夜の声
涼の異常性を見出した純は茜との絆を再び強めて行く。そんな中、純に対しての苛立ちを募らせた涼はある男と出会う…
茜が勤務を終えて携帯を開くと、着信アリの表示がディスプレイに表示された。
発信相手の名前を見た途端、思わず息を呑んだ。雨の匂いを引き連れた秋の風が髪を揺らしていた。
届けられたメールをチェックするとすぐに折り返しはせず、純に電話を掛けた。
「もしもし?」
「あ……純君?」
「やぁ。今、仕事終わりかい?」
「うん」
数週間ぶりに聞く電話越しの純の声は、どこか晴れやかに聞こえる。近頃感じ続けていた暗さの影や自信の無さががあまり感じられないように思えた。
「純君さ、涼さんと何かあった?」
「あぁ。こないだ昼間寝てたら呼び出されてさ、メシ行ったんさ」
「そうなんだ。その時さ、何かあった?」
「いや、別に?」
「ねぇ。変な事されてないよね?大丈夫?」
「え?何もないけど。何かあったんかい?」
「なんかね……「純君だろ?」って、昼に涼さんから一言だけのメールが届いてたの。あと、着信も。気味悪いよね……」
「あいつ……」
純はそれが何を意図した言葉なのかすぐに分かった。何が「堂々と勝負」だ。せこいやり方で茜の様子を伺う事しか出来ないただの小物じゃないか。
少し前なら「そうか」と自分に言い聞かせるようにして引き下がっていたかもしれない。しかし今は、涼に対して自然と怒りが湧き上がってくる。それはまるで底を知らない尽きないエネルギーのようだった。
茜が涼に対しての文句で口を開きかけると、純が電話越しに茜の唇を塞いだ。
「森下は?」
「えっ?」
「森下は大丈夫?何もないかい?」
「うん。訳分からないメール来てたけど、私は大丈夫」
「なら、いいんさ。良かった」
「あはは、ありがとう。本当、変な奴だよね」
純の「良かった」という嬉しそうに声に、茜は思わず顔を赤らめた。純も茜も、流れてしまう季節の中で絡まり、固まりかけていた糸をそれぞれ懸命に解いていたのだった。
どこかにあったぎこちなさを許すような純の言葉に、茜は自然と勇気付けられる。また話したい、と自然と思えて来る。出来れば近くで、その姿を眺めながら。
「ねぇ、純君。夜、空いてたらご飯でも行かない?」
「ごめん。明日広告が凄く入るからさ……その、早めに行って折込しなきゃいけないんさ」
「そっか……」
心のどこかでやはり純に「避けられている」と感じ、茜の胸に緊張が走った。風の中に冷たいものが数滴、混じる。せめて声だけは笑ったまま、電話を切ろうとすると純が言った。
「都合良かったらさ、明日どうだい?」
純の誘いに、茜は見る見るうちに笑みが零れてしまう。その口ぶりはいつか純がUFOキャッチャーの前で「取ってやろうか?」と茜に言った時と同じ質感だった。
他人には気軽に聞こえる言葉でも、その奥にある重さや秘められた自信が茜には垣間見え、心が躍る。弾けそうになる言葉を抑えながら、茜は純の口ぶりと同じやり方で返す。
「明日ぁ?私を誘うなんて純君の癖に生意気!」
「ははは!何だよ、そっちから誘って来た癖にさぁ」
「あははっ。私は安くないんだからね?明日ね、いいよ。同じ時間に終わるからファミレスでも行く?」
「まぁ、その辺は適当に。明日会って決めてもいいしさ。とりあえず、仕事お疲れ」
「うん。純君は頑張ってね」
「サンクス。じゃあ、また明日」
「はーい。また明日ね」
「また」と言い合えた二人は笑顔のまま電話を切った。しばらくは純が目の前から消える事はないだろう。何となく、茜はそう確信していた。
岳がおでんの什器を片付けようかタイミングを見計らっていると、純が店に入ってきた。いつもより一時間程早い。
「あれ?不良ラッパー!今日ずいぶん早いじゃん」
「あぁ。折込が多くて早めの出勤になったんさ」
「マジかよ。頑張るねぇ」
「それよかさ……ちょっといい?」
「何だろ?女は間に合ってんだろ?」
「いやいや、まぁそれは……。あのさ、あの涼さんって人、大丈夫なんかな?」
「何が?」
「頭さ。あの人って頭、平気?」
純の真剣な眼差しを前に岳は腕組したまま宙を眺め始めた。そのうち「うーん」と唸り始めるとパン売り場の前に居た青柳がくしゃみをした。純が顔を顰めて言う。
「あーあ。あのパン、全部廃棄だね」
「純君、平気ではないと思う」
「ほう。そっか……」
そう言うと純は顎鬚を触りながら何か思案し始めた。
「純君、何かあったん?」
「いや、何かなぁって思ってさ。何もないけど」
「まぁ涼さんも大人だからね。下手な事はしないと思うけど」
「それはどうだろ」と言い掛け、純は岳に心配は掛けまいと口を止める。誰かに触れられたくなかったのではない。岳に迷惑を掛けたくないのではなく、純は茜を自分自身の手で守りたかったのだ。それゆえ、純は涼に対しての岳の見立ての甘さに口を挟みたくなってしまう。
「もしさ……変な事しそうだったらさ、俺は出るとこ出てもいいかな?」
岳は意外な純の強気な発言に感心したように目を丸くし、話題に出されている涼がどんな人間だったかを一瞬忘れてしまう。
「おお……そん時は止めないよ」
「サンキュー。じゃあ、行くわ」
「純君、なんだかイケイケだな」
「あぁ。B系じゃなくてB-BOYだからさ」
そう言って笑うとオーバーサイズのデニムのアウターポケットに手を突っ込んだまま、純は店を出て行った。
「喜ぶといいですね」
それ以上の侮辱の言葉は無かった。初めて見た時、茜と純はきっとそうだろうと気付いても物怖じしない自信はあった。
顔は良くてもどこか冴えない、口癖は少なく存在感も少ない青年だったはずだ。
その青年、純が涼に放った言葉は最大級の侮蔑の言葉だった。おまえが何をしようと関係ない。勝手にすればいい。挙句、相手が喜ぶ事すら願われた。
薄ら笑いを浮かべながら、だ。
涼は寄居駅前の焼き鳥屋のカウンターでグラスを傾けながら、こめかみに血管を浮かばせている。考えれば対抗策よりも苛立ちがまず、浮かぶ。堪らず、隣に座る男に声を掛けた。
「今時の若い奴って言うのは……何考えてるんでしょうね」
「酔ってますね?それ、実はね、昔っから言われ続けている言葉なんですね」
40半ば過ぎだろうか。目の細い角刈りの男は笑いながらそう言った。今夜の酒のアテになりそうだった。
「しかし、あなたもまだ若いでしょ?」
「俺ですか?あと2年もしたら30男ですよ」
「何言ってるんですか。若い若い!ゾッとするくらい、羨ましいですよ」
「社長です」
「それはそれは……私なんかみたいな人と喋ってしまっていいんですか?」
「酒の席に身分なんかありゃしませんよ」
「そうですかね。なら、いいんですけど、ね」
「あの……お仕事は?」
「私は……しがない工場の作業員です。身内がやってるもんで、そこで世話になってます。お兄さん、お住まいは?」
「今は男衾ですよ。本当、何もない。目を奪われる景色もない。苛々するくらいにね」
「ほう……男衾ですか」
「男衾なんですか?」
「いや……違うんですけど……ね。その、まぁ、ね」
「何です?」
「教師だったんですよ。中学の」
「え?」
「もう何年も前ですけどね。まぁ色々あってね、辞めましたけど」
「猪名川とか、あと高崎……分かりますか?」
「あぁ……彼らね。苦労させられましたよ。あいつら知ってるんですか?」
「まぁ、とある縁で。そうか……」
涼はそうひとりごち、腕組をしたまましばらくの間何かを思案し始めた。隣に座る男はメニューを悩み始めたのだと思い「カシラ、美味いっすよ」と横から声を掛けた。
「あの……元とはいえ……先生」
「はい?なんでしょ?味噌ダレ付けて食うんですよ」
「いや、秩父出身なんで分かってます。そうじゃない」
「はい?」
「先生、また一緒に飲めませんかね?」
「それはまぁ、いつでも大歓迎ですよ。今の仕事以外、全て失くしたような人間ですから」
「あの……お名前は?俺のことは「涼」って呼んで下さい」
「これはこれは……失礼。私……いや、俺は芦野って言います。すぐ近くの会社の寮に毎日居ますから。いつでも連絡下さい」
「そりゃ、ありがたい」
涼はそう呟いて、お猪口を空にした。




