花泥棒
春めいた陽気に彼らの嬌声は響き続けていた。
純が手に取ったのは桜の小枝。そして、花泥棒は泥棒にならないと言う。
彼らの嬌声は暖かな宵の空気を震わせた。向かいの住人の妻が襖を開け、夫を振り返る。
「あなた、警察に電話して来てもらいましょうよ……」
「やめとけ。騒がしいだけで何かされた訳でもないんだし」
「でも……うるさすぎるわよ……」
夫は越して来たばかりの良和を車の音が煩いと怒鳴り、逆に盛大に怒鳴られた事を思い出す。迷いのない血走った目が鋭く、心を震わせた。窓からは眉毛の薄い金髪と、外国人ミュージシャンのような格好をした二人組がニヤついた顔を覗かせていた。
「あいつらに関わるな。寝るぞ」
「眠れるかしら……」
「……気にするな……」
騒がしい声が漏れ続けるアパートの壁の向こう。ファンタグレープをちびちびと口に運びながら、セーラー服姿の岳を退院したばかりの純が笑っている。
細身の紀子が置いていったというセーラー服に身を包んだ岳はスカートをひらり、とさせて言った。
「だから、スカート入るよって言ったじゃん。な?」
千代が茜の肩を叩いて叫ぶ。
「がっちゃんがそれだけ細いって事!?やぁだぁ!茜、どうしよう!私達よりスタイルいいかも!」
「ただ単に食べてないからでしょ!?がっちゃん痩せ過ぎなんだよ」
「違うよ。太らないように気をつけてるんだって!」
「はぁ?何?オカマでも目指してるの?」
茜の言葉に涼が「それも、悪くないじゃない!」と笑顔で力強く、唸るように言った。良和が頭を抱えながら「がっちゃん見てるとたまにムラムラする」と呟く。
岳がセーラー服を脱ぎながら笑う。
「そういやこの前、客の黒人に「かわいい」って日本語で言われたよ」
「あらあら、そのうち掘られるんじゃないの?」
茜がそう言って笑うと、岳は激しく顔を顰め舌を出してみせた。
「やだよ。そっちの趣味はないんだから」
「でもさぁ、そっち行ったら楽は楽だって聞いたぜ?ケツも中々悪くないらしいじゃない」
「え?涼さんってそっちなの?」
千代の問い掛けに手で小さなバッテンを作り、答える。
「違う違ーう!まさか!ノン!あ、そういえばこの前さ、仕事で千代ちゃんのお父さんに会ったよ。娘が世話になりますってさ。物腰柔らかくていい父さんだね」
涼の放った何気ない一言に、その場にいた誰もが口をつぐんだ。咄嗟に茜が涼を睨みつける。
千代は俯いたまま、唇を噛み締めながら言葉を落とした。
「私にお父さんなんて、いないよ」
偶然でも父親に会う事が無いよう、千代は日頃から男衾へ立ち寄るのを避け続けていた。たまには感じてみたいと願う思い出に耽る小さな感傷すら、千代にとっては勇気の要る行動だった。
「どういう事?あ、えっ……俺、なんか不味い事言ったっぽい……?」
目を泳がせた涼から視線を外すと、茜が楽しげな声を響かせる。
「それより新しいカクテル買って来たから飲もうよ!ね?千代、たまには甘いお酒も良くない?」
「そうだね、うん。茜、ありがとう。これ見た事ないなぁ……わざわざ買って来てくれたの?」
「うん。そこのファミマだけど」
「近ーい!」
千代がいつもの調子で再び笑い出す。佑太が和室から「涼さんこっちー来てー!」と楽しげな声を上げる。涼はその場から逃げるようにして「はいはーい!」と返事をして和室へと足を運んだ。
和室では楽しげな声とはまるで無縁の真顔の佑太が涼を待ち受けていた。
「あれ、ゆうちゃん……どうしたの?」
「どうした、じゃねぇよ」
「え……何……?」
「もうあいつの前で親父の話すんな」
「いや、仕事で世話になったし……世間話のつもりだったんだけどな……」
「何が何でもすんな。次は容赦しねぇからな。以上」
「……分かったよ」
「じゃあ飲みましょうやー!」
「かんぱーい!酒が無いじゃなーい!」
「取りに行ってこーい!」
涼が口をへの字に曲げながら通り過ぎたダイニングで、純は翔と安田と共にファミコン時代のゲームの話で盛り上がっている。
「純君って魔界村やった事あんの?」
「あぁ。ファミコンもスーファミも全クリしたね」
「マジで!?あれ全クリとかマジ無理じゃない?」
「いやいや、集中すれば大丈夫っしょ」
「いやぁ、本当かなぁ?」
純を疑って掛かる安田の言葉に、翔がかぶりを振った。
「いや、マジでこいつは尋常じゃないって。ドクターマリオだってやり込み過ぎて落ちてくるカプセルのパターン、把握してんだぜ?」
「純君、どんだけ暇なんだよ」
「暇って言わんでくれる?俺はゲームで忙しいんさ」
安田が笑い声を立てるその横で、茜が良和に紀子との近況を訊ねていた。
「最近紀子とどうなの?」
「あぁ。のんのん、泊まったで」
「泊まったの?え、どこで?」
「ここ。のんのん、泊まってったで」
「えぇ!?ここ!?ここって……紀子、すごいわ……」
散らかった漫画本。脱ぎ捨てられた衣類。男臭く、湿った部屋。良和が越して来て間もない頃、純と布団に潜っていた頃より数段汚くなった部屋中を見回し、茜は苦笑いを浮かべた。
部屋の住人の良和は特におかしいとも感じていない様子だった。
「何でぇ?別に普通じゃん」
「良和、普通っていう場所はこんな汚くないよ」
「えー!?一緒にお風呂も入ったし……普通じゃね?」
「風呂!あー、聞きたくない聞きたくない。衛生的にもういいわ」
そう言って茜は空いた缶を次々にゴミ袋に纏め始めた。和室では佑太が岳にミチとの間の悩みを打ち明けていた。
「大切だって伝えれば伝えるほど距離が出来るっつーかさ……どうしたら上手く伝わるんかなぁ?」
「逆にあんま言わないほうが良いんじゃん?」
「えぇ?何で?」
「言われすぎると嘘臭く感じて余計な心配掛けるだけだで。もう愛のバケツはいっぱいなんだよ。二人でひっくり返して空にすればまた入るよ」
「なるほどねぇ!たまにはひっくり返してやるかぁ!ミーチー!」
「ははは。まぁ頑張ってよ」
「がっちゃんはどうなん?大切だって、相手に伝えてるん?」
「そりゃ愚問だよ。そんな分かり切ってる事……それが前提でも、色々大変なんだよ」
「ふーん……。長く付き合ってても問題は次々出てくるもんなんだなぁ」
「こればっかりはね。付き合い長い分、自分達だけの問題だけじゃなくなって来るし」
友利の父の病状。新しく始めた夜の仕事。苦しくなる一方の家計。おまけに友利の姉が失踪するという出来事まで起こっていた。岳は対外的な問題に友利と共に向かう事で、友利との間の問題には目を向けることを忘れがちになっていた。
純はジュースを買いに外へ出ると、小さな桜の小枝を持ってアパートに戻って来た。蕾が僅かに開き、花が咲き掛けていた。
良和が「てぇっ!」と短く声を上げる。
「花泥棒がいやがるで!」
「ははは!綺麗かなぁと思ってさ。それに、花泥棒は罪じゃないんだよ」
「誰が言ってたん?」
「がっちゃん。確かそうなんでしょ?」
純に問われた岳は「そうだよ」と頷く。翔が「んな訳ねーだろ!」と指摘すると安田が純を「だってさ。窃盗犯」と笑う。
茜がその手に握られた桜の枝を眺めながら「春なんだなぁ」と呟く。いつの間にか変わり行く季節に、茜は過去を思い描く。
知らない顔だけが並ぶ桜並木と、高校の校舎。新しい「自分」を作る為の生活。そして、結局は古巣に戻って来てしまった事に、少しくすぐったいような気持ちを覚える。
ツバメのようだ、とも思う。
千代が桜の小枝を純から受け取り、鼻を寄せる。
「ダメだぁ!全然匂い分からない。お酒飲んでるからかな?でも花泥棒は罪じゃないって、何か詩的だね」
茜は千代の意見に同意する。
「ねぇ。花はきっと盗まれる為に咲いたのかもしれないよね」
良和が「出たぁ!女の話!」と茶々を入れる。岳が「たまには叙情的になれよ」と言うと「ジョジョなら分かる」と話を一掃した。
千代から桜の小枝をを渡された茜は軽く揺らしながら微笑んだ。
「春だなぁ。もう冬が終わったんだねぇ。何かあっという間だった」
「大人になると早いっていうの、分かる気がする。何か毎日同じ事の繰り返しになって来てる気がするよ」
「千代は学生だからイベントとかもあるでしょ?」
「まぁねぇ。それでも決まり切ってる事やってるだけだし……昔は何で一年が長く感じたのかなぁ?」
「本当不思議だよねぇ。気付いたら今年22だよ?ヤバくない?もう全然「女の子」じゃないよ」
「やばーい!ちょっと、それ考えるの止めにしよ?年の事考えると気が狂うわ」
岳が笑いながら「22になるのに、まだ死んでねーんだよなぁ」と呟く。純は「誰の事?」と訊ねた。岳は掠れた声で「自分」と答える。千代と茜は「えー?」と不満げに声を漏らし、純は笑いながら岳に言う。
「がっちゃんコロッと逝きそうだもんなぁ」
「意外と逝かないんだよな。でもさぁ、長生きしたくねぇんだよ」
「早く死にたいなぁって思うんかい?」
「自殺願望がある訳じゃないけど、長生きって何かダサいじゃん。ロックじゃない。J-POPみたい」
「ははは!無茶苦茶言うなぁ。皆それ目指して生きてるらしいけどさ」
「その中の一人にはなりたくねぇな。ネクタイ締めて頭下げるような人間になったらさ、純君が俺を殺してくれよ」
「ははは!じゃあさ、俺も社会問題無視したりヒップホップついていけねぇとか言ったら殺してよ」
そこへ佑太が甲高い声を上げながら混じる。
「俺も俺もー!女のケツ追い掛け回すのやめたら殺して欲しい!」
翔が佑太を指差して笑う。
「やめる以前によ、おまえはドラゴンレーダーみてぇに女のケツの匂い感じ取るレーダーついてんじゃねぇの?」
「それなら誰かぶっ壊してくれぇ!」
「今やめたら殺してくれって言ったばっかじゃん」
茜が「佑太は猿だから野生に帰してあげないと」と割って入る。千代が「佑太は顔に性欲が滲み出てるんだよ!」と叫ぶ。
彼らは笑い合いながら、拙い頼りを手にそれぞれの未来を思い描く。
生きる上での経験は幾らあっても、それなりに大きな余白が残るキャンバスに何を描こうか迷う者。何を描けば良いのか戸惑う者。描くのを止めようとする者が居た。
しかし筆は握られたままだった。
余白に対して躊躇する間、運命という名の他者がそこへ悪戯を書き込む事がある事すら知らずに、彼らは筆を握り締めていた。




