処理場
涼は茜の指摘により窮地に立たされる。そして、彼らを見くびっていた代償はあまりにも大きかった。
満面の笑みで振り返った涼に茜は冷たい口調で言った。言場の角がひどく凍り付いて、心に引っ付いてしまいそうだった。
「何でこいつが「先生」だって知ってんの?」
茜の指摘にその場に居た誰もが涼を振り返る。千代も、関口も、良和も、翔も、稲村も、純も、その目に疑念と憎悪を浮かべているのがはっきりと伝わって来る。
涼は咄嗟に言葉を繋いだ。
「え!?さっき先生だって言ってたじゃない!そんな怖い顔して、どうしたの?」
「私、こいつの横でずっと話聞いてたけど、誰もこいつが先生だなんて言ってないよ?」
「あれぇ、聞き間違いかな?おかしいな。そんなはずないでしょ。っていうか……茜ちゃん、大丈夫?混乱してるんじゃない?」
涼は話の矛先を茜に向け、何とか取り繕おうと両手を広げて明るく言った。しかし、純が小馬鹿にするような笑みで涼を見た。
イタリアンレストランで見た、あの笑みだった。
今は怒りよりも焦りを激しく感じる。涼と目が合うと純がぽつりと言った。
「グルかい?」
純の短い言葉に翔が立ち上がり、涼の前に颯爽と立つ。
唾を飲み込もうとしたが、水はとうに枯れ果て、喉が引っ付いただけだった。
「信じたくないけど……森下が言った事はマジでその通りだわ。俺もヨッシーも、この腐れ外道が先生だって一言も言ってない」
「だから……言ったんじゃないかな……でしょ?何で俺は先生って言ったんだろうね?おかしいね」
「つまんない嘘ついてたら許しませんよ」
「その、仮に皆がその人の事を先生だと言って無かったとしても、仮にしてもだよ?俺が間違えて言った言葉がたまたま当たった事だってあるじゃない。そしたらさぁ、逆に、寧ろ逆に、涼さんの勘って凄くない?ってなるじゃない?始めから寧ろ逆なんだわ。そうそう。そうだった」
涼が無理を押し通そうとするが怒りの熱を放ち続ける翔にはまるで通用しない。
「間違った言葉を簡単に吐く程、考えなしで喋るように思えないんですけど。違いますか?」
「人間だから、まぁ……間違いがある事を認めざるを得ない状況だって事は認める……しかし、だよ?」
「もういいです。俺が聞きたいことの意味分かりません?分かってますよね?」
言い訳をする事も、話をすり替える事も不可能だった。逃げ場を完全に塞がれた涼は視線を泳がせた。誰を見ても視線は激しい勢いで跳ね返された。
しかし、負けて恥を掻く訳には行かなかった。わざとらしく大きな溜息を吐く。
「分かったよ……認めるよ」
「何をです?」
「そこにいるのは……芦野さんだろ。知ってるよ」
芦野は涼の言葉を聞き、恥ずかしそうに頭を掻いた。それが演技だと涼だけは気が付いた。涼は如何にも気まずそうな顔を浮かべると続けた。
「芦野さんは世話になってる取引先の工場の従業員なんだよ。昔先生やっててさ、皆からは今も先生って呼ばれてる。だからまぁ……顔見知りってか、名前と顔くらいは……」
涼の言葉に彼らは張り詰めた空気を解いた。しかし、疑惑はスープのように空気の中を漂ったままだった。
「何で知ってて嘘ついたんですか?」
「言えなかったんだよ……まさか知ってる人がっていうショックもあったし……仲間だとか思われたくなかったし」
「社長……お恥ずかしい所をお見せしてすいません。申し訳ない。この通り」
芦野がそれらしく頭を下げ、涼はひとときの安堵を覚える。
「涼さんには頭下げんのに俺らには何も言わないのかよ。テメェ本当、最低だな」
「違うんだよね、その、話を聞いて欲しかっただけだったんだよね。皆、本当はいい子だからね」
腕組みをしながら涼が如何にもそれらしく、言ってみせる。
「芦野さん。いくら元生徒相手だってやっていい事と悪い事、あるの分かるでしょう?」
「はい……まぁ」
「それに……」
涼の用意していた説教の言葉の数々は彼らからマウントを奪う役目をすっかり失っていた。今は彼らの疑惑の目を晴らす為に使われるだけの、自分を救うだけの為の言葉に成り果てたのだ。
いざ説教を始めようとした矢先、玄関の扉が勢い良く開かれる。
振り返るとアパートに現れたのは金髪パーマの彰だった。
「おう!おじゃまんこ!皆どうしたん?葬式?あれ、あんた誰だっけ?スーツで来んなよ、堅っ苦しいで。まぁいいや。翔君元気か?純君いい加減童貞卒業したんべ?茜ちゃんもよろしくやってんか?千代ちゃん、麻衣ちゃん、今日も可愛いわぁ。で、ヨッシーさぁ、これから熊谷行って小木と会うんだけど来るべっておーい!!芦野じゃん!!」
彼らに取り囲まれた芦野に気付くと、彰は大げさに仰け反ってみせた。事情を茜から聞かされた彰はその場で笑い転げた。
「あーはははは!馬鹿教師がここにいるぞー!先生!来年はストーカーの教科書作れよ!新しい教科になるで!新授業「つきまとい」ぎゃはは!」
「その……皆がね、本当は良い子ってね、知って欲しかっただけなんだよね」
「悪人に言われたかねーや!あはははは!あー!面白ぇ!あー!そうだ!先生!」
彰は楽しげな表情で芦野の肩を掴んだ。その肩は震えていた。
「な……何かな……?」
「熊谷にさ、小木っつーすっげーとんでもなく悪い子がいんだけど。知ってるべ?」
「小木君ね……知ってるけど……た、確かに良くない子なのかな?でも……皆、良い子だね……」
「あぁ?オメェの意見なんかどうでもいいんだよ。口腐ってんだから喋んな。クセェ。ちっと待って、電話すっから。あ、もしもし小木?そう、俺。モテモテマンの彰だけど」
彰は笑いながら小木と電話で何やら話し始めた。彰の言動の端々に、彼らはようやく笑い声を上げ始める。
「おう!芦野が千代ちゃんストーカーしてヨッシーにボコられてさ、今、末野アパートにいんだわ。そう。そんでさ、どうしても!どうしても!死んでもいいから芦野が小木の事を更生させてーんだと。あ?そう、小木は悪い子だって。極悪人だって言ってるで」
「そ、そんな事、言ってないんだけどな。小木君は、心優しくていい子なんだね、うん。魚が好きで……絵も上手くて、数学が得意だったね」
「こいつ、どこの誰の事言ってんだよ」
翔がそう言うと笑いが起きたが、内情を理解出来ない涼だけが借りてきた猫のように大人しくしている。
「タイマン上等、体育教師ナメんじゃねーって調子こいてるで。小木なんか一発だって。掛かって来いだって」
「掛かって?それはきっと、電話の事なんだね。うん。良くないね。嘘はね、やめようね」
「今から連れてくからさ。おお、やる気満々じゃん!でもよ、芦野も負けてねぇで。え?何?あ、そうなん?処理場?スクラップの?」
「ちょっと、え?何かな?その、とてもいい子の言葉には思えない言葉が聞こえたかな。え?」
「あ、そうなん?じゃあバレねんだ。すげーで。鍵もあんだ?へぇ。まぁ面白そうだから連れてくわ。おう」
電話を切ると彰は勢い良く立ち上がった。
「うっし!芦野!行くんべ!」
「ど、どの、どこに行くのかな?」
「ここにいたってオメェ警察呼ばれっかもしんねーから。それじゃつまんねーし」
「へぇ!?それは、つ、つまるようにならないかな?」
「なんねーなんねー。ほれ、行くで」
「かっ、翔君?ね?人がこういう時は、何て言うのが、本当の良い子なのかな!?」
目を白黒させる芦野に翔は穏やかな口調で返す。
「行ってらっしゃい」
純が手を叩いて大笑いする。誰も芦野を救おうとはしない。
「ほら、立てよ。悪い子の所行くから」
「あの、えっと……涼さん、ねぇ!」
「うるせぇ早くしろよ」
「涼さん!ねぇ!」
芦野は彰に強引に腕を掴まれ、車に乗せられてアパートを後にした。涼は下手に相手を舐めて掛かる事の恐ろしさを知り、この場で彼らからマウントを奪うことを諦めた。良和の暴力性、翔の正義感、茜の鋭い指摘、純の臨機応変な対応、全てが計算外だった。
何も出来やしない「ガキの集まり」だとタカを括っていた自分を恥じた。
しかし、涼はその場を離れると再び叶わぬ欲望の為に喘ぎ、うなされ、抗う事を決めた。
芦野がその後どうなったかを知るものも居なければ情報すら入って来なかった。彰に聞いても小木が笑いながらどこか連れて行った、としか聞かされなかった。
12月に入ると季節はすっかり冬になり、赤城下ろしの影響なのか強い風の日が続いた。
茜がアパートを純と出ると携帯に涼からの着信が入った。疑惑の念は晴れないまま、涼と彼らは距離を取るようになっていた。
「もしもし?茜ちゃん?」
「あぁ、こんばんわ」
「ちょっと頼みがあるんだけど、いいかな?」
「何ですか?」
「アパートに遊び行った帰りとかでいいから、俺ん家来れないかな?」
「今日、これからなら」
茜は電話をしながら純に頷くと、純は無言で親指を立ててみせる。茜がどこに行こうとも純は時間の許す限り送り届けるつもりだった。茜に対して出来る事を日々、実践していたのだ。
「茜ちゃん、申し訳ないんだけど先生から千代ちゃんに宛てて手紙を預かってるんだ」
「それは受け取れません」
「いや……それが迷惑料も預かってて……取りに来てくれない?」
「それなら……まぁ。渡さない訳にもいかないか」
「頼むよ。俺もいつまでも持っていたくないし」
「分かりました。じゃあこれから行きます」
「よろしく」
茜は電話を切ると溜息をついた。千代の為とはいえ、これから涼に会わなければならない事が思いの他、茜の心の負担になった。
しかし、隣でエンジンを掛ける純を見て安堵を取り戻す。
茜と純が互いに見つけた心地の良い距離に大きな喜びは無かった。しかし、揺らぐ事のない大きな安心がそこにある事を知っていた。
事情を察した純が微笑み、茜を先回りする。
「森下。どこに行けば良い?」
「うん。涼さん家。千代宛の預かり物」
「へぇ……まぁ行ってみるかい」
「うん」
涼の家には茜と純は過去、岳と共に二回程訪れていた。山の斜面に立てられた住宅街の一角にその家はあった。
家の裏手の平らな場所に車を停めると、純が心配そうに茜を見つめた。
「携帯持った?」
「うん。大丈夫」
「何かあったら電話してよ」
「すぐ戻るから大丈夫だよ。待っててね」
「あぁ。待つのは任せてよ」
茜は純の言葉に僅かに微笑むと、車を降りてインターフォンを押す。すると、すぐにタートルネック姿の涼が出迎えた。




