年だと純は感じ、彼が抱えるのはどの種類の孤独なのか考えると、孤独に種類がある事をいつの間にか知ってしまった自分を笑った。
毎年屋根の下に巣を作るツバメが頭上スレスレの距離を飛んで行き、それを追い掛けるようにして純は家の中へと戻って行った。
電話口で佑太は焦りを含んだ声で岳に伝えた。夜桜を見ながら花見をしよう、と長瀞へと出掛けたのだがシーズン中の週末の為にどの桜の木の下も花見客でいっぱいだった。
「がっちゃん、こっちダメだわ」
「駅の辺りは最悪だわ。全然、ダメ。やっぱ来るの遅過ぎたんじゃね?」
「どうすっか?少し離れてみる?」
「いや、もう少し様子見ようぜ」
「オッケー」
電話を切ると茜から電話が入る。
「がっちゃん?席取れたよ」
「えぇ!?マジで?」
「素敵なおじさま達がどうぞどうぞって譲ってくれたの」
「さすが、若い女だわ!今からすぐ向かうわ!」
茜の指定した場所へ向かうと、太鼓を抱えた一行が茜達と入れ替わりで席を譲っていた。岳達が遅れてやって来るのを見るとあからさまに一行の顔付きが変わった。
「何だよ!男連れだったんか!つっまんねぇ。おい!行くぞ行くぞ」
「あぁ!けぇるんべ!こっちゃん所で飲み直すんべぇ。俺ぁ若いのはどうもダメだ」
ビニールシートを抱えた岳は一行に愛想を振り撒きながら毒づく。
「お楽しみだったのにすいません。代わりにいっぱい楽しみますんで」
佑太と純は笑い声を上げたが、翔は岳の肩を小突きながら「やめとけよ」と囁いた。茜の隣には中学時代のマドンナの奈々が立っていた。
良和が真っ先に声を掛ける。
「あれぇ!?何で奈々ちゃんが居るん!?懐かしいなぁ。全然変わってねぇ」
奈々は彼らを見た途端、大きな目をさらに見開いた。
「わぁ!ヨッシーだ!佑太も居るし!がっちゃん久しぶりだねぇ!えっと…えぇ!?純君!?」
佑太が嬉しそうに純の両脇を抱え、前に差し出す。
「ほらぁ!純!行けよ!」
「何すんだよ!ちょっ!あ、どうも。あの、俺です」
「こんなに大きかったっけ?何かイメージと違うかなぁ。男の人って感じ」
「はは。まぁ、男だからさ」
「剣道部だったっけ?」
「まぁ、一応…」
「ほぼ、幽霊部員だよね?」
茜が楽しげに横槍を入れ、純は茜に一瞬言葉で伝え切れない感情を目配せにして送る。茜は含み笑いしながらその場を離れ、佑太と共に岳のビニールシートを広げる手伝いを始めた。
その日は茜の呼び掛けもあり、普段はアパートに訪れない同級生の女子達も顔を並べていた。後から合流した涼が「よりどりみどり!花みどりぃ!いいじゃない!グレート!」と叫ぶと「バブル」と囁く声がどこかからか漏れた。
恒例とも言える「昔好きだった人」の話になると皆の視線が一気に純に注がれた。佑太と岳が純に耳打ちする。
「おい、純。どうなん?マドンナを久々に目の前にした感想はよ?」
「こう見るとやっぱ松久さんより奈々ちゃんの方が可愛いよなぁ。で、どうなん?もう言っちゃえよ」
「ちょっとさぁ、えぇ?マジで言ってんのかい?」
千代が笑いながら「がっちゃんは皆知ってるもんねぇ!」と笑う。何人かが頷きながら岳を見る。
「もうバレてるけど、俺は森下が好きだったよ」
茜が笑いながら「ない、ない」と手を振る。涼が「そうだったの!?」と目を見開いたが岳は頷いただけだった。
下駄箱で目に付いた奈々の事を好きだと言って以来、その嘘はついに明かされる事なく今日まで来てしまった。
周りから「純君は?」との声が聞こえてくる。
本当に願っていた心の奥底に秘めていた想いが光に晒されて以来、純はそんな過去すら微かに愛おしく思えるようにもなっていた。
酒の代わりのコーラを飲み干すと純は言った。
「俺はさ、まぁ…奈々ちゃんが好きだったよ」
「えー!?嘘でしょ!?」
奈々の驚きの言葉に今更「嘘です」とも言えず、純は下を向きながら笑い続けた。
佑太がしきりに純の肩を叩いている。
「良くぞ言った!純!おまえは男だよ!認めるよ!すげーぜ!感動したわぁ」
「ははは。まぁ、今更隠す必要もないっしょ」
茜が純を指差しながら言う。
「ねぇ?純君って思想高いでしょ?だからモテないんだよ。身の程知らず」
「いや、それは自由でしょ。どうにかしようとかさ、俺はあんま考えないんさ」
「えー?だからコクんなかったの?」
「いやぁ。だってさ、面と向かったら照れるからさ」
全てを知っているのは茜だけだった。純の脆さや本音を知ってしまった以上、茜が出来る唯一の手助けは純の嘘に付き合い続ける事だった。何も知らないままの自分を、手探りで思い出しながら。
純が奈々を見る度に素敵だと想っていたのは本心だったが、本当に傍に感じ続けたいと願った相手は奈々では無かった。
瘡蓋が痛むには時間が経ち過ぎて、今になっては妙なこそ痒ささえ覚えた。
夜の桜は強い風に揺れ、その花弁を地上に積もらせる。岳は皆の輪とは間逆の方向を眺めている。帰り始める花見客達に踏まれ続けている桜の花弁を見詰めながら呟いた。
「汚れた桜の花弁ってさ、そのまま夏を待つんかね」
純は後ろを振り返り、夜の中を落ちる花弁に目を向ける。
「もしかしたら…自分達が咲いた自覚も無いかもしれんよね」
「まぁ…花だかんな」
岳の問い掛けは「ポイント」を外すと急に正解や諦めを吐き出す事が多々ある。空想と現実の両極端で生きている、と純は日頃から感じていた。急にドライになった岳を声もなく笑いながら、純は次に咲く桜の景色を想像し始めた。また、こうして誰かと居られる景色と共に。
風が強過ぎた為に彼らはアパートへ戻って飲み直す事にした。
桜並木の景色はすぐに渋滞に埋まった国道に変わり、やがて外灯の乏しい街の風景へと変わって行った。




