便所ラッパー
自分と他人との差異に苦しみ、逃げ所を求めてトイレへ篭る純。尿意を催した千代の叫びは純に届かず、良和は強行手段に出る。
純の閉じこもるトイレの前で、千代の大声は絶叫へと変わった。
トイレの扉を握り拳で叩きながら絶叫する。
「純君!純!あー、もう!新川 純!」
関口が「コンビニ連れてこうか?」と声を掛けたが千代はその場に崩れ落ちた。
「ごめん!間に合わない!もう無理!無理無理無理!」
岳と佑太がトイレのドアを叩き、電気を点けたり消したりしたがそれでも中からは何の返答も無かった。
「純君、な、中で死んでんじゃねーよな!?」
猿渡がそう言うと、血相を変えた良和がドライバーを手にトイレの前に群がる一同を「どいて!」と一蹴する。
引越し間もないトイレの鍵は緊急性を感じた良和の手により瞬く間に解体され、そのドアにぽっかりと丸穴が空いた。
その穴から一同は中を覗き込むと、その場に居た誰もが息を呑んだ。
丸く開けられた穴の向こうの純はトイレの便座に座り俯いたまま、ぶつぶつと小声で何かを呟き続けていたのだ。
一体純はどうしてしまったのか。
奇行ともいえる純の行動に一同は首を傾げたが、我にかえった千代が絶叫した。
「ちょっと丸見えなんだけど!もう!それでもいいから早く開けてぇ!」
佑太がすぐさま丸穴に手を伸ばし、ドアの開閉レバーを内側から外す。
開け放たれたトイレの中から佑太と良和と岳が純を引っ張り出す。引っ張り出されながら純は抵抗する様子もなく、ぐったりしたままラップを呟き続けていた。
千代がトイレに入ると関口がその前に立ち、丸穴を覆い隠す。
「絶対見たらダメだかんね!特に良和君!」
「分かってるよ……あぁ……残念だ」
「変態!」
茜は心底残念そうにしている良和に向かって「あんたマジでただの変態だかんね!」と叫ぶが、良和は「そぉだよー」と間延びした声で答える。
純はゆっくりと起き上がるとダイニングの片隅に腰を下ろし、ラップを呟き続けた。
「おまえ……何のつもりだよ。便所のドア弁償しろよ?」
佑太の問い掛けにも純は応じる様子はなく、俯いたままラップを呟き続ける。岳が「それより便所の穴どうすんだよ?」と言うと、良和は応急処置として厚紙を用意した。
良和がどうやって処置しようかと頭を悩ませながら岳に近寄る。
「純君、そんな飲んでたっけ?」
「そもそも飲んでないんじゃないの?夜中仕事だろ」
「あー……そっか。どうしちゃったん、あれ」
目を向けると佑太に叱責されながらも純は何かを呟き続けている。純を見ながら岳は眉間に皺を寄せながら「知るかよ」と言う。
茜は純に声を掛ける事なく、その傍らに腰を下ろす。矢所が純を叱責し続ける佑太を見上げて言った。
「佑太!もうやめなよ!純君おかしくなってんじゃん!」
「は?こいつが出て来なかったんが悪いんだろ」
「あんたのせいでこうなったんじゃないの!?」
「何がだよ!俺関係ねぇだろ!何でもかんでも俺のせいにすんじゃねぇよ!」
「いつも悪さばっかりしてるからそういう目で見られるんじゃん!」
「あっそ!はいはい、俺が悪いですよ。分かりましたよ。あー!くだらね!」
「くだらないとか何なの!?ムカつくんだけど!」
「やめなよ!」
業を煮やし、空気を切り裂いた茜の一声に二人は押し黙る。
「今のは矢所さんも悪いよ。お互い謝って」
「え!だって藤森佑太が……」
「だってもロッテもない。はい!お互いごめんなさいして」
佑太が先に「ごめん……」と言うと、矢所も「まぁ……私も……すいません」と謝る。
茜は肩をすくめ、純を指差す。
「この人が一番悪い!トイレに篭るとか最悪だかんね。聞いてんの?」
茜の声に純はかぶりを振りながらも、ぶつぶつと呟きを止めようとはしなかった。
「また逃げてるんだよ。そうやっていっつもいっつもさぁ!もういい!皆、飲み直そう」
「そうしようぜ。カクテル作るから皆集まれよ」
岳がアルバイト先のスタッフに聞いた「パライソ」というリキュールを手に腰を下ろす。良和が「ヤリたくなる酒!」と茶々を入れると、岳は笑いながら人差し指を口の前に置いた。
リキュールと溶け合うグレープフルーツの上にオレンジを入れ、静かにかき混ぜるとコップの中は美しいコントラストを描いた。
千代と佑太が上手くいくように、と非常に微かな祈りを込めて岳はそのカクテルを作ったがそれを真っ先に一息に飲み干したのは矢所だった。
「うまーっ!これって大人の味っていうか、ムラムラしちゃう系でしょ!?」
目を見開きがらそう叫んだ矢所に岳は「そうね」とだけ答えて苦笑いを浮かべていた。
純は再び始まった嬌声のすぐ傍で俯き続けていた。時折茜が目を向けたが、純の様子は置物のように変化する事なく時間だけが過ぎていった。
そのまま深夜を過ぎた頃に会は解散となった。帰り際に「また定期的に飲みたいね」とそれぞれ話し合ったが、しばらく飲む予定はないだろうと岳は感じていた。
そして、解散後もなお部屋の片隅でラップを呟き続ける純を見て岳は溜息をついて額に手を置いた。
しかし、その翌週だった。岳のバイト中に佑太が満面の笑みを浮かべながら店にやって来た。
「がっちゃん!この前と同じメンツで飲んでるから行こうぜ!」
「はぁ!?また飲み会!?」
「いいじゃん!行こうぜ!」
「まぁいいけどさ……」
岳のバイトが終わるまで佑太は暇を持て余し青柳に絡み続けていた。「髭剃れよ」「息がクセェぞ」「いつ辞めるの?」等、言われるたびに青柳は「すいまへん」と頭を下げ続けていた。
佑太の車でアパートへ向かい、玄関を開けてダイニングを眺めるとそこには先日と全く同じ顔触れが並んでいた。
「勝ってーくーるぞと勇ましくー!」と腕を振りながら歌う猿渡に合わせて良和が「日本帝国!天皇陛下ばんざーい!」と万歳をしている。そのすぐ真横で茜達は何事も起きていないかのようにガールズトークを繰り広げていた。
玄関を上がった岳は「向こうの部屋でやれよ」と良和と猿渡に一声掛けると、すぐに茜に訊ねた。
「ずいぶん急だったけど、今日は何の集まり?」
その言葉に茜と関口は顔を見合わせ「いや……」と言う。茜が「暇だったら来ただけ」と言うと千代が「寂しいんだよぉ。がっちゃんも飲もうよー」と冷蔵庫からビールを取り出した。
純に目を移すとポケットゲームのテトリスに夢中になっていて、それは飲み会というよりも本当にただ暇で集まっているように見えた。
強制感の欠片もない自由な空気に岳は安堵するとすぐにビールを空にした。
純は岳の隣に腰を下ろすと「この前は悪かったね」と頭を下げた。岳は笑いながら「便所ラッパー」とからかうと純は「いやいや……」と笑みを浮かべる。
心の奥底に例えようのない不安を抱えているのは何も純だけでは無かったのだ。
子供のままでは居られない事が分かってはいても大人に成りきれない彼らにとって、このアパートこそが唯一安心出来る居場所となった。
それから毎週末になればアパートには誰かかしらが必ず顔を出していた。
酔い覚ましに岳が散歩をする。いつか小さな頃に歩いた事のある山や歩道を、月が青く照らしている。
夜に鳴き始めた虫の声に夏の近さを感じ、耳を澄ましていると聞き覚えのある声が遠くから聞こえた。
それは誰よりも大きな声を響かせて笑う千代の笑い声だった。
二百メートルは離れているはずのアパートから聞こえるその声の大きさに、岳は夜空の下で一人笑い声を上げた。




