イヤホンジャック
アパートに訪れる者それぞれが自分と戦いや葛藤を抱えていた。誰よりも大きな声で笑う千代の抱える孤独とは。
高校を卒業する間際、千代は両親から離婚を伝えられた。元々家を留守にしがちな父を千代は好きになれなかった。
幼少期の頃から可愛がりたい時だけ可愛がられ、機嫌が悪ければ話したい事すら聞いてもらえず、父はその度に何処かへと出掛けて行くとすぐには帰って来なかった。
突然帰って来る父に千代はどのような顔をしていればいいのか分からず、家に居ること自体が大きなストレスとなった。
父に気を遣い、疲弊する母親。家の中に居ても、そこが千代にとっての居場所だとは思えなかった。
両親の離婚を聞かされた時には心の奥底から「解放された」と感じた。
母と二人で暮らすアパートのすぐ近くに、純の車が到着する。
千代の家に泊まっていた茜が帰り支度を済ませて玄関に向かうと、千代が声を掛けた。
「茜、どうやって帰るの?」
「アッシー君が来てるから大丈夫!」
「えぇ!?茜……アッシー君なんか居るの!?私なんか学校行くのに毎日電車とバスだよ!ねぇ、私ってモテない女なの?茜みたいな今時のモテるコは皆アッシー抱えてるの?」
「そんな事ないよ!千代は色も白いし美人だしモテない訳ないでしょ。佑太なんかしょっ中「千代~千代~」ってうるさいじゃない」
「あんな人外に言われてもストレスで傷付くだけだよ!」
「へへっ。ねぇ、見てあの車」
玄関を出て外に出ると、駐車場に見覚えのある軽自動車が停まっていた。千代は思わず大きな声を上げる。
「えっ!純君じゃん!茜、友人をアッシーに使っちゃダメだよ!」
「なーんてね。アッシーじゃないよ。CD借りるついでにドライブしてくるの」
「ちょっと待って、いつからそういう関係なの?茜、私に隠し事してたの!?」
「違うって!あくまで「友達」としてだから!暇らしくてさ、引きこもってばっかでも困るし呼んだの」
「友達ならいいけどさぁ。そうならそうだって言ってよ?それはそれで面白いからぁ!」
「からかわないの!本当、何でもないんだから。じゃあまたね!」
「うん。バイバイ!純君によろしくね」
茜の姿を確認すると純はエンジンキーを回した。車内に純の好きなヒップホップが流れ出す。
「純君、おはよう。よろしくね」
「あぁ、暇だったからさ……どっちがいい?」
純が助手席に乗る茜にそう言うと、シフトレバーに純の好きなチュッパチャップスが二本刺さっているのが見えた。
茜は赤色のチュッパチャップスを選び口の中に入れると、たちまちチェリーの酸味が広がった。
「さぁ、新川選手。この飴が終わるまでに目的地に辿り着けるでしょうか?」
「ははっ。三十分じゃ無理だね。まぁゆっくり行くかい」
茜を乗せた車は迷いながらも走り続ける。夏を感じさせる季節になり、エアコンを消していた車内はたちまち暑くなる。
窓を開けるとそれが心地良く、茜は飴を舐めながら埼玉の長閑な風景に目を向けていた。
「純君、この景色畑が広がってて気持ちいいね!今走ってるのって何処なの?」
「ごめん!俺も分かんないんさ。でも、どっか大きい道にそのうち出るから大丈夫だよ」
「マジ大丈夫?まぁ……急いでないからいっか」
純と茜はどこへ向かっているのかも分からないまま、それでも車は走り続けた。互いに知らない景色に驚き、笑いながら。
夕方六時にどっと訪れる客の群れ。岳の前にはすぐに行列が出来上がり、バックヤードの呼び出しボタンを押した。
青柳が急いで現れ、もうひとつのレジを開ける。
「二番目にお待ちのお客様、こちらへどうぞ」
青柳が岳よりやや年上と思われるショートカットの女性にそう告げると、女性はきっぱりとした口調で言った。
「結構です!」
その言葉に後ろに並んでいた男性客が戸惑い、さらに後ろに並んで居た客に目配せする。
「先、あちらにどうぞ」という意味らしかったのだが、岳のレジに並ぶ客たちはすぐに動こうとはしなかった。
一番後方の客が列から脱落するように、年配の女性客が青柳のレジへ向かう。
青柳は平静を装っていたが客が捌けると声を荒げた。
「ワシは何であんな否定されなアカンのですか!なんでだぜぇ!?わからんぜぇ!?何ですか、この辺り一帯でワシに関する妙な噂でも出回ってるんですか!?」
岳はレジの中の百円玉を補充すると青柳に向き合った。
「何で一番最初に自分に原因があると思わないんですか?」
「ワシにですか!?ありえへん!何処に原因があるんです!」
店長代理として青柳がチーフとして就任して以来、客足は途絶える一方だった。「青い髭が気持ち悪い」「言葉使いが気持ち悪い」「自分の買う商品を触って欲しくない」「息が臭い。しつこい」等、青柳に関してのクレームが様々な客から上がるようになっていた。
岳は例え青柳が先輩で、以後関係が気まずくなっても言うべきことはそのまま伝えようと覚悟を決めた。
「まず、何でしっかり髭を剃らないんですか?」
「それは……ワシは家に帰れば店のために株価の分析や市場動向の調査をせねばならんので……忙しないのです」
「青柳さんは経営者じゃないですよね?時給で雇われてるバイトですよね?気にしなくても大丈夫ですよ。それより髭剃ってください。女性客からのクレーム凄いっすから」
「そないに……ワシは背も高いですし、渋いと思っていたのですが……」
「ただ気持ち悪いだけなんで。あと、息が臭いし手が汚いです。よく洗ってください」
「そんな……そんな!ご友人の冗談やなかったんですか!」
そう言うと慌てふためいた青柳は自分の手で口を覆い、自らの息の匂いを嗅ぎ始めた。岳はその行為に激しく嫌悪感を覚え、思わず声を荒げた。
「やるなら裏でやれよ!汚ねぇなぁ!」
「す……すんまへん……。あ……後はなにかありますでしょうか……?」
「押し付けがましい接客、変な関西弁、全てです」
「それは……客はワシに「死ね」とでも言うんですか?」
「そうです」
「そんな……」
青柳はしばらくの間頭を抱えて考え込んでいたが、岳はもうどうでもいいとさえ思い始めていた。これ以上何か聞いてくるようであれば、立場を逆転させてここに来るのが嫌になる程の想いをさせてやろうかとも。
すると、青柳が再び岳に訊ねた。
「あの……女性はワシの一体何が嫌なんでしょうか……?」
岳は呆れ果てた様子で笑い、そしてほくそ笑んだ。青柳はその日から岳の新しい遊び道具となってしまったのだった。
茜が帰った後、千代は勉強の為に必要な書籍を求め、電車で本屋へと向かった。
夏の気配が本格的になって来て電車内では薄着の者も現れ始めてきた。窓の外の太陽は街中に濃い影を作っている。
幼少期に自分の居場所が見出せない生活を送っていた為か一人で何処かへ出掛ける際、千代は今でも必ず自分の心が酷くざわつくのを感じていた。
窓の外からふと正面に目を向けると、電車の向かいの半袖の中年男性が千代を眺めていた。薄く禿げ上がる頭。肉のついた顎。分厚い唇。
千代は男から目を逸らすとイヤホンを耳にした。目線を伏せ、俯き、その場をやり過ごす。
男が立ち上がり、入れ替えに老婆が座っても千代はしばらくの間そうして居た。
「私はイヤホンをしている」
という周りへのアピールが、外から自分を守るたった一つの武器だった。千代にとってのイヤホンは音楽を聴くためのものというより、自分の心の平静さを保つ為のアイテムという要素の方が強かった。
その証拠にイヤホンジャックは千代のバッグの中で、どこへも繋がれてはいなかった。




